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by morristokenji

モリス、バックス『社会主義』その9


   第9章  革命への準備―英国

 我々は、ここで王と議会の間の英国で起こった大きな闘争の意味について、少し述べるべきだろう。王、チャールズ1世は、チューダー期に始まった絶対君主主義を完成させる目標だったが,一方同じ時期に、彼にとっても方向性がより明確になった。なぜなら、貴族と王との間の古くからの反目が全く消滅したからであり、前にも述べたが貴族が強力になり、しばしば手に負えない封建的な家臣となって、その目的や利益が君主のそれと一致する廷臣となったからだ。他方、ブルジョアジーの側に立つと、成長する商業の上に大きく繁栄し強力になったのであり、単に社会的,経済的自由にとどまらず,国家煮の支配をも目標とするに到った。クロムウェル自身、ヨーマンや田園地帯の大部分が味方したブルジョアジーに依存したのであった。
 議会の権限の確定をめぐっての闘争が、議会筋で始まった。この権限は、主に時代の産物ではあったが、ぺダンティックともいえる擬似歴史的な憲法へ向けての努力表明だった。恐らく反乱軍による最も憲法的な法律が、王の生命のための裁判の法律となったのであり、少なくともエドワード2世の有罪が一つの先例となった。しかし、議会の戦いが市民の戦いに席を譲り、ブルジョアジーが指導的地位を与えられなければ、反乱軍も最悪だったことは明らかだった。そこで、この偽の歴史的立憲主義が神聖国家の注入とともに、共和政体主義ニ最初の地位をあたえ、また最終的には名目の独立議会の浅薄なベールには耐えられなかったが、勝利した将軍の独裁に地位を与えた。ハッチンソン大佐のように、純粋な共和主義者が不満を述べて厳しく鎮圧され、中には水平派を教えなければならなかったが、その教義には16世紀前半のライデンのヤンにより提起された同じような性格の仕事も含まれてはいたが、宗教的熱狂者により試みられた小さな反乱の噴出にはなおさら厳しかった。
 英国での拡大された盛況と主義の成長を反映して、それは実に人口全体を包摂したが、それは何の政治的変革をももたらさなかった。闘争における両陣営が、バイブルのフレーズやイラストに没頭し、他のことについては英国版が広く人々に読まれるだけで、他に何の価値も無かった。
 他方、勝利した清教徒の厳格さや護民官の鉄の規律は、政府の荒っぽい機械的組織を日ごろ恨んでいた人々には、不評であった。いつまでも寛容主義が多数でもっとも強力であり、それが最後に英国において伝統的な君主政治の復活をもたらすことが、野心的な少数の利己主義者には容易になった。
しかしこのスチュアート王朝の復古は、全くの間に合わせだけで、クロムウエルの絶対主義の行った事以外、何も残らなかった初期の革命の過敏な原理から逃れるだけの理由だった。国は、国家的でなく、カソリックの傾向で堕落した宮廷とは同調しなかった。国自身は、清教徒主義の厳格さから免除されていただけで、まだ清教徒だった。チャールズ2世の「日曜法」は、一層さえなかったものの、立派な種類の清教徒主義に合法的刻印を与えた点で歓迎した。熱狂的な清教徒主義は、もはや支配的ではなかったが、消滅はしなかった。ジョン・バイヤン「巡礼」が、その時代の文学の退廃の中で、宗教的ロマンスを映し出した。クエーカー教徒は、はじめレベラーの平和で宗教的な側面を示していたが、迫害にもかかわらず上昇成長し、繁栄をみた。我々が前章で触れたスコットランドのカメロニアンは、死に体となった熱狂には、効果的と思われない武装抵抗を試みた。一方、大西洋を渡った初期の清教徒の子孫たちは、その殆どが清教徒をもっとも残酷に迫害した神聖主義theocraticの政府を持続させた。けれども、少しずつ総てが魅力を失い、なおざりではないものの、英国のプロテスタントは死滅しテ、世紀の終わりには極度の無関心主義に陥ってしまった。政治も宗教も、もはや何の連携も無くなり、清教徒の宗教的側面、福音主義もここでは消えたものの、ウイットフィールドの指導の下で、次の世紀には再び脚光を浴びるに到った。
 英国の清教徒主義は、このようになってしまったが、それがはっきり定着し公的にも残された点では、ジェームズ2世のローマ・カトリック教を恨む程度には強力だった。その憤激を感じさせるものがあった。同時に、チャールズ1世の時になると、立憲主義が反絶対主義者になり始めた。それはクロムウェルの鉄のような、チャールズ2世の狂気の絶対主義に阻まれはしたが、再び合流して明確な形をとるようになった。スチュアート王朝は、ジェームズ2世に代わって、イングランドから出発した。立憲王制がウイリアム・オレンジ公で確立し、立憲政党の政治が始まった。
 中断はあったが、イギリスで中産階級革命が遂行された。他の革命と同じように現実に到達する地点に達した。しかし、それまで進展には、多くの助力や重要な部分で失敗もあり、多くの振幅が避けられなかった。宗教的な清教徒的熱狂が、とくに最初、中産階級の発展にとり反動的な障害物を除去する役割を果たした。しかし、この革命の提起した最終的目標,産業の搾取により個人的な利潤を引き出すことに対し、それを乱すかもしれないあらゆる気勢から自由になる強力な中産階級の創出と云う目標,それを傷つけ兼ねない要素として消去されねばならなかった。
 その時から我々の時代まで、英国で顕著な政治生活は  に包まれたいる。一面では、トーリーの名前で受け入れられる他には実践的成果が含まれない、全く非現実的な感情の形で封建主義の最後の残滓がかすかに奏でられた。多面では、民主主義に向けての僅かな感情、それは顕著な政府の下で静かに形成を見た民主制への手掛かりを掴むと言うより,王と議会の間の闘争の古くからの伝統的感情の復活だった。
 18世紀の始め、イギリスは強固に安定していた。妨害となっていた総ての古い要素や熱望は、制度的に官僚制度の方向にまとまり、宗教は国家の形式として認められたが、地方の共同生活には何の影響も持たなくなり、その現実は単に個人の感情だけで、実際上の事業生活に対しては、何の負担にもならなくなった。消滅した絶対主義者の反動的残滓は、危険な兆候さえあれば怠惰であっても、簡単に掃蕩されてしまった。貴族は、ブルジョア階級の上層に過ぎない。また、地方の繁栄やアメリカやインドでのドイツ人やフランス人の確保、そして植民地や海外市場の基礎造りが始まり、海軍が総て海上に君臨するようになった。労働者は15世紀以来、この時代ほど良い時代は無かった。しかし希望は無く、退屈で、冒険的でもないし、知的でもなかった。絵画は、実際には死んではいなかったにしても、宮廷画家やあるいは醜悪で愚劣な紳士淑女のそれにより代表された(いわゆる画家の王ヨシュア)。文学も、アディソンやポープのような、少しの言葉を操るエッセイストや散文詩人によって産まれたが、彼ら自身の言葉の過去に於ける男らしく、情熱的、あるいは高尚だった何事にも、散々に侮蔑して自慢した。一方、古典時代への彼らの貢献は、ルネッサンスの本物で強力な熱望から生まれたが、表現の気取り以外は何も無く沈んでしまった。
 そこで、ここではイングランドで、少なくともその間、封建制度の消滅が何に終わるのか、を見ることから始めたい。中世イングランドは去り、人々の作法や考えも大きく変わった。彼らは英国人と呼ばれているが、「出し抜いて後悔する」のが不公正、とする15世紀イングランドに住んでいた人間とは違っている。その時、財の生産や分業について支配していたギルドの支配は、まだ無かった。その時、人々は芸術や文学の両方に参画していた、と云うよりそれら両方が人々自身により生産されていた。戦闘的な清教徒は去り、冷静な形式の山の下に深く埋められた。イングランドはブルジョアであり、その全生涯を通しての成功者なのだ。熱望しなくても、どんなものへの自己満足が余りに完全であり、新しい種類の発展のため力を結集しつつある。それは新しい春に向けて息づく国だった。
 その繁栄の自己満足のもとで大きな変革が誕生する。産業革命であり、英国はまさに、その変革に向けて自己を待機させていることだけを書いている。その繁栄と強固な官僚的立憲政治、否、国全体の生活の標準の水準ですら、この変革と豊かになる自然資源の拡大に向けて、総て注目するに到っている。封建制の崩壊、財の生産と商品の単純な交換という個人的手法に対する攻撃は、この時期の最終的な発展に行き着かざるを得なかった。つまり、大工場制度の勃興である。その発展の時点は、もうすぐ手の届くところに来ている。成長する世界市場は、伝統的な生産方法が供給する以上のものを必要としているのだ。
 政治的偏見もまた、その必要に道を譲り、あらゆる障害が労働のための新しい画期の到来の前で掃き清められ。それにより、若し大きな変革が手に届かない事になれば、それに代わり、人類がに今まで起こった事のないような最大の災害が降りかかるだろう、そう言うエポックなのだ。
by morristokenji | 2010-07-29 16:28