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by morristokenji

第2章 大正デモクラシーと「労農派社会主義」の登場

 1)ロシア革命と大正デモクラシー
 日本における初期社会主義の「冬の時代」は、第1次世界大戦とロシア革命、そして大正デモクラシーと呼ばれる雪融けの時代を迎えるまで続きました。第1次大戦については、それを一般的に、「帝国主義戦争」と特徴づけていますが、ある意味で日露戦争は、その前哨戦だったとも言えます。最も後進的だった資本主義国の日本とロシアが交戦し、日本「帝国」が大国ロシア「帝国」に勝利した。ロシアは日本に負け、さらに第一次大戦でも敗北した。連戦連敗の痛手を受けたまま、ロシア革命を迎えることになったのです。逆に日本は、アメリカとともに第一次大戦では、ヨーロッパを中心とした世界戦争の埒外にいて、漁夫の利を得ることができました。日露は、ここで完全に明暗が分かれましたが、日本は大戦後の好景気により、「大正デモクラシー」と呼ばれる戦後民主主義の相対的な安定期を迎えることになったのです。
 冬の時代が終わり、相対的安定期に支えられ、大正デモクラシーは日本の社会主義の思想と運動にも、大きな「雪解け」をもたらしました。すでに導入されたモリスの社会主義を含め、欧米の社会主義の著作が一挙に移入、紹介されました。いわゆる左翼的な「思想本」も次々に翻訳・紹介され、社会主義思想の流行が大正デモクラシーの一つの特徴となったと思います。それに拍車をかけたのが、世界で最初の「社会主義の誕生」と位置づけられたロシア革命1917年(大  )だったのです。もちろんロシアは、上記2度の敗戦による旧政権の脆弱化、それにレーニンの「プロレタリア独裁」による一挙崩壊型の上からのクーデターにも似た政権奪取の革命でしたから、社会主義政権も当初きわめて不安定でした。いつ反革命で政権崩壊を招くかも知れない、そんな「社会主義の誕生」でした。ここで「ロシア革命」について、少し整理しておきましょう。
 ロシア革命というとき、1917年の10月革命より遡って、1905年の「ロシア第一革命」から説明されることもあります。その点で、日露戦争1904-5年との連続性も考えるべきでしょう。すでにロシアは、日露戦争の敗戦の時点から、革命的混乱に陥っていたのです。例えば、苦戦が続く1905年には、ロシアの首都サンクトペテルブルグで生活に困窮した労働者の請願デモに軍隊が発砲、多くの死傷者を出した「血の日曜日」事件が発生しました。続いて全国各都市でソヴィエト(労兵協議会)が結成され、水兵の反乱が続出します。こうした反乱を沈静化するために、国会の開設や憲法制定など、いわゆる「ストルイピン改革」が行われました。しかし、改革はストルイピンの暗殺や第1次大戦の勃発で中断、反戦・平和への運動が高まりました。
 では、ロシアにおける社会主義の思想や運動は、どうだったのか?ここで詳しくは触れられませんが、およそ次の通りです。
 1861年に農奴解放が行われましたが、日本とともにロシアでは資本主義の発展が遅れ、封建的な社会体制が色濃く残存していました。ロマノフ朝の絶対専制(ツァーリズム)の支配が続き、そうした中で、クロポトキンなどの無政府主義の過激思想や直接運動も起りました。また、ロシアの農村共同体(ミール共同体)を基礎とするナロードニキの運動を継承し、農民の支持を集めた「社会革命党」(エスエル)が党勢を拡大していました。こうしたロシア資本主義の後進性を踏まえて、マルクスも「ザスーリチへの手紙」に書いたように村落共同体を重視し、初期マルクス・エンゲルスの唯物史観のイデオロギー的仮説を、事実上修正することになったように思われます。
 また、1898年には「ロシア社会民主労働党」も結成されました。しかし、第2回大会は国外のブリュッセルで開かれ、新聞『イスクラ』の編集をめぐり、早くもレーニンを中心とするボリシェビキ(多数派)とメンシェビキ(少数派)に分裂するなど、分派抗争が激しく繰り返されました。とくにメンシェビキは、上記ザスーリチなどナロードニキの流れを継承し、「社会革命党」とともに積極的に活動を展開、第1次大戦におけるロシアの敗北の中で、党勢を拡大していたのです。戦争末期の1917年2月には、首都ペトログラードを先頭に、食糧不足への不満を背景とする「パンをよこせ」のスローガンによるデモとストが一挙に拡大、それに「戦争反対」や「専制政治打倒」へと政治的要求も加わりました。
 1917年10月革命に先行して、まず2月革命が起ります。ペトログラードを始めとする各地のデモやストの鎮圧に軍隊が出動しましたが、鎮圧に向かった兵士達が、次々に労働者や市民の側に寝返ったのです。そして、ここではメンシェビキの呼びかけに応じて、首都では「ペトログラード・ソビィエト」が結成され、他方では議会側も臨時委員会を作り新政府を樹立、皇帝ニコライ2世は退位させられ、ロマノフ王朝はここで崩壊しました。そして、ペトログラード・ソビィエトと臨時政府の「二重権力」が生まれたのです。ソビィエト側は、臨時政府をブルジョア政府と看做して、それを支持することになりました。しかし、政権は二重権力の不安定なもので、戦争の継続をめぐって、臨時政府側は戦争の継続を、ソビィエト側は反戦と平和を要求し、そのため「四月危機」を招来しました。
 この時点で、3月にスターリンなどが流刑地から、4月にはレーニンが亡命地から帰国しました。それまで弾圧により弱体化してしまったボルシェビキでしたが、ここで復権を果たします。レーニンの「四月テーゼ」が発表され、臨時政府に対する不支持、戦争継続の反対、全権力のソビィエトへの集中、などが提起されました。これがボルシェビキの方針にはなったものの、ケレンスキーを中心とする臨時政府の側は、同盟諸国の要求に応えて戦線を拡大しようとしました。しかし、すでに兵士の戦闘意欲が喪失していて、ソビィエトの側に立ち武装デモが拡大します。しかし、この武装デモの失敗による「7月事件」の弾圧などがありましたが、むしろこの弾圧を通して、ボルシェビキは「武装蜂起による権力の奪取」の方針へ大きく転換することになったのです。
 この方針にたいして、8-9月ペトログラードやモスクワのソビィエトが支持を拡大、レーニンはボルシェビキの方針として、武装蜂起による権力の奪取をさらに明確にします。10月には、ソビィエトに軍事革命委員会を設置、それを軍の各部隊が次々に支持を表明しました。他方、臨時政府の側は、最後の反撃としてボルシェビキ党の機関紙の印刷所を制圧します。しかし、それが引き金になって、軍事委員会側が武力行動に総決起することになりました。この総決起によって、「ペトログラード労兵ソビィエト」が権力の完全掌握に成功し、26日未明には「冬宮」の占領を迎えることになったのです。これがロシア10月革命に他なりません。
 以上がロシア革命の流れの大筋ですが、日露戦争からの帝国主義の対立抗争の中で、ロシア帝国の国家権力が脆弱化していたこと。多様な社会主義の思想や運動が起こり、分派抗争も激しく闘わされ、レーニンのボルシェビキは長く少数派の勢力だったこと。革命による権力の奪取も、敗戦の中で「労兵ソビィエト」による軍事クーデターともいえる性格のもので、それがプロレタリア独裁の内実だったこと。いずれにせよロシア革命のプロレタリア独裁は、極めて特殊で限定的な条件のもとで成功した革命に過ぎないこと、従って一般化することは出来ないことを、ここで十分に確認しておきたいと思います。
 こうしたロシア10月革命の特殊性は、革命後の混乱にも繋がりました。革命の成功の時点では、ボルシェビキの武装蜂起に参加した社会革命党の左派との連立政権でしたが、12月の憲法制定議会を巡り混乱しました。また世界大戦の処理についても、講和について同盟諸国の協力が得られず、ボルシェビキ内部の対立がエスカレート、講和条約の内容も厳しいものになりました。さらに、シベリアに留め置かれた捕虜の問題で、アメリカや日本からのシベリア出兵をゆるしました。それに呼応して残存していたロシアの旧軍隊の一部将校の反革命の軍事行動も起り、ソビィエト政府も新たに「赤軍」を創設して、反革命に対処せざるを得なくなる。そのためボルシェビキのプロレタリア独裁は、一党軍事独裁の性格が益々強化されることにもなりました。1918年には、ニコライ2世一家の銃殺など、内戦の終息は1920年までかかり、さらに日本のシベリアからの撤兵は22年でした。このように多大な犠牲を伴った点でも、ロシア革命は極めて特殊な性格をもっていた、と言わざるを得ないでしょう。
 このような特殊性を持ったロシア革命でしたが、その特殊性のゆえに、かえって日本への影響は大きかったのです。日本から見て、日露戦争の延長上にロシア帝国の崩壊があり、その崩壊の結果として10月革命による「社会主義の誕生」を見ることになったからです。日本の初期社会主義の運動が、多かれ少なかれ日露戦争に対する反戦・平和の要求を掲げていただけに、ロシア革命を肯定的に受け入れることにもなる。とくにレーニンのボルシェビキがマルクス主義、それもマルクス・エンゲルスの流れを「プロレタリア独裁」として教条化された形で、マルクス・レーニン主義として受容されることになります。西欧と違って、ボルシェビキの党、そして「ボルシェビズム」が、そのまま「社会主義」であり「共産主義」である、という異常な思想風土が培われることにもなったように思われます。
 さらに、地政学的に見ればロシア帝国は、ユーラシア大陸に拡がる大国です。ウラル山脈から向こうはヨーロッパですが、こちらはアジアです。アジアの一角に「社会主義」が誕生して、しかも内戦が拡大し、日本もまたアメリカとともに「シベリア出兵」に乗り出しました。その意味では、日本もロシア革命に干渉し、直接関与したのです。この時点では、シベリアの地に新たに「極東共和国」が登場する可能性もあった。さらにこの間には、中国では辛亥革命(1911年)が勃発し、アジア大陸は激動の時代を迎えていました。その意味で日露戦争、辛亥革命、ロシア革命とアジアの革命の連鎖が拡大し、そうした時代的背景から大正期の民主主義の台頭、「大正デモクラシー」の時代を迎えることになった点を、とくにここで強調したいと思います。
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by morristokenji | 2012-11-25 16:35