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by morristokenji

⑥『資本論』第2巻「資本の流通過程」の位置づけ

 『資本論』第1巻のタイトルが「資本の生産過程」、第2巻が「資本の流通過程」になっている。このタイトルからは、第1巻が「資本の直接的生産過程」であり、資本の生産過程の結果であるG-W---P---W'のW'の実現として、資本の流通過程が位置付けられるようにも見えます。事実、そのような巻別構成の整理もあるし、マルクスも「直接生産過程の諸結果」など、そうした解釈や整理を予想させる時期もあった。少なくとも『資本論』以前の『経済学批判』段階までは、そうした考え方が強かったように思われます。しかし、『資本論』を執筆する段階では、その巻別構成は大きく変化しているし、それが『資本論』の理解にとり、極めて重要なように思われます。
 まず手がかりになるのが、『資本論』第3巻の冒頭にある以下の指摘です。「費用価格と利潤」のタイトルに直ぐ続いて、「第一巻では、それ自体として見られた資本主義的生産過程、すなわち、外的事情の副次的影響は、すべて度外視されて、直接的生産過程としての資本主義的生産過程が提示する諸現象を、研究した。しかし、この直接的生産過程は、資本の生涯の全部ではない。それは現実の世界では、流通過程によって補足されるのである。この流通過程が第二巻の研究の対象をなした。そこでは、とくに第三篇で、社会的再生産過程の媒介としての流通過程の考察に際して、資本主義的生産過程は、全体としてこれを見れば、生産過程と流通過程との統一であることが示された。この第三巻のかかわるところは、この統一について、一般的反省を試みることではありえない。肝要なのは、むしろ、全体として見られた資本の運動過程から生ずる、具体的な諸形態を発見し、説明することである。」として、第3巻は「諸資本」の競争や信用などの具体的諸態様を解明する方向を示しています。

 『資本論』第3巻の篇別は、第1巻と比べてはもちろんのこと、第2巻と比較しても、全体的にエンゲルスがマルクスの原稿を単に整理編成しただけで、体系的にまとめられてはいない。しかも、原稿の執筆の時期が、それぞれ不明な点も多く、前後の連絡がつけにくい部分が沢山ある。上記の冒頭の部分も、「費用価格と利潤」のタイトルの後に、恐らくエンゲルスが原稿の何処からか移動して来たように見えますが、全三巻の巻別編成について重要な指摘がなされている。とくに第3巻については、第1巻と第2巻の統一ではない点が強調され、さらに『経済学批判体系プラン』の「資本一般」の枠組みを否定して、「競争」「信用」「株式資本」(資産)などの具体的諸形態を説く方法論を明確に提示している。その上で「費用価格と利潤」として「諸資本」の競争の具体的形態の説明に入るのです。それとともに、第1巻をここでも「直接的生産過程」としていますが、それは「資本の生産過程」の内部での「直接的生産過程」だとして、第2巻の位置づけが問題でしょう。
 ここで第2巻は、第1巻の全体を受ける形ではなく、第1巻の「資本の生産過程」内部の「直接的生産過程」の「補足」として位置付けられている。「補足」だから「直接的生産過程」を補足して「再生産過程」の媒介をする。「補足」媒介の結果として、第2巻、第3篇「社会的再生産過程」の位置づけとなっている。だとすれば、全体的に①資本の生産過程としての「直接的生産過程」、②それを補足・媒介する第2巻「資本の流通過程」、そして③資本の再生産過程=「資本の蓄積過程」、その最後に第3篇「社会的再生産過程」がくる、こんな編別構成となる。そして、さらに上記の「競争」「信用」「株式資本」(資産)の第3巻の地平が拓かれる。このような「巻別構成」、そして「篇別構成」のスケルトンが浮かび上がるように思われます。

 以上『資本論』第3巻の冒頭の整理からすれば、第2巻の「資本の流通過程」を「資本の直接的生産過程」の結果である上記のW'の実現過程に矮小化することは出来ないでしょう。W'の「実現論」は、生産と消費が流通により切り離されていること、そして生産財と消費財をはじめ産業部門間の不均衡が大きいこと、そこからマルサスやシスモンディの過剰生産論や過少消費説が主張されていた。とくに金融恐慌や景気後退期には、今日の日本資本主義でもそうですが「有効需要」の不足が叫ばれ、とくにマイナス金利など金融の「異次元緩和」も主張され、しかも長期化している。しかし、恐慌や不況は単なるW'の実現問題ではない。実現問題は、流通市場の現象面で提起されるけれども、資本主義経済は「法則がただ無規則性の盲目的に作用する平均法則としてのみ貫かれうるような生産様式」によつて解決される法則的秩序を持っている。市場経済は「無政府性」だけれども、それは「無法則」ではないのです。実現問題は、実現問題なりに法則の実現です。
 すでに貨幣論で明らかなように、W'の実現のためには、貨幣の裏付けを持った「有効需要」が必要です。貨幣の諸機能が重層的に有効需要を形成しますが、「貨幣の資本への転化」論で明らかにしたように、貨幣を前提とする流通形態としての資本は、その「一般的形式G-W-G'」で明らかなように、市場においてG-Wで「需要」し、W-G'で「供給」する運動体である。自らの運動の内部で需要と供給を統合し、とくに労働力商品を前提に雇用労働で生産過程を支配して供給をコントロールすれば、生産過程を基礎とした再生産過程で、需要と供給の統合が可能である。それを前提にして既に述べたように「一物一価の法則」が流通形態で貫徹されるとともに、労働力商品は必要労働により価値規定されて、労働価値説が論証をみるわけです。いずれにしても市場のW'の実現問題は、「貨幣の資本への転化」に基づく産業資本の運動形式により、法則的に解決されるのです。

 そこで第2巻「資本の流通過程」による第1巻「資本の生産過程」、とりわけ「直接的生産過程」の補足の位置づけですが、資本の流通過程が、資本の再生産過程=蓄積過程の前に置かれ、その上で資本の生産過程と流通過程の統合として、資本の再生産過程=蓄積過程が説かれる、そんな編別構成となるでしょう。流通形態としての資本の運動は、直接的生産過程とともに流通過程を内部に組み込み、W'の実現ではなく資本の「姿態変換」としての「循環と回転」、そして「流動資本」と「固定資本」の運動により、資本の再生産過程=蓄積過程の展開につながる。こうした「資本の流通過程」の「補足」・媒介により、資本の再生産=蓄積過程の運動がダイナミックに把握され、そして「資本主義的人口法則」として展開されることになります。とくに資本の蓄積論が、『資本論』では不十分だった周期的恐慌を含む産業循環の基礎として解明される道も拓かれます。
 資本の「直接的生産過程」は、すでに明らかなように剰余価値論として展開されますが、それは絶対的剰余価値の生産、さらに相対的剰余価値の生産が説かれる。資本・賃労働の階級関係が解明されますが、その結果もW'の実現問題ではない。資本による労働力の支配であり、その形態が『資本論』では、第1巻、第6篇「労働賃金」とされているのです。資本は、労働力を商品として購入しながら、剰余価値生産の支配を通して、労働に対して賃金を支払う形式を完成する。いわば生産過程を流通形態で覆い隠す形態でしょうが、そうした流通形態の支配が前提になり、第2巻「資本の流通過程」による補足・媒介を通して、資本の再生産過程=蓄積過程が展開されるのです。また「労働力の価値」の第6篇「労働賃金」への転化の説明で、スミスなど原初的購買貨幣の流通主義の批判も完成をみるのです。

 「論点」 資本の「直接的生産過程」と実現論
 資本の流通過程論を、資本の「直接的生産過程」における剰余価値の生産に対して、剰余価値の「実現論」とする解釈が今でも有力です。剰余価値を実現するための貨幣がどこから来るか、生産された剰余価値の実現を中心に過剰生産恐慌などが説かれます。こうした実現論の背景には、『資本論』全3巻の巻別構成、篇別構成の整理の違いも大きいとみられるので、ここで振り返っておきましょう。この論点でも、冒頭「商品論」の労働価値説の論証が、大きく影響していると思われます。
 既に述べて通り、A・スミスをはじめ古典派労働価値説では、商品経済的な富を労働生産物に還元した。そして、生産過程の労働を「原初的購買貨幣」として、生産過程を流通過程とする流通主義に陥っていた。しかも、分業労働を人間の「交換性向」と結びつけて、それを人間の本能として説明し、超歴史的な流通主義として主張されていたのです。マルクスは、初期マルクスの時代から分業労働を含めて、労働疎外論の立場だった点では、超歴史的な流通主義の誤りは免れていたものの、『資本論』冒頭の商品は労働生産物に還元され、労働価値説を積極的に継承した。そのため古典派価値論批判としての「価値形態論」の見地は混濁し、「絶えざる不均衡の中での無規律性の盲目的に作用する平均法則」として、具体的には「一物一価の法則」としての価値法則の作用を明らかにできなかった。
 「一物一価の法則」は、「価値形態」論を前提に、「貨幣の資本への転化」論、さらに労働生産物とは言えない「労働力の商品化」論により、産業資本の運動として解明される。労働価値説は、単なる等価交換ではなく、労働力商品による労働者の必要労働の買戻しの過程として論証される。産業資本による「価値の形成」、かつ価値増殖の過程は、同時に市場に対する需給の調節による「一物一価の法則」として、「価値の実現」を含んで論証される。価値形成は価値実現として法則的に解明をみるのです。ところが『資本論』では、冒頭「商品」論の労働価値説が同義反復的に主張され、価値形成がドグマ化される。「価値形態」論や「貨幣の資本への転化」論も、ドグマ化された労働価値説に制約されて、市場の需給の調節を通して貫徹される価値法則の解明はできない。労働価値説は「直接的生産過程」に封じ込められたまま、「価値の形成」と「価値の実現」は切断され、そのため「価値の実現」はW'の実現として、「資本の流通過程論」の『資本論』第2巻に追いやられたように思われます。その追いやられた結果が「実現論」であり、「資本の流通過程」論を剰余価値の実現とする方法的見地を産んだものと思われます。
 とくに「実現論」は、上記のとおり恐慌論との関連で、いわゆる商品過剰説として主張され、今日でも有力な見解です。周期的恐慌の原因を、商品の過剰生産に求め、その実現困難として恐慌を説明する「実現論」的恐慌論です。後述するように恐慌論には、この商品過剰説と資本過剰説との対立があり、資本過剰説では商品の過剰を利潤率の低下と利子率の上昇の結果と見る。それに対して商品過剰説は、資本過剰を商品過剰の結果と見る。したがって、景気対策としても、商品過剰を解消するための金融や財政による有効需要の拡大、とくに最近では金融の「異次元緩和」で、ゼロ金利、さらにはマイナス金利を続けることにもなっている。しかし、こうした「実現論」的アプローチでは、恐慌論として周期的恐慌の説明が不十分なだけでなく、政策的にも「出口なき」異次元緩和を続けざるを得なくなっています。そのために既述のように政策的にも「働き方改革」など、資本過剰の前提になっている「生産性革命」や「人づくり革命」といった国家資本主義ともいえる過激な政策に走っている。しかし、思うような資本過剰の解決ができないまま、長期の停滞・低成長を続けざるを得ないのです。

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by morristokenji | 2017-10-03 20:53