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by morristokenji

(9)第7篇「資本の蓄積過程」の篇別構成

 ここで『資本論』第1巻に戻りますが、第2巻の「資本の流通過程」を前提することによって、とくに第7篇「資本の蓄積過程」について、改めて検討しなければならない論点が出てきます。そもそも第2巻による「補足」の必要性に気づきながら、おそらくマルクスは、第1巻の刊行を急いだのだろうと思います。そのため、論点の多くを一先ず棚上げにして、第1巻をまとめざるをえなかった。とくに「商品生産の所有法則の資本主義的領有法則への転換」を早期に提起したかった。その結果、「所有法則の転変」から、資本主義から社会主義への歴史的転換・移行を説くことにもなり、すでに多少触れましたが、社会主義論=ソーシャルエコノミー論としても、色々問題を持ち込むことになってしまったように思います。まず、その点から検討しましょう。

 第一に、第7篇を開いて、まず奇異に感ずるのは、すぐ「第21章 単純再生産」を始めずに、他の篇とは異なり「まえがき」のような長めのコメントがあることです。マルクスはここで「貨幣の資本への転化」を述べ、資本の循環について「資本の流通」に触れ、資本蓄積の第一の条件として「資本はその流通過程を正常な仕方で通過することが前提される。この過程のさらに詳細な分析は、第二巻で行われる」と述べているのです。つまり、資本の蓄積過程の分析のためには、第二巻の「資本の流通過程」による「補足」、というより「前提」が必要である点が指摘されているのです。とすれば、資本の蓄積過程の前に、「資本の流通過程」を置くことをマルクスも考えていた。しかし、第一巻を急いでまとめることにした、そこで第二巻は後回しになった、ということかと思います。さらに第三巻では、利潤、利子、地代の分配範疇を述べることも指摘し、そのため資本蓄積を「抽象的に、すなわち単なる直接的生産過程の要因として、考察する」と断っています。したがって、資本の蓄積過程の分析には、資本の流通過程、例えば上記の固定資本の回転の特殊性などを、十分考慮して読み取るべきでしょう。

 第二に、単純再生産と拡大再生産は、「経済原則」の説明にとって必要な内容ですが、資本蓄積は「剰余価値の資本への転化」として、拡大再生産が「経済法則」として実現される過程です。その際、「第22章 剰余価値の資本への転化」として「第1節 拡大された規模における資本主義的生産過程。商品生産の所有法則の資本主義的領有法則への転換」が説かれています。ここで、わざわざマルクスは「商品生産の所有法則」を持ち出し、「最初われわれにたいして所有権は、自己の労働に基づくものとして現れた。少なくとも、この過程が妥当でなければならなかった、というのは、同権の商品所有者のみが対立するのであり、他人の商品を獲得する手段は、自己の商品の譲渡のみであり、そして自己の商品は、ただ労働によってのみ作り出されうるものだからである。」(1巻732頁)言うまでもなく初期マルクス以来の「唯物史観」における「私的所有と疎外された労働」の関係であり、また「単純商品生産社会」の想定であって、私的「所有権」の基礎づけに「自己の労働」を持ち出している。こうしたマルクスの「想定」が、所有法則の転変による歴史的移行についての「第24章 いわゆる本源的蓄積」、とくに「第7節 資本主義的蓄積の歴史的傾向」の布石になっている。しかし社会主義論を含めて、ここから様々な疑問が生じてきます。とりわけ所有論的な中央集権型の上からの計画経済のソ連型モデルも、こうした所有法則の転変に起因しているように思われます。

 第三に、「第23章 資本主義的蓄積の一般的法則」では、資本蓄積と「相対的過剰人口」の存在形態など、資本主義的人口法則が説かれます。内容的には、後に検討するとして、このように資本蓄積について「一般的法則」を説き、純粋資本主義における景気循環の基礎を明らかにした上で、さらに「第24章 いわゆる本源的蓄積」が置かれ、しかも所有法則の転変として、資本主義の歴史的生成、発展、消滅が説かれます。しかし『資本論』では、剰余価値論はじめ、他の先行諸篇では、歴史的資料は沢山使っていますが、資本主義社会の歴史的生成、発展、消滅そのものを法則的に展開してはいない。とくに「所有法則の転変」としては、上記の通り「単純商品生産社会」の想定は、A・スミスの初期未開の社会など、労働を「本源的購買貨幣」とする流通主義のイデオロギーに過ぎない説明だった。さらに、資本主義の歴史的生成過程としては、マルクス自身「いわゆる本源的蓄積」の過程を説いている。本源的蓄積と所有法則の転変の両者を、いかなる関連にあると考えているのか?さらに、社会変革のための組織的運動を抜きに、性急に資本主義の「消滅」を単にイデオロギー的に主張するだけではないのか、余りにも性急に「最後の鐘」を打ちすぎているのではないか等、ここで様々な疑問が出てきます。「最後の鐘」を鳴らすのは『資本論』ではない、各国の資本主義の現状分析や世界経済の関連から、多様な形で組織的運動が形成され、そうした組織の主体的運動の成果として鐘が鳴るのでしょう。

 第7篇は、内容的に純粋資本主義の運動法則としては、余りにも多岐、多様にわたりすぎている。『資本論』第一巻の最後の締めくくりとして、単に純粋資本主義の運動法則にとどまらず、資本主義の歴史的生成、発展、消滅まで説き、資本主義の「最後の鐘」を鳴らそうとしたのでしょうが、それは単なるイデオロギー的主張にとどまった、と言えるように思います。恐らくマルクスも、それに気づいていた。だから、「パリ・コミューン」の後の1872年―75年にかけて、自身で改訂に手を入れた『資本論』仏語版(分冊版)では、部分的改定のために手を入れただけではなかった。資本主義の歴史的生成、発展、消滅にかかわる部分、つまり第24章「いわゆる本源的蓄積」の部分を第23章までと区分し、それを切り離して第8篇にしたのです。第23章の「資本主義的蓄積の一般的法則」の論理と、第24章以下の歴史過程の部分を編別構成上は峻別しようと考えたのではないか。「論理と歴史」、「科学とイデオロギー」、「理論と実践」の関係について、マルクス自身の内在的な問題提起だったと思います。

 「論点」「論理と歴史」の統一のドグマ
 ヘーゲルの弁証法との関連でしょうが、いわゆるマルクス・レーニン主義では、①論理と歴史、そして②科学とイデオロギー、③理論と実践について、3者を統一しなければならないというドグマが支配してきました。とくに『資本論』については、「論理と歴史」の統一のドグマの支配が問題です。上記のように『資本論』第1巻第7篇については、仏語版の篇別構成の変更など、「資本の資本蓄積・再生産過程」の論理的展開と「資本の原始的蓄積過程」「所有法則の転変」の歴史的の関連を、方法的にどのように関連付けるか、重要な問題が提起されています。ここに『資本論』の歴史と論理の方法が集約されていると言えます。

 『資本論』は、すでに繰り返し述べているように近代社会である資本主義の運動法則を解明しますが、それは純粋資本主義の抽象によって明らかにされます。だから冒頭商品も、古典派経済学のように労働生産物に限定されないし、また資本の生産物の限定も必要ない。労働市場で取引きされる労働力商品も、不動産市場の土地・自然も、商品経済的富である。そして、流通形態として全面的交換可能性を持つ商品として価値形態が与えられ、貨幣が理論的に必然化した。しかしマルクスは、古典派経済学を批判し、価値形態を明らかにしながら、冒頭商品を労働生産物に還元し、労働価値説を論証した。その上で、『資本論』第1篇、第2章「交換過程」論では、わざわざ商品所有者を登場させ、ここで「自己に労働」に基づく「私的所有」権を設定した。初期マルクス・エンゲルス以来の唯物史観のテーゼであり、商品生産の所有法則とともに、単純商品生産社会を想定することになってしまったのです。
 マルクスは、『経済学批判』では商品論、貨幣論までで挫折しましたが、『資本論』では価値形態を前提にして、商品・貨幣、そして資本を、流通形態としてG-W-G'を一般的定式とするのに成功した。しかし、冒頭の等労働量交換の労働価値説は、単純商品生産の前提からも、「労働力の商品化」を論理的に説くことが出来ない。そこでマルクスは、Hic Rhodus,hic salta!(ここがロドスだ、さあ跳べ!)と自ら叫び、「命がけの飛躍」によって、労働力の商品化を導くことになった。「命がけの飛躍」により、神学上の「原罪」である「いわゆる本源的蓄積」を第1巻の巻末に追いやった上での労働力の商品化であり、産業資本の剰余価値生産の展開だった。その上で、第2巻「資本の流通過程」の位置づけに配慮しながらも、資本蓄積・再生産過程を理論的に展開しようとした。第7篇「資本の蓄積過程」の展開である。
 しかし、「いわゆる本源的蓄積」は、巻末の第24章に追いやられたものの、上記のように第22章では、「剰余価値の資本への転化」を説き、第1節では「商品生産の所有法則の資本主義的領有法則」への転変を提起しているのである。ここでは「自己の労働」に基づく「私的所有」を説き、歴史的単純商品生産社会から、資本主義的領有の近代社会、そしてポスト近代の社会主義への歴史的転換を説く枠組みを提起している。こうした枠組みの中へ純粋資本主義から抽象される資本の蓄積・再生産過程の運動法則も組み込まれてしまっている。その上で、第24章の最後で第7節「資本主義的蓄積の歴史的傾向」が説かれる。ここでの歴史的傾向は正しく「所有法則の転変」であり、純粋資本主義の運動法則は、資本主義の歴史的転換・移行の法則の中に組み込まれたともいえるだろう。

 このように『資本論』第1巻の展開は、序文や後書きに純粋資本主義の抽象による資本主義の経済法則の展開をうたいながら、一方の純粋な論理的展開の方法的見地は、他方の「単純商品生産史観」ともいえる初期マルクスの唯物史観の作業仮設に過ぎない歴史的転化の枠組みに大きく制約されている。まさに論理的展開と歴史的転化・移行の体系的ともいえる混濁であり、論理と歴史の混淆ではないか?そして、「所有法則の転変」は、単なり混濁だけではなく、「科学とイデオロギー」「理論と実践」の統一のドグマとも重なり合いながら、マルクス・レーニン主義の誤謬を招来してしまった点はさらに後述したいと思います。

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by morristokenji | 2018-01-02 15:43