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by morristokenji

補注:マルクス『資本論』の解説:論理と歴史

 第19章のタイトルは「科学的社会主義:K。マルクス」であり、もっぱら『資本論』の解説がおこなわれている。エンゲルスからは、センチメンタルなユートピア社会主義者と呼ばれていたモリスだが、バックスと共にモリスは、はっきりと自らマルクス主義者であり、科学的社会主義者と自認しつつ、『資本論』の解説に臨んでいる。このようなモリスの立場からすれば、マルクスの思想や理論が、既にこの時点において、一方のマルクス・エンゲルスの流れ、それと他方のマルクス・モリスの社会主義、この2つに大きく分岐しているのである。
 そうしたマルクス・モリスの立場は、マルクス『資本論』の紹介・解説にも、端的に現れている。すなわち、初期マルクス・エンゲルスから『経済学批判』まで維持されていた、イデオロギー的仮説に過ぎない「唯物史観」を先ず前提し、その「唯物史観」の枠組みの中に、『資本論』の論理を埋没させる方法は採らなかった。『資本論』の論理は、機械制大工業により確立し、それによって組織化された資本主義生産方法の自律的發展の論理が、紹介・解説されている。そうした方法により、歴史と論理の関係も分離され、歴史の発展に対する新たな見地、歴史観が提起されることになっている。モリスの「社会主義」に他ならない。
 論理と歴史の関係だけではない。イデオロギー的仮説に過ぎなかった「唯物史観」を、『資本論』の論理により捉え返すことから、理論と実践、科学とイデオロギーの関係についても、①論理と歴史、②理論と実践、③科学とイデオロギーの三位一体・弁証法的統一といったドグマが否定される。実践面での社会主義運動の発展が、第20章Socialism Militantで説明される。そして社会主義の思想は、マルクスの理論を基礎に独自の社会主義論として、第21章Socialism Triumphantにおいて、具体的に展開されることになる。科学的社会主義は、エンゲルスなどの「唯物史観」に解消された「社会主義的科学」ではない。『資本論』の科学により基礎づけられた社会主義イデオロギー、つまり「科学的社会主義」として、人間解放の主体的実践の意義が説かれるが、それらについては後述しよう。
 ただ、第19章では、『資本論』が40ページに及ぶ量で紹介・解説されている。先行「論文」の段階では、既に紹介したとおり第15章から第21章まで、『資本論』の内容が7章にわたり細分化して解説されていた。ところが「著書」においては、7つの章の全部が第19章に一まとめになっている。無論、モリスの方法的立場は、ここでも堅持されているが、ただ説明上の便宜かと思われるが、若干の変更が施されている。しかも、変更の内容に関しては、単なる改善とはいえない変更も認められる。そこで以下、主な変更箇所を取り上げて、検討してみたい。 
 まず、商品、貨幣、それに続く「貨幣の資本への転化」についての説明に変更が見られる。『資本論』の特色は、資本の概念を古典学派や近代経済学派のように、単なる生産手段や「体化された過去の労働」ではなく、流通形態としての貨幣、その増殖(運動)体、そして運動の「一般的形式」をM-C-M'とした点にある。モリスも商品、貨幣を説明するが、貨幣の機能については、商品についても同様だが、ごく簡単な要約に止めている。商品の価値については、労働による価値規定、貨幣も価値尺度、続く流通手段については「この長くて重要な章で、流通する貨幣、通貨の理論に関して(マルクスが)かなり長く詳細に論じている」とだけ触れ、いわゆる「貨幣としての貨幣」など、先行「論文」での歴史的説明などがカットされてしまった。カットの理由は不明だが、貨幣から資本への歴史的な転化、いわゆる「本源的蓄積」の歴史過程への説明などに入り込むのを避け、出来るだけ簡潔な形で理論的解説を試みたのであろう。歴史と論理とを分離して、純粋に理論的展開を図ろうとしたのではないか?
 そして、いきなり「貨幣の所有者は、彼の商品をその価値で買わねばならない。そして、過程の目的は剰余の実現であるにも拘らず、彼は商品をその価値で売らねばならない。」として、いわゆる等価交換の前提では、商品の貨幣による売買だけでは、貨幣が資本に転化し、価値増殖が出来ないという矛盾を設定する。この矛盾が解決されるためには、多くの『資本論』解説書の説明と同じように、ここで労働力商品を提起し、その特殊性である労働力の使用価値が、必要労働を超えて剰余労働を提供できる特殊性から、資本の価値増殖を説明している。このようなモリスの「貨幣の資本への転化」論は、『資本論』の解説として決して間違いではないし、資本の前提に貨幣を置き、流通形態として資本を説明し、その上で労働力の商品化を提起、その特殊性から資本の価値増殖を説く方法は、大筋としては的確な説明だろう。
 ただ、後の『資本論』研究、特に日本での研究成果などからすれば、先行「論文」の段階で価値尺度、流通手段に続く「貨幣としての貨幣」で、資本の出発点としての「貨幣」の特性、さらに流通形態として資本を単純流通C-M-Cから説こうとしていた説明が、すべてカットされたのは改善ではなく、むしろ改悪ではないかと思う。そのため『資本論』が、資本の運動の「一般的形式」を、上記のとおりM-C-M'として流通形態としていた意義が、希薄になってしまったのではないか。流通形態としての資本は、価値から価格の乖離、絶えざる不均衡の均衡化から、商業活動や金融活動が必然的だし、個別資本的には価値増殖が十分に可能である。しかし、社会的かつ総資本的には、言い換えるとミクロではなくマクロ的には、産業資本として労働力商品の利用が不可欠になる。こうした流通形態としての資本の運動の解明の理論的詰めの説明が、「著書」では欠落している。そのため後述のように剰余価値論の後、「剰余価値の資本への転化」の説明に入る箇所で、再び貨幣の機能、そして資本への転化の説明を、繰り返さざるを得なくなってしまったのではないか。
 以上モリスは、「貨幣の資本への転化」の説明を簡単な要約にとどめ、むしろ労働力の商品化と、その特殊性について多角的に説明する。その上で、資本の価値増殖の説明、剰余価値論に進んでいる。ここでは、資本が市場を通して商品化された労働力を支配し、資本家的生産方法として、組織的に統合している社会的特質が解明されている。特に、協業―分業―機械への生産組織の発展による、賃金労働者の組織的統合を、中世の職人・クラフツギルドとの対比において特徴付けている。その上で、工場制手工業としてのマニュファクチュアーから、機械制大工業の歴史的意義が強調されている。こうした説明は、ほぼ先行「論文」の説明を引き継いだものだが、モリスらしい『資本論』のユニークな解説になっているのではないか。
 ところが、機械制大工業による資本家的生産方法に基づく剰余価値生産の確立を前提にして、「剰余価値の資本への転化」、つまり資本の蓄積過程の説明に進むところで、モリスは突然に上記のとおり貨幣論に立ち戻る。「今や我々は、商品の流通を考える必要な点にやって来た。」この箇所が、先行「論文」から「著書」への大きな変更箇所であり、ここでも補足的説明が必要だろう。
 モリスは、特に変更の理由を説明していないが、「貨幣の資本への転化」は、確立して自律的に運動している資本家的生産方法では、例えば一般消費者が貨幣を貯蓄して投資するのではなく、資本の蓄積に際して、蓄積資金を貯蓄し、投資して資本の蓄積を図る際に見られる。剰余価値の実現による「貨幣の資本への転化」の過程に他ならない。『資本論』でも、流通形態の資本である以上は、必ず資本の蓄積も、貨幣による蓄積資金として、剰余価値の資本化が具体化するとしている。従ってモリスは、「貨幣の資本への転化」は、貨幣論の単純流通から資本の形式をとく方法より、資本の蓄積に先行して説明するのがベターだと考えたのであろう。
 ただ、モリスの説明は、いきなり貨幣論に戻ってしまい、価値尺度や流通手段の機能、さらには「貨幣としての貨幣」の貨幣蓄蔵が「資本の芽生え」だった説明など、先行「論文」の内容とほぼ同じものが繰り返されている。さらに、ここで商人資本や金貸資本などの前期的資本の運動についても触れ、再び労働力商品による価値増殖の根拠を問いながら、剰余価値論の展開を、ここで再び繰り返えしている。その限りでは、剰余価値論の説明がダブッてしまっているのであって、再整理が必要と思われる。恐らくモリスは、「貨幣の資本への転化」の理論的詰めが不十分なまま、剰余価値を実現するための貨幣を説明しようとして、貨幣論まで立ち戻り理論的模索を続けざるを得ないまま混乱したのであろう。
 資本の蓄積過程については、先行「論文」とほぼ同様、蓄積過程の具体的内容には立ち入らず、省略されている。むしろモリスは、『資本論』の最後の「いわゆる原始的蓄積」について、立ち入っているのであるが、それは『資本論』の内容の紹介に留まらず、資本主義社会に先行する社会体制、そしてポスト資本主義社会への展望について、マルクスの説明の不備を指摘しつつ、批判的コメントの注記を付している。この注記は、初期マルクス以来のイデオロギー仮説であった「唯物史観」を超克するための重大な示唆が込められているのであって、ここで特に立ち入って検討しなければならないだろう。
 『資本論』第1巻の最後に置かれた、いわゆる「本源的蓄積」だが、モリスが利用した仏語版では、独語版と異なり「第8編本源的蓄積」として、独立の編別が与えられた。それに関連すると思われるが、独語版の第2編「貨幣の資本への転化」も、仏語版では「資本の一般形式」など、各節が章に格上げが図られている。要するに、理論的に純化された形での展開が強まり、理論を歴史的過程から分離する編別構成上の改善が施されたと言えよう。その点では、『批判』まで残っていた論理と歴史の統一の「唯物史観」から、『資本論』の純粋資本主義の抽象への方法論的脱皮に関連して、マルクスの理論的苦闘がなお続いていたことが分かる。モリスもまた、上述のとおり「貨幣の資本への転化」については、十分理論的整理が付けられぬまま、かなり混乱した処理に陥ってしまっていた。恐らく、エンゲルスなど、マルクス派の内部でも議論が続いていたものと推測される。
 そこで「本源的蓄積」の内容だが、モリスは「本源的蓄積の秘密」の初めにある有名な一節「本源的蓄積が経済学で演ずる役割は、原罪が神学で演ずる役割と、ほぼ同じようなものだ」を引用する。さらに「要するに暴力が大きな役割を演じている。穏やかな経済学では、はじめから牧歌調がみなぎっていた。はじめから正義と<労働>が唯一の致富手段だった。---実際の本源的方法は、他のありとあらゆるものではあっても、どうしても牧歌的ではなかった。」これは、A・スミスなどが描いた単純商品生産者の「文明社会」に対するマルクスの厳しい批判だろう。
 モリスは、さらにマルクスに従い、本源的蓄積の具体例として、イングランドでの「土地囲い込み運動」などを挙げ、こう述べる。「マルクスは、そこで近代的な資本家的農業の誕生を描写し、都市産業での農業革命の反動や産業資本のための国内市場の創出に触れる。その矛盾を生み出した資本家的蓄積の歴史的傾向についての章に続き、将来社会への関説として、ここで以下の文章を引用しておく必要があろう」と述べ、例の「領有法則の否定の否定」、つまり所有法則の歴史的転変の箇所を引用する。
 そこで、所有法則の歴史的転変だが、『資本論』とくに仏語版では、上記のごとく純粋資本主義の論理と資本主義の歴史的発展の区別が進んだものの、なお「本源的蓄積」を含む歴史的発展過程の説明では、まだマルクスが「唯物史観」のドグマに拘りを持ち続けていたのであろう、「否定の否定」が述べられている。
 ここで改めて紹介するまでもないと思うが、エンゲルス『空想から科学へ』の「唯物史観」に基づいた所有法則の転変の内容を図式化すれば、次のようになる。
 すなわち、①単純商品生産者を事実上想定して、私的・個人的労働に基づく私的・個人的所有、その否定として②資本家的生産方法では、生産の社会的性格に基づいて、私的・個人的所有との矛盾が設定される。この基本的矛盾が、「否定の否定」により、③生産の社会的性格に基づく、所有の社会的性格=公的・社会的所有への転変により解決を見る。この所有法則の転変こそ、レーニンにも引き継がれ、「唯物史観」の公式としてドグマ化されたのだ。
 ただ『資本論』では、定式の内容のニュアンスが微妙に違ってくる。マルクスに迷いがあったのかも知れぬが、①については、所有者の「自己の労働に基礎を置いた個人的的所有」とも、あるいは「各個人の自己労働に基づく分散的な所有」とも、表現されている。モリスは、この点に関し重要な批判的指摘を注記しているのだが、次の②資本家的生産方法に基づく「資本家的個人的所有」は、社会的生産に基づく私的・個人的所有とされ、その「否定の否定」である③のマルクスの「将来社会」の説明には、不明瞭な点が持ち込まれることになっている。
 すなわち、先ず一方で「私的所有を再現するのではないが、資本主義時代の成果を基礎とする個人的所有をつくり出す。すなわち、協業を基礎とし、土地の共有と労働そのものによって生産される生産手段の共有とを基礎とした個人的所有」とする。その上で他方では、公的所有である「社会的所有」とも述べているのだ。要するに、生産手段の共有を基礎とした個人的所有なのか、それとも社会的所有なのか、あまりはっきりしない。こうした不分明、不明瞭な点から、私的所有ではなく「個体的所有」であり、さらには独特な「市民社会」的社会主義論が主張されることになった。
 要するに、マルクスのここでの説明は、土地や生産手段の共同所有を前提とした個人の労働による所有なのか、それとも私的・個人的所有を否定された公的・社会的所有なのか、はっきりしない叙述なのだ。資本家的生産方法を否定した、共同体的生産方法のもとでの個人の労働と所有、それと国家権力を労働者が奪取して、所謂プロレタリア独裁型の国有ないし公有のもとでの労働の配分なのか、ここでは明確な区分がないまま論じられているのではないか。その点では、マルクスの「否定の否定」としての所有法則の転変は、その内容が混濁したまま、曖昧になっているのではないか。この曖昧さは、そもそも、①の先行する前資本家的生産方法の設定自身に問題があるのではないか、モリスは以下のように特別な注記を付して、論点の提起を試みていたのである。
 すなわちモリスは、上記「各個人の自己労働に基づく分散的な私的所有」(「著作」では「所有者の労働に基礎を置いた個人的な私的所有」)の箇所について、わざわざ注記している。この注は、文章は短いながら、内容的に極めて重大な意味があるのであって、モリスの原文と共に、全文ここで紹介しよう。
 「ここで使われているような語句を、誤って理解しないことが重要である。<中世>期における労働は、メカニカルな場合でも、個々別々に行われていたのだが、精神的な面から見れば、連合・アソシエーションの原理によって、かなり明確に支配されていたのだ。つまり、我々が見たとおり、その時代の親方・マイスターは、単なるギルドの代表に過ぎなかったのである。」
 ”It is important not to misunderstand this phrase as used here.The labour of the Middle Age, though individual from its mechanical side,was from its moral side quite definitely dominated by the principle of association ; as we have seen, the "master" of that period was but a delegate of the guild."
 ごく短い注記に過ぎないが、きわめて重大な意味が含蓄されている。
 第1に、もともと先行「論文」にせよ、「著作」にせよ、全体的に注記は多くない。内容の補足を超えて、内容の理解に関わる注は、殆ど見当たらない。ここの注記は例外であり、しかも『資本論』の資本蓄積論に関わり、歴史的傾向の「否定の否定」の内容的理解に関わる点で、重視せざるを得ない注記といえる。
 第2に、モリスの表現は慎重であり、『資本論』を直接批判しているわけではない。「誤解」を恐れての注意書きのスタイルだが、その内容は上記①に関わるものと言えよう。つまり、単純な商品生産者を事実上想定して、その自分の労働による商品生産物の自己所有としての私的・個人的所有という「唯物史観」のエンゲルス流の公式を、ここで真っ向から批判しているのだ。物理的に、メカニカルに見て個人的労働でも、その労働は共同体の内部で、ギルド組織のもとで、「精神的な面から見れば、かなり明確に連合・アソシエーションの原理」に基づく点を強調している。つまり①は、村落的・ギルド的な組織の労働であり、生産物もその所有であって、そうした共同体の組織が前提になり、市場の取引も共同体と共同体の間に成立するに過ぎないのだ。
 第3に、モリスが①に付した注記は、③の「否定の否定」とも関係せざるを得ないだろう。マルクスも③に関して、上記のように共同体的な労働、生産手段の共有を前提とする、共同体の復権を事実上想定していた。生産の社会化に基づく「社会的所有」は、プロレタリア独裁で権力奪取した国家社会主義タイプの公有・国有ではなく、文字通り社会的な共同体的所有を考えていたのではないか。このような③における共同体の復権との関連で、モリスは①の生産と所有についても、ここで共同体のギルド組織を明確にして置きたかったのではなかろうか。
 以上モリスは、資本蓄積の歴史的傾向の「否定の否定」について、マルクス・エンゲルスの「唯物史観」の公式に見られる単純商品生産を出発点とした所有法則の転変を、注記の形ではあるが、実際上否定したのだ。そして、村落共同体やギルド組織に基づいた歴史的転変の見地を提起しようとしていたのであり、その見地をマルクス『資本論』の純粋資本主義の経済的運動法則により根拠付ける形で、自ら「科学的社会主義」を主張したのだ。
 ただ、「貨幣の資本への転化」に関しては、経済学が専門でなかったモリスにとって、歴史の理論化の試行錯誤に苦悩せざるをえなかった。問題を未解決のまま残してしまった、と言えるだろう。しかし、労働力の商品化による賃労働に基づいた、機械制大工業の組織による大量生産・大量消費のシステムからの歴史的転換を、モリスは中世ギルドの組織に学びながら、新しいコミュニティの復権に求めたのである。『資本論』の論理を前提に、歴史の転換への新しいアプローチを提示したのだ。
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by morristokenji | 2010-12-23 17:51