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by morristokenji

補注:パリ・コンミューンの評価をめぐって

 すでに説明したが、『社会主義』では第8章から、論文では第4章からになるが、「近代社会:初期段階」以降では、章別に関する両者の相違がなくなり、従って中世以前の前近代社会の取り扱いとの違いが目立つている。すでに述べたとおり、前近代社会については、①唯物史観に基づき階級社会ととらえるか?②それとも共同体社会の歴史的変化とするか?この重大な問題提起を意識し、モリスは3章を倍増させ、7章建てにして、内容も全面的な書き換えを試みた。共同体を重視した内容を明確化させたのである。こうした書き換えを行った理由としては、70年代以降の社会主義をめぐっての国際的論争が意識されていたものと言えるだろう。
 それに対して、近代社会に入ってからは、大きな書き換えがない。部分的な修正・加筆、部分的削除などは、かなりの個所で行われている。しかし、論旨の運びは、ほとんど変更なく展開されているのであり、それゆえ章別についても論文を踏襲することになった、と言えるだろう。そこで、章別に表現されている論旨の展開だが、モリスにとっては、1871年のパリ・コンミューン(第12章)に焦点を当てて、ユートピア社会主義からマルクス主義への発展と転換を位置づけようとしていると思われる。そうした角度から、少し論点を提起してみたい。

 まず第1に、言うまでもなく、マルクスやエンゲルスにとっては、1848年のドイツ3月革命が、非常に大きく意識されていた。とくにマルクスにとっては、「新ライン新聞」を中心に、革命運動に直接関わっていたし、またエンゲルスは、ロンドンに亡命したマルクスとは別個に武装闘争にも参加し、「将軍」とあだ名されるほどだった。つまり、いわゆる48年革命を強く意識しつつ、初期から中期のマルクス・エンゲルスによる理論構築が行われた。こうした理論構築の特徴は、2人が共にドイツ出身であり、また48年の革命に実践的に直接関与していたことから、ある意味では避けがたい時代的・環境的制約とも言えるだろう。
 第2に、48年革命は、前年の47年の金融恐慌による経済的危機によって起った社会的混乱、それが政治的運動に連動した。それゆえ恐慌=革命テーゼが、容易に定立されることにもなったと言える。ただ、47年恐慌は、イギリスに始まる産業革命を基礎とした周期的恐慌現象だが、次第にヨーロッパ規模に拡大していた。つまり、イギリスの1825年恐慌に始まり、36-37年の米・英、それが47年の段階では独・仏をも巻き込み、全ヨーロッパ規模に拡大した。ここで、ようやく世界金融恐慌の形態を整えるとともに、後進ドイツ、そしてフランスの革命情勢を誘発したのである。しかし、先進国イギリスでは、恐慌の規模拡大にもかかわらず、独・仏など大陸のような革命情勢には結びつかなかった。
 第3に、48年革命は、2月にパリで起った革命から始まったが、それは仏大革命の後産とも言えるブルジョア的市民革命であった。そこではブルジョアジーとともに、プロレタリアートの活躍も目立っていたし、サン・シモン、フーリエ、プルードンなど、ユートピア社会主義の影響を受け、社会主義的共和制の要求も強まった。しかし結果的にはブルジョア共和派の勝利に終わり、さらに王党派の進出もあり、ルイ・ナポレオンの政権掌握に道を開いた。さらにパリの2月革命が、ヨーロッパ的規模に拡大、とくにドイツでは3月革命として、ブルジョア革命と民族的統一の運動が結びついて革命情勢が高揚した。上記のマルクスやエンゲルスの「新ライン新聞」も、ドイツ共和国を主張していたが、しかしブルジョア的市民革命の枠を出るものではなかった。ここでも、結果的には反革命が勝利して、再び反動の時代に逆転したのであった。

 48年革命が終息し、19世紀後半を迎えて、モリスも説明している通り、一方でイギリス産業革命が拡大・発展、ヴィクトリアのハイタイム期が到来し、政治的にも相対的安定期を迎えた。イギリスを先頭に、ヨーロッパ先進国では、機械制大工業にもとづく資本家的生産様式が確立、資本主義社会が本格的に発展することになった。しかし、こうした資本主義社会の確立は、約10年を周期とした近代的周期的恐慌とともに、労使の階級的対立、さらには新たな政治的混乱をもたらすことになった。70年代を迎え、早くも資本主義社会の内部矛盾が激化,拡大,発展することになる。そうした中で、19世紀最大の都市反乱であり、フランス大革命に始まる一連のパリの革命運動の頂点となった、71年パリ・コンミューンが起った。この反乱こそ、以後の世界各国の労働運動、社会主義運動に多大な影響を与えたが、このパリ・コンミューンについて、マルクス、エンゲルス、そしてモリス達が、どのような評価を下したか?まず、48年革命と対比して、その対応について見ておこう。
 
 第1に、48年革命の敗北の後、マルクスもエンゲルスも、相次いでイギリスに亡命し、マルクスは経済学の研究に没頭し、新聞や雑誌にも寄稿した。エンゲルスは、マンチェスターで父親の会社経営に従事、マルクス家の資金援助の役割を担った。こうしたマルクス・エンゲルスの強い絆が無ければ、近代的・科学的社会主義の基礎を提供した『資本論』も、生誕を見なかったに違いない。モリスも指摘の通り、2人が第一インターナショナル・国際労働者協会の組織的実践に関与した点は重要だが、48年革命の政治的実践に身を投じた活動とは違う。パリ・コンミューンに於けるインターの役割も、パリ支部が中心であり、それもマルクス主義の影響より、ユートピア社会主義のプルードン主義者の影響が圧倒的に強かった。
 モリスだが、彼の場合には、政治活動に参加したのは、1876年10月、東方問題について、自由党急進派の立場で投書したことに始まった。これが、公の場での初の政治的発言であり、それに引き続いてオスマン・トルコでの残虐行為に関する「東方問題協会」に関与し、役員にもなった。したがって、平和や人権の問題に関する政治活動であって、社会主義社としてのの活動は、80年代を迎えてからとみていい。その意味では、マルクス主義との関連から、ユートピア社会主義、そしてパリ・コンミューンに関心を持ったと言えるだろう。
 第2に、資本主義社会の確立の基盤となった産業革命は、19世紀後半にはフランスを初め、ヨーロッパ大陸に拡大した。この資本家的生産様式にもとづき、周期的恐慌も繰り返されたのであり、世界市場での金融危機は、政治的危機に直結するより、むしろ金融パニックがバネとなって、高度な経済成長が実現されることになった。周期的世界恐慌も、71年ではなく73年であり、マルクスの経済学研究も、そうした資本主義的生産様式の発展を対象にせざるを得ないし、恐慌の周期性の科学的解明から言っても、もはや48年革命の「恐慌=革命テーゼ」は現実そのものにより否定された。マルクスは、50年代末には「恐慌=革命テーゼ」を放棄し、周期的恐慌の必然性解明のための純粋資本主義の理論的抽象による『資本論』の執筆に苦闘したのである。
 「恐慌=革命テーゼ」を放棄し、純粋資本主義の抽象による周期的恐慌の必然性によって、社会主義のイデオロギーを基礎づける。そこにモリスたちの受容すべきマルクス主義があったし、近代的・科学的社会主義のイデオロギーがあった。「恐慌=革命テーゼ」から導かれた初期マルクス・エンゲルスの唯物史観、階級闘争史観を批判的に超克した社会主義にとって、パリ・コンミューンを如何に受け止めるべきか?改めてオーエン、サン・シモン、フーリエ、さらにコンミューンの主役となったプルードン主義者の思想的営為を、ここで捉え返す必要に迫られた。そこに、モリス達の71年パリ・コンミューンの問題設定があったと言えると思う。
 第3に、48年革命が仏2月革命に連動し、独3月革命に発展した。とくに3月革命は、マルクスも「ブルジョア共和制」を主張したように、後進ドイツの絶対主義に対するブルジョア革命であり、労働者の力は微弱だった。簡単に社会主義革命に転化できるようなものでもなかった。それに比べれば、71年パリ・コンミューンは、産業革命に基づく資本主義社会の発展と、都市型プロレタリアートの拡大を背景にした、19世紀最大の都市反乱だった。革命の主役は、ブルジョア革命とは違い都市型の労働者であり、すでに指摘の通りインターに加盟した労働者などが運動のヘゲモニーを担っていた。
 ただ運動の中心は、インターのパリ支部のメンバーであり、マルクス主義の影響より、むしろフーリエやプルードンなどの思想的影響下にあった。「空想的社会主義者」の運動として、また独・仏間の戦争も絡み、当初マルクス、エンゲルスの革命への支援が積極的では無かったとも言われている。さらに、パリ・コンミューンの評価は、マルクスとエンゲルスの2人の間に差異が認められるばかりではない。むしろ、モリス達の積極的評価との違いにも注目しなければならない。48年革命、71年コンミューン、いずれも革命勢力が敗北、運動は失敗に終わっている。しかし、それぞれの歴史的評価は異なるし、引き出される教訓も違ってくる。

 その象徴的な事例は、エンゲルスによる「プロレタリア独裁」の定式である。マルクスは、革命の渦中で『フランスに於ける内乱』(1871)を書いたが、その序文の中でエンゲルスは、コンミューンによる新しい「国家」について、こう述べている。「コンミューンがこうした従来の国家権力を打ち砕き、それを新しい、真に民主主義的な国家権力と置き換えた次第は、<内乱>に第3章に詳しく述べられている。」として、エンゲルスは新しい国家形態こそ「プロレタリア独裁」と規定し「よろしい諸君、この独裁が、どんなものか知りたいのか?パリ・コンミューンを見たまえ」と序文を結んでいる。この「プロレタリア独裁」こそ、レーニンに引き継がれ、ロシア革命に生かされ、旧ソ連の「国家社会主義」のドグマとなった。
 また、この国家社会主義の「プロレタリア独裁」の見地から、①コンミューンの革命軍が、パリの武装解除に失敗した政府軍をヴェルサイユまで追い詰め、国家権力を完全に掌握しなかった、プルードン的「連合主義」の誤り、②外部からの軍事的圧力に対抗し、コンミューン議会内の中央集権化を図る公安委員会の設置に対し、直接民主主義の立場から、分権・自治を主張する反権威主義の誤り、③特にエンゲルスは、コンミューンの経済的・政治的な誤りとして、フランス銀行の接収を怠って、集権的な貨幣・金融コントロールを進められなかった誤り、などがコンミューンの限界、課題として提起されてきた。

 いずれにしてもパリ・コンミューンの評価について、マルクスには相反する2面が指摘されているが、プロレタリア独裁を定式化したエンゲルス・レーニンの国家社会主義に対して、モリス達の共同体社会主義の見地が、対抗的に提起されることになった。マルクスの2面性について言えば、1871年の時点では、まだ『資本論』2-3巻の準備中であり、モリスたちが熟読した第1巻のフランス語版も出来ていなかった。当初、マルクスがコンミューンに消極的だった理由は、一つには事態の推移を見極める慎重さもあったと思う。さらに、初期マルクスの時点で、『哲学の貧困』でプルードン批判を展開していた。この批判は、プルードンのヘーゲル理解に対する批判だが、経済学に関しては、リカード理論に基づく程度で、後の『資本論』から見れば内容的には未熟な批判に過ぎなかった。しかし、プルドン主義には感情的にイデオロギー面の反発が強かった。しかし、事態の進行につれて、インターのコンミューン支援を積極的に推進した。
 コンミューンの武装蜂起が敗北した点では、マルクスも戦術レベルで批判的指摘を試みたが、エンゲルスのようにフランス銀行の接収など、中央集権型の経済統制の全面化など、戦略的批判から「プロレタリア独裁」の定式化による国家社会主義を提起することはなかった。そこに、マルクスとエンゲルスのパリ・コンミューンに対しての評価の違いを見逃してはならないと思う。また、モリス達が自らの『社会主義』を論ずるに当たって、あえてパリ・コンミューンに一章を割いたし、さらにユートピア社会主義として、オーエン、サン・シモン、フーリエだけでなく、プルードンの思想的役割を重視したのであろう。コンミューンについても、集産主義や公開集会、直接民主制の地域権力、生産協同組合や労働者自主管理などを積極的に評価することになった。そうした自分達の社会主義の主張を、マルクス『資本論』の科学によって基礎づける点で、モリス達はマルクス主義=近代的・科学的社会主義の受容に進むことになる。  
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by morristokenji | 2010-09-23 22:04