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by morristokenji

3) 55年体制と万年野党を続けた日本社会党

 第2次大戦後の冷戦構造は、すでに見たとおり日本では、1951年のサンフランシスコ講和・日米安保条約により定着します。そして、それへの対応を巡り、左右社会党への分裂につながりました。左右両派は、それぞれ左社綱領、そして右社綱領を策定して対立しました。すでに紹介した森戸・稲村論争による左右の対立を受け継ぎ、左者綱領は稲村が戦前の学者グループの一人だった向坂逸郎(九大教授)らと協議して原案策定、右社綱領は森戸案を受けて、河上民雄などが草案を策定したといわれています。この左、右の社会党の綱領は、森戸・稲村論争と比較しますと、一方の左社綱領はマルクス・レーニン主義の教条的理論と議会主義の平和革命論、他方の右社綱領は、マルクス主義への批判に向かい、西欧社会民主主義から改良主義の傾向が強まりました。この時点から、戦前の堺利彦・山川均のマルクス―モリスの「正統的マルクス主義」の系譜が消滅した感が強まりました。むしろ左右社会党の対立は、米ソ二つの世界の対立という冷戦構造を、日本的な特殊性を反映した形での対立だった、と見るべきでしょう。
 このように戦前の労農派社会主義の伝統が、戦後この時点で消滅したについては、無論いろいろな事情が考えられます。マルクスーモリスの社会主義の継承を、その人間的な魅力と相まって、最も強く担い続けてきた堺利彦が、戦前1933年に亡くなったことは書きました。また堺の同志、山川均は理論家として優れていたし、ロシア革命やボルシェヴィズムへは鋭い批判を持ち続けましたが、敗戦直後はともかく、1950年代後半には高齢でもあり、1958年には他界されてしまう。その意味では、戦後労農派の理論的継承が十分でなかった事情があります。しかし、それ以上に強調されなければならないのは、第二次世界大戦に果たしたソ連の大きな役割であり、その役割がアメリカに対峙して占領体制から冷戦構造の形成に及ぼした、圧倒的な影響です。そして、冷戦構造という異常な体制によって、半世紀近くの長期にわたり、ソ連が東の世界を国家社会主義として統治してきた現実の重みでしょう。こうした異常な現実の重みが、ロシア革命、ソ連型国家社会主義、プロレタリ独裁、マルクス・レーニン主義のドグマが、教条的な支配を強力なものにした。その影響は、広く西側世界にも、そして日本の社会主義の運動にも及んだと考えられます。
 ただ、日本社会党は51年に左右に分裂しましたが、とくに労農派の流れを汲む左派の鈴木茂三郎による「青年よ銃をとるな、若者を再び戦場へ送るな」の有名な訴えなど、非武装中立論を唱え、さらに労働組合の中央組織「総評」の支援もあり、左派の党勢や議席が伸張しました。そうした背景から、左右両派の統一への機運が高まり、「統一綱領」の作成に乗り出しました。この統一綱領では、「労働者階級を中核とした階級的大衆政党」を強く打ち出し、左社綱領のプロレタリア独裁を完全に否定、さらに国民の自由な意思にもとづく政権交代の容認、社会主義の目標も基本的人権など広く「人間解放」を目指すものになりました。こうした綱領のもとに、1955年10月に党大会が開かれ、委員長が鈴木茂三郎、書記長には右派の浅沼稲次郎が就任し、再統一が実現しました。この再統一により、党勢がさらに拡大、衆院の議席も156まで伸長しました。この年は、保守合同で「自由民主党」が結成され、保革を自社で分け合う「55年体制」が成立しました。この時点が、戦後社会党の最盛期だったかも知れません。
 しかし、1959年の参院選で党勢の伸び悩みが生じたのを機に、60年安保改定を目前に控えながら、最右派の西尾末広などが階級政党論、親中ソ路線、容共路線などへの批判を提起しました。ここで再び左右の対立が再燃し、さらに労働戦線も総評に対抗して、全日本労働組合会議が結成され、折からの三井三池争議の分裂も重なり、日本社会党は再分裂に追い込まれ、遂に1960年には「民主社会党」が結成されてしまいました。ただ、民社党が分裂したものの、この時点では60年安保の改定、三井三池の争議など、大衆運動の盛り上がりに助けられ、社会党は野党第1党の地位を保持し続けます。さらに浅沼稲次郎委員長の刺殺事件もあり、むしろ党勢が拡大し、自社の保革対立の「55年体制」は、冷戦構造の安保体制の内部に定着をみることになります。米ソの対立が、保革の対立につながり、それがまた自社の「55年体制」の図式になったのです。
 冷戦下の55年体制の下で、日本社会党の立場は野党第一党の地位を維持しますが、民社党が分裂したこともあり、ますます左派色が強まります。例えば、党組織の改革運動に関連し、江田三郎などの構造改革運動が起りますが、この論争も国家独占資本主義論に関連して、レーニンの帝国主義段階に対し、新たな発展段階を設定することの是非が争われました。マルクス・エンゲルスの唯物史観の公式を前提にして、新たな生産力の段階を想定し、その生産関係として国有化など所有の社会化を強調する構造改革です。東独の理論家ツイシャンクが提唱、日本でも共産党内部で論争され、それが日本社会党の構造改革論に飛び火した論争と言えます。この論争も、初期マルクス・エンゲルスの唯物史観の枠組みの中で、生産力理論とも言える生産力の一層の高度化、それに対応した高度な生産関係としての国家資本主義を国家社会主義に構造改革する構想に過ぎません。
 また、この構造改革論争が、社会党内部の派閥対立に発展、左派の佐々木更三などが社会主義協会の協力の下に、綱領的文書「日本における社会主義への道」が決定されることになる。この「道」は、事実上プロレタリア独裁をはじめ、ソ連型国家社会主義をモデルとした路線であり、社会民主主義政党の国際組織の「社会主義インターナショナル」加盟政党としては、まさに異色の社会主義政党になりました。そして、東側のソ連・中国、さらに東独などとの交流を続け、上述の通り六全協の後、ソ連・中国と決別した日本共産党の自主独立路線とは対照的な対外交流を続けることになったのです。しかし、こうしたソ連寄りの左傾化路線をとればとるほど、もともと民主化と平和憲法など議会主義、そして非武装中立論に基づく平和革命の路線との矛盾が拡大することにならざるを得ない。武装蜂起は避けるけれども、ブルジョワ国家の階級支配はブルジョア独裁であり、その権力を奪取するための革命方式は、議会と共にゼネストなどプロレタリアの実力行使である。しかし、すでに述べた「敵の出方」論は残る訳で、できる限り議会闘争とプロレタリアの実力行使の権力奪取に努力するのが平和革命、とでも説明せざるを得なかったように思われます。
 1960年代から70年代へ、定着した冷戦構造の中で、日本経済は高度成長を続け、近代化と都市化が進みます。しかし、日本社会党の党勢や議席は停滞、さらに低落に転じます。自民党の一強が進み、55年体制の中で社会党は「万年野党」と呼ばれました。とくに1969年の総選挙では、候補者を絞ったにもかかわらず、議席が140から90へと激減します。都市部での後退が目立ちましたが、国際的には中国の文化大革命の混乱、チェコ事件など東欧諸国での反ソ行動など、東側の動揺が始まる。また、60年安保闘争から70年安保へ、反スターリン主義など「新左翼」と呼ばれる過激派の運動、都市部での日本共産党の拡大と共に、公明党などの「多党化現象」、こうした内外の状況変化に対し、日本社会党が対応できないまま左傾化を続けたことが、低落の主な原因といえます。
 この時点での社会党の党内構成ですが、こんな整理があるので紹介します。「”由緒正しい右派”(結党から一貫して右派)は旧日労系を主体とする少数の河上派だけとなり、これが党の体質変化にも影響する。従って、社会党の派閥系譜は、右派の河上派と、あとは五月会―鈴木―佐々木派の左派主流、それに戦後の革新官僚派の和田派―勝間田派、松本治一郎と労農党から帰ってきた黒田寿男系による平和同志会ー安打同(安保体制打破同志会)となり、これらは、いずれもかっての左派社会党の構成部分であった。」(曽我祐次『エコノミスト』1989年10月23日)こうした左派の内部に、上記の構造改革論争や「日本における社会主義への道」の綱領的文書などが影響し、理論的・組織的な混乱が拡大したのです。とくに社会主義協会は「道」の提起だけでなく、組織的にも独自のテーゼや規約を持ち、「党内党」として活動した点が問題となりました。ソ連型社会主義を目指す社会主義協会が、レーニンのボルシェヴィキによる組織戦術の危険性を各派が懸念したとも言えます。こうして1977年の時点で、党内民主主義の確立、「道」の見直し再検討のために臨時党大会が開催されます。翌78年の第42回大会で飛鳥田一雄委員長の下で「社会主義理論センター」が設置され、学者グループを中心とする「綱領」「道」などの路線問題を巡っての全面的な論点整理が始まりました。
 この論点整理の作業は、国際情勢の大きな変化や党内外の混乱も重なったため、10年近い歳月を費やし、1985年12月の第50回党大会の続開大会で、ようやく「日本社会党の新宣言」として採択されました。この「新宣言』は、ソ連型国家社会主義の路線からの大きな転換であり、端的にいえば西欧型の社会民主主義への路線転換でした。その特徴は、(1)国際情勢は、米ソ両体制間の対立ではなく、その座標軸は多極化、多元化している。(2)国内情勢も、高度成長下の労使の階級対立から、ポスト工業化など産業構造の変化、労働者の階層分化、要求の多様化が進んでいる。(3)政権構想は、資本主義から社会主義への単なる過渡的政権ではなく、「抵抗の党から政権の党へ」脱皮する。(4)固定的モデルを構想し、その「出口」から「入口」を決めるのではなく、社会主義を創造的に模索して「入り口」から「出口」を求める。以上4点をめぐり、論争が全国的に行われました。こうした論争を通して、社会党内部の派閥も再編されましたが、党の体質や運動が大きく転換した訳ではない。
 「新宣言」が採択された1986年の衆参ダブル選挙でも、社会党の退潮は止まらず、それを受けて党首が交代、日本で始めての女性党首、土井たか子委員長が登場しました。ここで女性候補の擁立など、選挙戦術を大幅に転換、階級政党からの脱皮をアピールし、消費税導入やリクルート事件、農業政策への不満など、自民党の政策への国民の不満を吸収し、1989年の参院選では、自民が過半数割れに追い込まれる。ここで、ようやく西欧社会民主党なみに「政権交代」に手が届くかに見えました。しかし、1990年の総選挙では、事実上140議席を確保したにもかかわらず、十分な候補者の擁立ができないまま、自民の安定多数をゆるして政権交代に失敗しました。「新宣言」への路線転換、新たな党の顔としての土井たか子委員長、にもかかわらず古い党の体質や運動の結果による失敗だった。こうした結果が、さらに社会党の凋落と事実上の解散への道をたどることになりますが、この時点で国際情勢の激変、つまりソ連の崩壊と冷戦構造の終焉が待ち受けていたのです。
 「新宣言」の策定は、上述のとおり日本社会党の長期低落に歯止めをかけ、党内の左傾化による混乱と対立を回避するための路線の再検討でした。しかし、70年代から80年代へ、長期にわたる策定作業の間に、とくに国際情勢が大きく変化してきました。西側では、アメリカのドル危機が繰り返され、ベトナム戦争での敗北、EUの台頭など、また東側では、すでに指摘したハンガリー、チェコ、ポーランドと続く反ソ暴動、さらに中ソ論争から両国の軍事衝突、またアフガン侵攻など、ソ連型国家社会主義による組織統合が崩れ始めた。とくに中国では、毛沢東路線の文化大革命が失敗して、ト小平による改革開放への路線転換が始まります。こうした国際情勢の変化が、「新宣言」の策定に様々な影響を与えました。
 日本社会党の党内対立は、すでに説明したように左右の対立が中心ですが、さらに右派まで含めて、中国派とソ連派の対立もありました。左右プラス中ソの対立の二重構造です。「新宣言」策定に関しては、「道」の見直しを中心に作業が進められましたが、社会主義協会のソ連派に対して、佐々木派を中心に中国派の対立も絡んでいました。文化大革命は毛沢東路線でしたが、その前提にはソ連型社会主義のイデオロギー的支配があった。中ソ論争も、スターリンの覇権主義支配に対する毛沢東の反発であり、マルクス・レーニン主義への批判ではない。したがって、文化大革命の失敗も、ソ連型社会主義の教条化による破綻でもあったのです。だから、ト小平の改革開放への路線転換も、ソ連型社会主義のドグマからの離脱であり、脱却を意味していたのです。
 改革開放路線の方向は、一方では西欧型社会民主主義の受容であり、市場経済の大胆な導入です。財政・金融の管理を維持しながら、また土地の公有化や戸籍制度を残した出稼ぎ型「農民工」により、大胆な市場経済の導入を図る。改革開放は、単純に資本主義化を目指したわけではなく、西欧社会民主主義をモデルとした改革でした。同時に他方、マルクス・レーニン主義との関連では、レーニンのNEP(新経済政策)を採用し、経済的には市場経済の導入を認めるが、政治的には共産党の一党独裁の枠を守る改革路線です。「社会主義市場経済」と呼ばれるゆえんです。こうした中国の改革開放路線への転換が、社会党の「新宣言」策定の作業に一定の影響があったことは無視できません。「新宣言」が、西欧社会民主主義をモデルとしたことは事実ですが、それはまた同時に、中国の改革開放路線とも関連していた点に注意が必要です。
 さらに、中国の大胆な路線転換に続き、ソ連もアフガン進攻の失敗、ゴルバチョフのペレストロイカへの転換、そして86年の「レーニン共産主義記念チェルノブイリ原発」事故から5年後、「共産主義とは労兵ソヴェト権力プラス全国の電化である」(レーニン第8回全ロシア・ソヴェト大会1920年12月での演説)をテーゼとしたソ連型国家社会主義は、呆気なく崩壊を迎えたのです。同時に、東西二つの世界への分断という冷戦構造もまた、ここで終止符を打ち、さらに米一極構造から多極化へ向かっていると思います。社会党の「新宣言」は、一定の役割を担ったものの、こうした世界史の大転換には十分対応できなかっただけでなく、その政治的主体である日本社会党そのものが、早々と1996年に改名という形式ですが、事実上分裂し解散してしまったのです。
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by morristokenji | 2014-01-17 16:43