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by morristokenji

(12)資本主義経済の物神性

 『資本論』の中には、「商品経済の物神性」など、物神性(フェティシズム)の説明が沢山出てきます。物神性の現象形態、その根拠など、多様な説明です。人間と人間の関係がモノとモノの関係になり、そのモノが魔力をもって人間の意識や行動を支配する。『資本論』で最初に登場するのが「貨幣物神」で、「カネに目が眩む」金権腐敗の政治などでしょう。
 
 『資本論』第1巻、冒頭「商品」論の最後第4節が、「商品の物神的性格とその秘密」でしたが、ここで「商品の物神性」と「貨幣の物神性」がまず取り上げられました。ただ、貨幣の物神性も商品との関係で生じていますから、「商品の物神性」とも言えますが、物神性そのものは商品ではなく「貨幣の物神性」です。商品と商品の関係が、なぜ貨幣との関係となり、「カネに目がくらむ」貨幣の物神性を産むのか、その必然性の解明が「価値形態論」であった。だからマルクスも、順序として第3節「価値形態または交換価値」の説明の後の第4節で「貨幣物神」を説明したのでしょう。
 そこで、マルクスの説明を繰り返しますが、「商品を使用価値として見る限り、商品はその属性によって人間の欲望を充足させるものだとか、あるいは人間労働の生産物として得るものではない」として、商品の使用価値とか、価値規定の内容・労働からではなく、物神性が「商品の形態的性格」、つまり価値形態から生ずる、と明確に言い切っていました。A・スミスのように価値規定の内容・労働を「本源的購買貨幣」としたのでは、商品は労働生産物として貨幣であり、商品は相互に交換・購買し合い、価値形態には思いも到らない流通主義の誤りに陥ったのです。マルクスはそこを批判して、商品物神を貨幣物神として、価値形態から説明したのです。
 商品の価値形態ですが、すでに説明の通り相対的価値形態の商品の価値が、等価形態の商品の使用価値で表現される。繰り返しますが、商品の2要因が相対的価値形態の積極的な価値の表現、等価形態の使用価値が価値の消極的な表現材料の提供として分化する。x量・商品A⇒y量・商品Bですが、商品Aの所有者はAを供給し、商品Bの使用価値を需要する形態で、AとBの価値関係が形成されている。したがって、Aの所有者のBの使用価値に対する欲望が重要だし、欲望を充足する使用価値の量になる。だから、例えば「20エレのリンネル=半着の上着」などは、Aの上着の使用価値への欲望を無視したナンセンスな表現形式になる。
 マルクスの価値形態論は、「簡単な価値形態」「拡大された価値形態」「一般的価値形態」と展開されましたが、上記のAとBとの需要と供給の対立関係を明らかにするものです。「一般的価値形態」では、等価形態としては「一般的等価物」が出てくる。価値物としてBは直接的交換可能性、つまり「購買力」を与えられ、その代わり相対的価値形態のAは、使用価値として供給できることになる。その上で、貨幣形態は一般的等価物としてのBの地位が独占的に固定され、逆にAは使用価値の単位量を前提に供給される。例えば貨幣商品が金だとして、1着の上着⇒2オンスの金、1トンの鉄⇒4オンスの金、10ポンドのコーヒー⇒0.5オンスの金というように、相対的価値形態として供給される商品は、それぞれ商品供給の単位量が、それに対する等価形態の貨幣は、量的に分割・合成が可能なので4オンスとか、0.5オンスなど価値量の貨幣表現、つまり価格表現になります。
 このように価値形態としての貨幣の地位が独占的に固定すれば、直接的交換可能性としての購買力が付与される以上、貨幣が何でも購入できる「有効需要」の担い手になる。逆に相対的価値形態の一般商品は、供給しやすいように単位量の使用価値として市場に出る。価値の貨幣表現である価格に対しては、右肩上がりの供給曲線、逆に需要の方は、価格に対して右肩下がりとなり、商品によっては「限界効用」が低下することが含まれるでしょう。価格は需要曲線と供給曲線の交点になるでしょうが、購買の決定は購買力による有効需要の担い手としての貨幣の側にある。「金は生まれながらにして貨幣ではないが、貨幣は生まれながらにして金である」貨幣物神が、ここから生まれるのです。19Cに金本位制が長く定着し、その後も基軸通貨ドルは金との交換性が保証される金為替本位制だったし、その崩壊後の管理通貨制も「管理できない管理通貨制」だし、為替相場の急変時には、先ずは金を購入する動きが出るのは、他でもない「貨幣物神」のなせる業ではないか?

 物神性の根拠については、資本の直接的生産過程で明らかにされます。流通形態としての資本の「一般的形式」は、すでに説明の通りG-W-G'ですが、「労働力の商品化」を前提にして、産業資本の形式G-W---P---W'-G'において、商品関係が人間関係の形成と結びつくからです。資本による価値形成・増殖過程で、人と人の関係がモノとモノの関係として階級関係となる必然性が解明されます。A・スミスのように価値形態を看過し、労働力の商品化を解明できないまま、人間労働を本源的購買貨幣としてしまえば、人と人の関係がモノとモノの関係に媒介される人間疎外は眼中に入らない。物神性の根拠が問われないまま、商品経済が絶対視されるのです。マルクスは、『資本論』の価値形態論により労働力の商品化を明らかにし、人間疎外の根底から物神性を明らかにしたのです。
 
 そのマルクスですが、すでにみたとおり『資本論』第3巻の第5篇「利子生み資本」において、貨幣の物神性を前提にして、さらに「資本の物神性」を提起しました。第24章の冒頭ですが「利子生み資本において、資本関係は、その最も外的な最も物神的な形態に達する」と述べていた。ここで「利子生み資本」ですが、すでにみたとおりマルクスは、一方において「貨幣資本家」、他方では「機能資本家」を持ち出し、貨幣資本家は「資本として投じ得る貨幣を持ちながら、自らは資本として投じない」資本家、逆に機能資本家は「資本として投じ得る貨幣をもたない資本家」としていました。貨幣資本家は、貨幣の機能として「資本として機能する使用価値」があり、それを機能資本家に貸し付けて利子をとり「利子生み資本」として価値増殖を図る、というものです。
 しかし、この「利子生み資本」には、多くの疑問が寄せられていますが、ここでは繰り返しません。要するに、本来は資本の流通過程を根拠に説明される「信用論」を抜きに、貨幣資本家も機能資本家も説明できない。信用論やさらに商業資本論を説き、資本の競争を媒介にして、資本過剰の見地から利潤率と利子率の対抗関係を説き、利子率が変動する「貨幣市場・資金市場」を説かねばならなかった。ところが、そうした説明を後回しにして「利子生み資本」を形式に説明して「資本の物神性」を説いた。現行『資本論』第3巻の篇別では、第4篇で商業資本が説かれ、そこで信用論や貨幣市場の利子率抜きにして、いきなり「利子と企業者利得」が説かれてしまった。そのため信用論抜きの「利子生み資本」の資本の物神性が登場したとも推測できる。さらにまた、ここでは資金を融通する「貨幣・資金市場」と株式資本などの「資本市場」が混同されているのではないか?いずれにせよ『資本論』第3巻は、すでに指摘の通りマルクスの草稿やノートなどを、エンゲルスがアレンジしたものですが、著しく不合理な篇別の整理のように見えます。
 
 なお、マルクスの「資本の物神性」の説明は別にして、「貨幣・資金市場」が成立し、利子率が確定すると、すべての収益について、それを利子率で資本還元する。それを「資産」と呼び、動産と不動産、金融資産と実物資産、とくに株式資本を中心に「擬制資本」として、「資本市場」も成立してきました。こうした「資産」価値からの収益は、「資産」価値が利子率による資本還元である以上、収益は利子と見なされ、そこに物神崇拝的な性格を見ることは可能かも知れません。しかし、資本と資産の違いもあるので、それを「資本物神」と呼ぶのは如何なものか。昔から有産者(ブルジョア)と無産者(プロレタリア)の区別があり、今日では超低金利による異次元金融緩和の政策が、所得の格差より資産格差を拡大し、両者の対立が階級対立と見なされる傾向もある。(トマ・ピケティ『21世紀の資本』2014年みすず書房刊、参照)その点では「資産」の物神性が特に重要かも知れません。

 「論点」株式資本と金融資本
 
 「資本の物神性」については、「貨幣・資金市場」と「資本市場」の混同の下ですが、マルクスも株式資本を対象にしているように見えます。現実の株価の動向も、配当を利子率で資本還元する点では、「利子生み資本」に属すると言えます。ただ、『資本論』の信用論としては、第25章「信用と空資本」の冒頭で、「商業信用と銀行信用を取り扱うに止める」として、「この信用の発展や公信用の発展との関係は、考察外に置かれる」として、株式資本などは「公信用」と共に『資本論』を超えた領域に属するとしているようです。しかし、すでに述べた初期マルクス以来の唯物史観のドグマともいえる資本主義の生成、発展、没落の歴史的展開と理論的展開との統一、また経済学批判体系プランの「競争・信用・株式資本」からすれば、株式資本を「利子生み資本」として「資本市場」を具体的に展開しようとしていたようにも思われます。その辺は、計りかねる論点でしょう。
 マルクスの意図はともかくとして、『資本論』の最後に株式資本を理論的に位置づけ、資本主義の歴史的発展との理論的な関連付けの傾向は、今日なお強いように思います。また、今日の資本主義にとっては、株式市場の役割から見ても、株式市場を中心とした株式資本、それを利用する金融資本の歴史的役割は軽視できない。むしろ資本主義の歴史的発展としては、現代資本主義も金融資本の発展段階として位置づけざるを得ないからです。しかし、資本主義の歴史的発展の位置づけと、『資本論』が提起した純粋資本主義の抽象、そこでの自律的運動法則の解明、さらに理論と歴史の関連からみた「科学的社会主義」の方向づけからは、株式資本の取り扱いは慎重でなければならない。とくに①原理論、②段階論、③現状分析の三段階の方法からすれば、株式資本を①の原理論に含めることは出来ないと思います。
 言うまでもなく株式資本や株式会社は、現代の資本主義だけに特有なものではない。歴史的には古くから存在し、特に世界市場の発展に寄与してきた。ただ純粋資本主義が理論的に抽象される資本主義の確立期には、その役割が減退したとも言われています。しかし、20世紀の金融資本の発展と共に、資本の蓄積、とくに集中・集積は、株式資本を利用して進められてきた。中小株主の資金の社会的集中、社会的統合の拡大が、金融資本の組織化の重要な槓桿となった。言い換えれば、純粋資本主義の抽象からすれば、その純粋化を阻害し否定する「逆転化」の梃子となったのが、他ならぬ株式資本の役割であり、それ故に原理論として株式資本、株式会社を説くことができない。方法論としては、原理論の法則解明を前提にして、株式資本と金融資本の歴史的意義を明らかにすることが重要です。株式資本を純粋資本主義の原理論の中に無理やり取り込むことは、一方で原理論の法則性を曖昧にするだけではない。同時に他方では金融資本の蓄積における株式資本の組織的統合、中小株主への支配の役割を看過することにもなってしまう。
 純粋資本主義の抽象による原理論は、たんに資本主義の自律的運動の解明にとどまらない。運動法則の解明は、資本主義の運動法則の基礎に「経済原則」が明らかにされ、労働力商品化の止揚とともに、資本主義経済を超える人類社会の構図も明らかにされる。初期マルクスの唯物史観のイデオロギー的仮設の枠組みを脱却して
、「経済原則」の主体的、目的意識的、組織的な実践の新たな地平が拓かれる。そうした純粋資本主義の抽象の意義を明確にしておくことが重要でしょう。

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by morristokenji | 2018-02-26 09:17