森のミュージアムの最新情報<研究ノート>を分離


by morristokenji

新『資本論』ゼミナール①

① 冒頭「商品論」について
『資本論』第1巻第1章の冒頭「商品」については、その2要因である使用価値と価値の中、とくに価値について、労働価値説の論証が問題になってきました。マルクスは近代社会の資本主義経済の富について、それは「巨大なる商品集積」として現れ、その富の細胞ともいうべき「成素形態」を商品としたのです。
 
 商品の使用価値は、売られるから「他人のための使用価値」ですが、その属性により人間の欲望を満たす、いわゆる商品の用途に過ぎない。用途として役だっかどうかを確かめれば、それで足りるのです。安全性については、検査すればいいでしょう。
 しかし価値の方は、「交換価値」として現れますが、その交換力は使用価値のように確かめられない。検査もできない。価値は、商品の物それ自身、つまり物的対象ではないからです。
 
 経済学を体系化した「古典派経済学」の代表者A・スミスは、資本主義の発生期の重金主義や重商主義の学説が、金や「貨幣的富」を重視したのを批判した。商品はその所有者が自然から労働によって買ってきたと考え、労働をoriginal purchasing money「本源的購買貨幣」とした。ここから価値を労働によって規定する「労働価値説」が主張されることになったのです。
 しかし、このスミスの説明は明らかに間違っている。商品所有者が労働によって自然から買うのではなく、生産するのです。スミスは生産を、流通にしてしまっている、素朴な流通主義の主張に過ぎない。モノの生産と流通とは明確に区別しなければならないのに両者を混同し、商品経済そして資本主義経済を絶対視したのです。
 
 さらに素朴な流通主義からすれば、本源的購買貨幣の労働で生産=購入する商品は、すべて労働生産物に限定されざるを得ない。スミスの『国富論』(1776年刊)の富は、労働生産物としての富であり、労働生産物ではない土地・自然、エネルギーや人間の労働力は商品として扱われない。それゆえ不動産市場で取引される土地・自然や労働市場で売買される労働力を対象から除外してしまう商品論であり、価値論です。ここから素朴な労働価値説が主張されたのです。

 マルクスの『資本論』(1867年刊)は、その副題が「経済学批判」であり、スミスなど古典派経済学批判として書かれました。約7年前の1859年に刊行された『経済学批判』では、まだ曖昧だった「価値形態」とともに、『資本論』では、労働力の商品化も明確になり、価値と生産価格の違いも理論的に解明された。とくに労働力の商品化により、生産と流通との差異が明確化され、スミスなどの素朴な流通主義を克服して、資本の価値増殖を剰余価値の生産として理論化することに成功したのです。

 ところが、マルクスは純粋資本主義を抽象して『資本論』を書き、資本主義経済の富である商品集積について、「ブルジョア社会にとっては、労働生産物の商品形態または商品の価値形態は、経済の細胞形態である」と述べています。一方で商品形態、価値形態を強調しながら、ここで彼もまた、商品経済的な富をスミスなど古典派経済学と同じ「労働生産物」としてしまっている。このように商品を労働生産物に還元したうえで、いわゆる「蒸留法」で労働価値説を展開するのです。「いま、商品体の使用価値を無視するとすれば、それになお残る属性は、労働生産物ということのみである。」しかも、ここで使用価値を捨象する以上、「その中に現されている労働の有用な性質も消失する」から、「それは同じ人間労働、抽象的人間労働に通約される」。それが「社会的実体の結晶としての価値」であるとして、労働価値説が定式化されることになったのです。
 
 しかし、この「蒸留法」と呼ばれるマルクスの論法は、明らかに形式論理としても、たんなる同義反復・トートロギ―に過ぎない。古典派と同様に、あらかじめ労働生産物だけを取り出しておいて、共通なものは労働だというのは明らかに同義反復にすぎず、論証にはなっていない、というマルクス批判を呼び起こしたのです。労働生産物に限定し、労働価値説が主張されれば、労働生産物ではない労働力や土地・自然は、商品論の対象には含まれないことになる。不動産市場も労働市場も無視され、商品経済的富ではなくなってしまう。

 労働力や土地・自然、エネルギーも、たんなる労働生産物ではないが、言うまでもなく富の根源であり「成素形態」です。土地・自然も労働力も、労働生産物とともに商品として、日々大量に取引されている。労働力は労働市場で取引され、土地・自然は「不動産市場」で頻繁に取引されるのが資本主義経済です。とくに労働力商品は、無産労働者にとっては、自分で使うことができない100%「他人のための使用価値」です。資本主義経済の商品経済的富は、労働生産物だけでなく、富の根底をなす労働力や土地・自然を含み、したがって労働価値説を超えた、新たな商品価値論が必要だった。そこにまた『資本論』の古典派経済学批判の意義もあった筈です。
 
 マルクスの商品論、その価値論は、純粋資本主義が対象である以上、単ある労働生産物だけではない。労働力や土地・自然、エネルギー(特に石油などの化石燃料)までも、商品として大量取引される、そして生産をめぐる人間関係=生産関係が形成される、その関係概念として価値関係が提起されているはずではないか?だからマルクスも、一方で上記のように労働生産物としながら、同時に他方では、交換価値をたんなる交換比率としてではなく、関係概念として価値形態としたのです。そこに「経済学批判」の意味があったはずです。マルクスの価値形態論こそ、労働生産物を包み込みながら、さらに労働生産物ではない労働力や土地・自然・エネルギーをめぐる近代社会の価値関係を明らかにしているのです。

「論点」労働価値説の論証を巡って
 マルクスの労働価値説については、その論証がトートロギーに過ぎないという批判をはじめ、価値と生産価格の矛盾など、多くの批判が集中して来ました。代表的な批判は、ドイツ・オーストリア学派のベーム・バウェルク『マルクス学説体系の終焉』(昭6年、日本評論社「社会文庫」)によるものであり、とくに戦前はマルクス批判と反批判が価値論論争として激しく闘われました。戦後も論争は引き継がれましたが、その中でマルクス擁護の立場ながら、価値形態論の見地を提起した宇野弘蔵の主張、戦前・仙台の東北大で生まれた「宇野理論」が登場しました。
 『資本論』の価値論は、古典派労働価値説を継承しながらも、その単ある継承ではない。商品形態、価値形態を重視する立場からの継承であり、批判的継承である。とくに『資本論』冒頭の商品は、たんなる労働生産物ではなく、流通形態としての「商品的富」である点から、宇野は価値形態論から貨幣、資本を流通形態として展開しました。そして、流通形態の資本(その一般形式がG-W-G')であり、そこで流通形態としての労働力の商品化と結びついて、その特殊性から労働・生産過程による価値形成・増殖過程で価値が労働実体と結びつく。ここで価値形態が価値実体と結びついて、労働価値説が独自の形ながら論証されると主張しました。
 この宇野による労働価値説の論証については、別項でまた取り上げますが、冒頭商品を流通形態、価値形態を重視して、古典派労働価値説を厳しく批判しながら、労働力商品、そして土地・自然・エネルギーの商品は排除されている。冒頭商品は、たんなる労働生産物ではないが、「資本の生産物」に限定される。その理由は不確かですが、とくに労働力については、その特殊性が強調されています。労働力は、資本の生産物ではないし「本来商品として生産されたものではない」とまで言い切っている。そして、「資本」に対する「賃労働」として、「土地所有」とともに取り扱われ、三者が対立する構図(「資本・土地所有・賃労働」のトリアーデ)が前提されているように見受けられます。この構図は、マルクス『資本論』以前の『経済学批判』の経済学批判体系の「プラン」に属するものです。
 純粋資本主義が抽象された『資本論』の世界では、一方で労働生産物に限定した古典派労働価値説を批判し、価値形態を重視して流通形態としての商品的富を提起すれば、商品形態として労働力、土地・自然・エネルギーが労働市場、不動産市場とともに対象に入る。労働力商品の特殊性は、土地などと同様に、その「特殊性」は重要だとしても、冒頭商品から排除する必要性は全く存在しない。特殊性の強調は、それを冒頭商品論から排除する理由にはならないと思われます。ここで排除したために、価値形態論と表裏の関係ともいえる労働力商品化論を、後述しますが「貨幣の資本への転化」論で「いわゆる本源的蓄積」など歴史過程、資本主義の発生過程として取り込むことになっているのです。歴史と論理の混濁ではないか?そんな論点を先ず提起しておきます。

[PR]
by morristokenji | 2017-08-03 19:36