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by morristokenji

モリス、バックスの『社会主義』その8

     第8章  近代社会:初期段階

 17世紀の幕開けまでに、中央集権的な官僚君主制が完全に確立した。否、少なくともフランスでは、近代的な政党政府の誕生を見たのであり、それは実際に立憲制のベールのもとで進み、以後総ての近代政治のタイプとなった。リシュリーが、その時はビスマルクの時代だが、一連の首相あるいは一時的な王の最初だが、それは階級社会の利益の中での統治であって負債は多くなかったが、彼らの仮面や世襲による偽の王に守られていた。イングランドでは、バーレイのような人々は、そのタイプをめざしたが、この首相の制度は完全ではなかった。エリザベスは、チューダー王朝の君主制を不条理で滑稽な君主制に後退させ、それが個人的な野心や強欲の満足のための極めて無原則で邪悪に満ちた闘争を次々に助長したのだが、彼は高い地位や権力を恣にするほかの総ての悪徳には臆病だった。
 16世紀の終わりと17世紀の初めまでの間、その時点の経済的、宗教的な革命により、人々の生活状態は厳しく抑圧された。そして「自由な労働者」は、発展しつつあった商業の利益の中で、「自由」を誇示したのだが、その原因の十分な力を感じていた。他方、英国では、土地からヨーマンが収奪、耕地の牧場への転換が進み、これら自由な労働者の人口増大をもたらした。彼らは、他方ではまだ幼稚ではあったが、徐々に地方の工場制手工業で働くことになった。しかし、それは一種の半浮浪者の創出だったし、彼らは上層や中層の階級にとっては、厄介者だった。ヘンリー8世とエドワード6世の統治の時代には、これら貧乏人に対しての法律が、ひどく残酷なものになり、無数の人々が路上を放浪した。
 エリザベスの時代は、まだ悪を治療するのに十分でなかったことは明らかだが、むろん宗教団体の圧力で集められたのだが、部分的に労働者が一時的に住んだり、食を得たりする機能を持っていた。それゆえ救貧法が、この悲惨さのために通過したが、変な言い方になるが、その時代に処遇された貧困者からすると、期待した以上はるかに人道的だった。実際、今世紀の初めには、功利主義の慈善家が、より厳しい方法で対処しようとしたのだ。そのため我々には、救貧法が非人道的、残酷なものになっている。17世紀の中葉に向けて、わが労働者にとって、事態が改善し始めた。都市の発展が、農業を刺激したし、耕地が利潤を求める新しい耕作方法の下で、再生し始めた。事実、事態は安定し始め、新たな産業革命に対しての繁栄に似た時代が準備された。
全体的に人々の状態は、イングランドより大陸の方が悪かった。農奴制は、むろんフランスでは消滅していたが、とくにドイツでは、農奴制が封建時代より、はるかに重いものになっていた。また、商業面の搾取も、いろいろな面で追及された。他の面での中世の復活が、ドイツではギルドがかなりの生命力を持っていたし、イギリスでのように、人々は土地から解放されていなかった。けれども市場で優勢になる競争が、半ば消えかけていた関税を残すことにより、人々の営利活動を妨げる結果となった。同時に人々は、宗教が直接の口実だが、恐ろしい戦争に打ちのめされた。
 この一連の最初の戦争は、オランダにおけるカソリック系外国人、スペイン人に対する戦争であり、チャールズ5世一家の事件に巻き込まれた。例えば、エグモンやホーンなど貴族は、反逆者の側だったが、戦争は主にプロテスタントの教徒の利益に立ったブルジョア民主主義の戦争であり、ゲルマン民族のラテン民族への感情により助長された。それは革命的なサンキュロットの要素の当て込みも見られるが、荒っぽい船乗りのひどい厳しさが示すとおり、人々の帽子には「ローマ法王よりも良いトルコ皇帝」との印が付いていた。
 ドイツでは、30年戦争として知られる戦いであり、ドイツ帝国の巨大家臣団の戦争だった。それ以前は、権力の影響がチャールズ5世一家の増大のために使われ、また北方の国々へ向けてのカソリックの強化のための戦いだった。ついでながら、これらの国々はまた、帝国の規制に従っていた点では、十分に絶対主義者だったことも想起されたい。この悲惨な戦争は、不幸な人々に一層厳しい影響を与えた後まで、それらの人々は家畜よりはるかに慈悲や配慮もなしに扱われてきた。また、我々の時代に近づいた時点で、ようやくそこから抜け出る状況へのドイツの勃興する文明が破壊された後、それらを作り出したプロテスタントとカソリックの限界を脱しながら、しかし目標もなく悲惨な状況がダラダラ続く事になった。しかし、親方や官僚的な王候、騎士達に対しては、人々は全く無防備なまま放置されていたのであった。
 フランスでは、こうした宗教的闘いはひどい形をとったが、ドイツよりははるかに政治的だった。指導者達は、片隅に追いやられた彼らの教義を変えようと準備していた。例えば,聖バルテルミーの大虐殺の時代のナバラのヘンリーなどである。フランスでは、一般的に同感する点では、むろんプロテスタントに好意的であったし、聖バルテルミーの大虐殺でもユグノー派に風当たりが激しかったし、他でもそうだったに違いない。偉大なユグノー派のリーダーであるナバラのヘンリーは、ユグノー王になったが、事実彼の後継者は、結果的に勝利は収められなかった。ヘンリーはプロテスタントを辞めなければならず、仏ではプロテスタントの王は不可能だった。
 英国では、大きな闘争は遅れた。その結果、ピューリタンの側に勝利が決まった。メアリー=チューダー「血なまぐさいメアリー」とともに、熱狂が起こった。そして、彼女の後継者の下でのカソリックの反乱では、人々の気持ちは最初はカソリックの側にあった。しかし、ジェームズ1世の時代には、英国ではカソリックは死んでしまった。彼の政府が発行したスポーツの本は、町や村で日曜に中世のいろいろなゲームを奨励したが、それも当時成長していた中産階級の気持ちにアッピールするものだった。ここに、最初の奇妙な「安息日厳守主義」宣言がある。これは、この島に限定的であり、またその起源も非常に不明確であって、ジョン・ノックスやカルビン自身のような創成期のカルビン派からのもので、魅力的ではなかった。
 イングランドの海上権力は、中世とは対照的な後期チューダー時代に始まるが、その時点では航海のことは、殆ど国家的重要性が無かったし、北海の航行はほぼ完全にフランダース地方やハンザ同盟の人の手にあった。しかし、エリザベスの下で英国の船乗り、ジェントルマンの冒険家や商人が、アメリカ発見の刺激を受け、現実的な貨幣獲得の打算、恐怖や血を流す必要も無く商業の武者修行が出来る期待、また途方も無い富の遺産が待っている、その新世界探検への航海に向けて船を仕立てることになった。彼らは実際に、半球でスペインと戦うために出かけたのだ。そして、彼らの向こう見ずな勇気やすぐれた船員達が、途方も無く沢山の富を確保し、英国の商業的事業の基礎を築いた。それにより彼らは、かっては陽気で、怠惰で、大らかだった人達を,その大変な度胸は会計事務所の度胸だが、猛烈な取引業者や休み無き守銭奴のような、下劣な国民に変えてしまった。そして、その大部分は土地や海で雇われた人々の厳しい生活の負担の代償によるものだった。
 総ては、宮廷とブルジョア階級との間の、次の支配に生ずる戦いに向かうのだが、それはまた宗教的と殆ど同じくらい政治的なものでもあった。
一方フランスでは,古い封建主義の最後の名残が、マザランと彼の堕落した官僚に対する「フロンド党」の党派の戦いだった。最終的に、ルイ14世は彼の貴族を廷臣の間で上げ下げすることを強化し、仏の君主制を仕上げようとした。他方、彼の大臣コルベールは、直前まで非常に低く衰退していたフランスのマニュファクチュアを強化し、その監督と能吏による徴税機構として王国を成長させた。それゆえ、宮廷でダンスに参加するのに費用が掛からなかった貴族の収入にも、手を触れる必要が無かったし、他にも何も掛からなかった。その世紀は、フランスの君主制が総ての家臣を制圧することで始まった。それは、大なり小なり総ての家臣を宮廷の状況に対して縮小することで終わることになった。こうした事は、田園には全く影響のないことだったし、地代は低下した。地代は単に最悪のタイプの不在地主に対してのもので、人々の飢えやブルジョワの怒りの犠牲でまかなわれるという特権が与えられていた。それが又、宮廷の栄光の基礎を支えていたのだった。
by morristokenji | 2010-07-09 14:27