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by morristokenji

モリス、バックスの『社会主義』:その19

                第19章  科学的社会主義:K.マルクス

 早期の社会主義の前述の章は、完全な社会主義理論、時には「科学的」社会主義と呼ばれるが、その完全な発展に十分な役割を演じたとみなすことができる。この理論の偉大な典型的人物、資本家的生産様式の最も完成された批判の著者、それは故カール・マルクス博士である。
 彼は1818年にドイツのトリアに生まれ、彼の父は公的な地位を持つ洗礼を受けたユダヤ人だった。彼は、1840年、優秀な成績で試験に合格、ボン大学で法律を学んだ。1843に、ジェニー・フォン・ヴェストファーレン、名門のプロシャ政治家の妹と結婚した。その時代の大きな社会問題に特別に配慮しつつ、大学を卒業するまでに特に哲学と経済学を勉強していた。この勉強が、彼を社会主義に向かわせた。その結果、重要な政府の地位の申し出を、断らざるをえないと感じた。この時点でトリアを離れてパリに行き、そこでアーノルドルーゲと一緒に『独仏年誌』の編集者となり、さらに社会主義者の雑誌『Vorwarts』を編集した。しかし、12ヶ月も経たないうちに、彼はフランスを追われ、ブリュッセルに行かざるをえなくなった。1848年3月、ベルギーを追われてケルンに逃れた。そこは革命の動乱が最高潮に達していた。彼は、直ちに指導的な革命的ジャーナル『新ライン新聞』の編集に取り掛かった。これは49年、革命運動の破綻と共に抑圧された。
 我々は、1847年に彼の終生の友、F,エンゲルスとの出合いについて注意すべきだろう。エンゲルスは、後に「国際労働者協会」の基礎となった、有名な『共産党宣言』を提起した。
 マルクスは1849年、パリにまた戻り、短期間しか留まらなかったが、その後フランスを離れ、ロンドンに赴いた。短い中断はあるものの、その後1883年の春彼の死まで、終生そこで過ごすことになった。
 彼がイングランドに滞在中、政治的活動として行った主な仕事は、「国際労働者協会」の組織化だった。
 彼の著作の最も重要な『資本論』の他に、エンゲルスとの共著『聖家族』、前の章であげたプルードンへの回答『哲学の貧困』、反ナポレオンのパンフ『ブリューメール18日』、そして『経済学批判』は、偉大なる著作『資本論』の基礎となった。
 最後にあげた『資本論』の重要性からいって、社会主義者による経済学の簡単なスケッチを行う限りで、ここで主要な章の内容を示すことが必要である。
 第一部は、商品と貨幣である。第一章は、商品を定義している。マルクスによると、商品は他の同じ様な有用な労働生産物との交換の関係で、社会的に必要な労働生産物と簡単に説明されている。この商品の価値は、まずはそれに含まれる社会的に必要な労働量である。すなわち、ある社会状況において、その生産に必要とされる一定の平均的な労働量である。諸君は、マルクス自身が価値と言う言葉では、このような意味で使用しているのに注意すべきだ。簡単には、対象化された平均的な人間労働の量である。使用価値という言葉は、文字どうりの意味である。交換価値は、市場では交換される他の商品、他のあらゆる商品との現実的関連での商品価値である。価値のいろいろな表現の最後のものは、貨幣形態である。しかし、マルクスの言葉によれば、貨幣形態への段階は、「直接かつ全般的な交換可能性、言い換えれば一般的等価形態であり、それが現在は社会慣習的に生身の金で具体化されている」のである。
 第2章は、交換に関係する。マルクスが言うには、交換には商品自身が出て行かれないので、商品の所有者、保持者が予め前提されている。商品は、その所有者にとっては、交換を求める以上、使用価値が目的ではない。マルクスは、「あらゆる商品は、その所有者にたいしては非使用価値であり、その非所有者にたいしては、使用価値である。商品は、こうして全般的に持ち手を換えなければならない。しかし、この持ち手の変更が、その交換をなすのである。そして、この交換が商品を価値として相互に関係させる。さらにこれを価値として実現する。したがって、商品は、それが使用価値として実現されうる前に、価値として実現されねばならない」と述べている。
 そこで商品は、すべての商品の中から、一つだけ一般的価値を表現するものを見つけ出さねばならない。それは、それ自身が価値の抽象物を表現し、象徴化するものでない限り、その使用価値を持つことは出来ない。
 第3章は、貨幣形態の下での商品流通に関するものである。ここでマルクスは正しく見抜いている。「あらゆる商品は、価値として対象化された人間労働であり、したがって、それ自体として通約し得るものであるから、その価値を同一の特殊な商品で、共通に測り、このことによってこの商品を、その共通の価値尺度、または貨幣に転化しうるのである。価値の尺度としての貨幣は、商品の内在的な価値尺度である労働時間の必然的な現象形態である。」
 この長くて重要な章において、流通する貨幣、通貨の理論に関して、かなり長く詳細に論じられている。
 問題の解決は、以下のように行われる。つまり、貨幣の所有者は、彼の商品をその価値で買はねばならない。そして、過程の目的は剰余の実現であるにもかかわらず、彼は商品をその価値で売らねばならない。これが、彼の資本家としての存在の目標、意図であり、もしそれが達成できなければ、彼は資本家として失敗である。そこで、彼の単なる貨幣所有者から全面的な資本家への発展は、流通の局面の内部であると同時に、外部で行われなければならない。つまり、彼は商品交換の法則に従わねばならないし、にもかかわらずその法則に明らかに矛盾して行動しなければならない。この問題は、単に彼の持っている貨幣の機能だけでは解決できず、いわばその価値は石女になってしまう。リカードが言うとおり、「貨幣の形態では、資本は利潤を生まない。」貨幣として、それは保有されるだけなのだ。
また、「物品がその物的形態から貨幣の形態に変わっただけに過ぎない」商品の単なる転売では、剰余は創造されない。残された唯一の選択は、最初の段階で貨幣により購入された物品の使用価値に変化が生じ、資本家がそれを活用しなければならない。「ある商品の消費から価値を引き出すためには、わが貨幣所有者はきわめて幸運でなければならないのであって、流通部面の内部、つまり市場において、一つの商品を発見しなければならない。その商品の使用価値が価値の源泉であるという独特の属性をもっており、それゆえその実際の消費が、それ自身労働の対象化であって、かくて、価値創造になるというのでなければならない。そして貨幣の所有者は、市場でそうした特殊な商品を発見する、労働の能力、もしくは労働力がこれである。」
 マルクスは、労働力あるいは労働の能力によって、商品を生産する行動をもたらす人類の精神的・肉体的能力の総て、簡単には富を創造する機械として、それを理解している。
 今や、貨幣の所有者が、彼の成果と目標を達成するために必要なもの、つまり市場に商品としての労働力を発見するためには、様々な条件が必要である。
 資本家の利益のために、人間は労働力を訓練しなければならないが、そのためには労働者が「自由」でなければならない。即ち、彼の労働が彼自身の処理で行われなければならないし、また彼は労働力以外に生活のために何も持っていないことが必要である。他方、誰でも労働力以外に、商品を得ることにより生きていかねばならないものとしては、生産手段がなければならない。商品を市場で手に入れ、また貨幣に交換されなければならない以上、生活手段もまた、市場で貨幣と交換されるように商品として準備されねばならない。
資本家やこの労働力の生活に必要な物品の価値についても、他の商品と同じように、その生産もしくは再生産に必要な平均的な労働時間により決定されねばならない。すなわち、社会の与えられた状態において平均的に必要な時間であり、簡単に言えば、この労働力の再生産は、労働者の生活維持を意味する。「与えられた個人にとって、労働力の生産は、彼自身の再生産、または彼の生存から成り立っている。」
 労働力は行動においてのみ、つまり実際の労働、商品の生産として実現される。そこで「労働力の価値は、一定額の生活手段の価値に分解される。それゆえ、その価値はまた、この生活手段の価値とともに、すなわち、その生産に必要な労働時間の大きさとともに変化する。」
 労働力の価値の最低限は、それゆえこれらの生活手段の価値で決定される。もし労働力の価格が、その最低限を下回れば、それは破壊される。その価格についての値切り交渉は、売り手と買い手の間を通して行われる。それは、労働力が使われ、それにより生産された財に対象化されるまで実現されないけれども、その価格は契約により決まってくる。上に述べた事から、この契約は2つの集団の間でなされる。一方は、生産手段のない労働者、生産者であり、他方は貨幣の所有者であり、生産の行使を有効にするために必要な手段を所有し、それゆえに資本家になる。「先の貨幣所有者は資本家として先頭に進んでいる。労働力の所有者は、その労働者として彼の後に従っている。一方は、意味深長そうに愛想笑いしながら、業務に心を奪われた人のように、他方は、おずおずと嫌々ながら、ちょうど身を投げ出して尽くしても、もはや打ちのめされ他に、何も期待できない者のように。」
 資本主義に必然的な労働過程は、2つの特徴的な現象を示している。一つは、資本家のコントロールの下で労働者が働くこと。もう一つは、労働者の生産物が、総て資本家の所有に帰すこと、つまり直接の生産者である労働者のものではないことだ。この資本家により確保された生産物は、「例えば紡糸や靴のような」使用価値である、とマルクスは笑いながら言う。「しかし、たとえば深靴は、ある意味では、社会進歩の基礎をなすものであり,またわれわれの資本家は、断固たる<進歩主義者>であるとしても、深靴を深靴そのもののために作るのではない。商品生産においては、一般に使用価値は、それ自身のために愛される物ではない。ここでは一般に使用価値は、それが交換価値の物質的土台、その担い手であるがゆえにのみ、またその限りにおいてのみ、生産される。そして、われわれの資本家にとっては、2つの点が肝要である。第一に、交換価値を持っている使用価値を、売ることに予定された品物を、すなわち商品を、生産しようと欲する。第ニに、彼は、その生産のために要した諸商品の価値総額よりも、すなわち彼が商品市場で、大切な貨幣を投下して得た生産手段および労働力の価値総額よりも、高い価値を持っている商品を、生産しようと欲する。」
これは、彼が以下のように実行可能である。彼は、労働者の労働力の使用を、一日の間買っている。その一方、彼はその日、労働を続ければ、労働者が労働力の再生産に必要なものを確保するのに十分であり、生きていくことが出来る。しかし、人間機械は、総ての点で、その成果として必要とされる以上のものを,その一日に労働することが可能なのだ。そして、資本家と労働者の間の契約は、二つの階級が存続する体制で理解されるように、その日の労働力の行使は、労働力の再生産に必要な労働時間を超えるであろう。そして,当然のことだが、どんな商品の購入者もそうしているように、労働力を商品として買う者も、彼自身の利益になるように、それを消費するのである。
 この商売では、資本家は労働市場での労働力の購入と、その再生産に必要なものを超える労働の実施の結果としての成果で、資本家は生きていくことが出来る。同じように労働者も、その商売で生きるのであり、それが商品の実際の生産である。
 資本主義は、多数の個人的な貨幣所有者が、同時に多数の労働者を同じ条件で雇用するまでは、すなわち雇い主の間の利潤への一斉行動、そして雇用された者の間の雇い主の利潤のための生産に向けての一斉行動の発展までは、始まったとさえ言えない。
 「比較的大きい労働者数が、同じ時期に、同じ空間で(あるいはこう言ってもいい、同じ労働現場で)同じ商品種類の生産のために、同じ資本家の指揮の本で働くことは、歴史的にも概念的にも、資本家的生産の出発点をなす。」
 それは中世の組織、すなわちギルドや職人達のそれとは、雇用されて働く労働者の数が多い点で異なる。しかし、この新たな組織形態への変革は、同時に生産の水準や方法に非常に重要な変化をもたらした。建物、道具、倉庫など、生産手段に比較にならないほどの費用がかかった。一つの屋根の下に、労働者が集中する結果、職人達とは質的に独立した方向で親方が機能する発展だったし、生産に必要な部分として、その機能の組織を押し付けるものでもあった。ギルド職人時代の親方は、彼がよりすぐれた職人であり、仲間より長い経験を持つことで、その地位が与えられていた。彼は職種において違いがないのであり、単位地位だけの違いだった。例えば、彼が病気になっても、工房のなかでで何の抵抗も起らないし、次の優れた働き手がその地位に就いたのだった。
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by morristokenji | 2010-10-06 11:53