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by morristokenji

(16)信用と利子率、金融恐慌の必然性

 『資本論』の信用論についても、その編別がまず問題です。競争論が前提になるのは当然にしても、第4篇の冒頭には、信用論を抜きにして「利子生み資本」が説かれている。資本相互の競争や信用を抜きに、いきなり利子生み資本が説かれているのです。なぜそうなったかは不明ですが、マルクスの原稿を、エンゲルスが適当に配置したのでしょう。しかも、その内容がさらに問題です。「利子生み資本」なる資本が、資本相互の信用を抜きに、なぜ利子生み資本という形式で登場できるのか?さらに疑問なことに、貨幣の物神性を受けているのでしょうが、「資本の物神性」が説かれている。第24章の冒頭ですが、第21章「利子生み資本」を振り返って、「利子生み資本において、その資本関係は、その最も外的な最も物神的な形態に達する」と述べているからです。「商品物神」「貨幣物神」に対応して、「利子生み資本」を「資本物神」として、資本の競争や信用、利子との関係を抜きに、いきなり「資本物神」が説かれているのです。では、この「資本物神」を具現する「利子生み資本」とは何か?
 そこで21章「利子生み資本」内容ですが、マルクスは一方において「貨幣資本家」、他方では「機能資本家」を持ち出し、貨幣資本家は「資本として投じる貨幣を持ちながら、自らは資本として投じない」資本家であり、逆に機能資本家は「貨幣として投じる貨幣を持たない資本家」としています。ここでの貨幣資本家は、単なる貨幣資本の担い手ではない。貨幣の機能として「資本として機能する使用価値」があり、「この可能的資本としての、利潤の生産のための手段としての属性において、貨幣は一つの商品に、ただし一種独特な商品になる。または、同じことだが、資本は資本として商品になる。」それを機能資本家に貸し付けて利子をとり、「利子生み資本」として価値増殖を図るというものです。
 しかし、この「利子生み資本」には多くの疑問が寄せられている。商品、貨幣に続く、たんなる流通形態の資本の形式ならともかく、すでに資本の直接的生産過程や流通過程、さらに再生産過程まで明らかにされている段階で、そもそも「資本として投じ得る貨幣を持ちながら」投資しない資本家がいるのか?貨幣の使用価値に、貨幣の諸機能のほかに「資本として機能する使用価値」などあるのか?機能資本家にしても、利子の根拠が説明されていないのに、利子支払いの根拠があるのか?さらに貸し付けられる資本を返済する根拠があるのか?など、など多くの疑問です。要するに、本来は資本の流通過程を根拠に、資本の競争を媒介する「信用論」を抜きに、貨幣資本家も機能資本家も説明できない筈である。マルクスはここで、資金を融通する貨幣市場(資金市場)と、株式資本などの資本市場とを混同しているのではないか?だからまた、上記のように「資本は資本として商品になる」とも述べたものと思われます。
 このように「利子生み資本」論が、競争を基礎とする信用や利子の運動機構から切り離されて論じられているが、つづく第22章「利潤の分割。利子率。利子率の自然率」では、資本の競争を基礎に資金の貸借をめぐる信用関係、貨幣市場での利子率の変動、さらに平均利潤率と自然利子率との関連が論じられている。とくに利子率と利潤率の関係は、景気循環の進行中に両者の関係が変化するのであり、ここでは当然のことながら資本蓄積論を基礎とした景気循環が対象となってくる。ただ、ここでもマルクスの純粋資本主義の抽象による、資本蓄積過程の自律的運動が明確でないためでしょうが、景気循環の対象設定が不明確であり、「我々の考察圏外に属する循環」などと述べられている。そこで、すでに述べた「資本の絶対的過剰生産」に論点を絞って、信用と利子率の運動を整理することにしましょう。
 資本の蓄積過程を基礎として、資本の過剰蓄積が進む中で、すでに見たように利潤率の低下を利潤量で補う投資競争が激化する。この投資競争の激化は、言うまでもなく資本の流通過程で明らかにされた遊休資本の信用による利用を基礎として進む。信用による遊休化のマイナスをプラスに変えることにより、利子支払いの根拠も与えられる。さらに商業資本の役割は、①遊休化によるマイナスを、商品の買い取りで代位する役割、さらに②商品販売の店舗など「純粋な流通費用」のマイナス=空費を商業資本が専業化してマイナスする、「マイナスのマイナス」で企業利得の根拠も与えられる。こうした商業資本の活動と結びつきながら、資本による信用の利用が拡大し、商業信用から銀行信用の利用も高まることになる。
 こうした銀行信用の利用拡大は、銀行信用を基軸として成立している貨幣市場の利子率の上昇を招く。いわゆる「中位の活況」の下では、中位の利潤率に中位の利子率が対応して、景気の拡大が進んできた点から、ここでは利潤率の低下に利子率の上昇が対応する。この利潤率と利子率の対抗関係には、資本の競争激化に伴い「投機活動」の関与が関連せざるを得ない。とくに商業資本の介在は、G-W-G'の流通形態の特徴からも、より安く「買占め」、より高く「売り惜しむ」投機活動を助長し、それが信用利用と結びつく。つまり、「買占め」のための借り入れ拡大と、「売り惜しみ」による返済の遅延とが進み、投資拡大―競争激化―利潤率低下、それが投機の介在により、利子率の上昇に結びつかざるを得ない。とくに「資本の絶対的過剰生産」のもとでは、追加投資がゼロあるいはマイナスの利潤率まで進む。そうした段階では、利子率の上昇が投機を通して金融恐慌に発展することは必然であり、ここに「恐慌の必然性」が提起されます。マルクスの説明は必ずしも明確ではありませんが、「資本の絶対的過剰生産」との結びつきでは、競争・信用と商業資本の介入によって、恐慌現象は金融・信用恐慌として必然化することになるのです。

 「論点」恐慌の必然性と「投機活動」
 初期マルクス以来の「唯物史観」では、「恐慌・革命テーゼ」と呼ばれるイデオロギー的仮説が、根強く残っていました。いわゆるプランでも、「世界市場と恐慌」により資本主義の崩壊を説こうとしていたように推測されます。しかしマルクスは、理論的には純粋資本主義の抽象、とくに資本蓄積論など景気循環の必然性の解明から、さらに利潤率低下について「資本の絶対的過剰生産」を提起して、恐慌の必然性にアプローチした。また、現実的には47年恐慌のあと、約10年周期の恐慌の到来にもかかわらず、革命情勢は来ない。むしろイギリス資本主義を先頭に、恐慌を梃子にして資本主義の成長・発展が実現した。こうした中で、マルクス自身「恐慌・革命テーゼ」の仮説からの脱却を迫られた。純粋資本主義の抽象による自律的運動法則の解明だし、『資本論』の後期マルクスから、さらに70年代の晩期マルクスに他なりません。
 『資本論』では信用と利子率についても、利潤率と利子率の変動を中心に金融恐慌の解明が進んでいる。ここでも部門間不均衡や過少消費による商品過剰論が併存するものの、とくに低下する利潤率に対する、利子率の急激な上昇については、金融の投機化が重視される。言うまでもなく市場取引では、取引の投機化が必然的だし、特に景気が上昇し過熱化する際は、経済全体が投機化する傾向が強い。ある意味で投機は、市場経済に特有な現象だし、マルクスの強調した「無規律性の盲目的に作用する平均法則」もまた、市場経済の投機化を通して実現すると言っても過言ではない。流通形態としての資本が、上記の通りG-W-G'の形式で登場し、安く購入し、より高く販売する形式そのものが、すでに「投機」の可能性を孕んだ形式です。しかし、広く経済学、マルクス経済学でも、価値法則など法則解明については、「投機」などの攪乱的要因を捨象し、ひたすら平均化した状態で説明されます。一方では資本主義経済を「カジノ資本主義」と呼びながら、同時に他方では「投機」を単なる攪乱要因として捨象するのです。そのため市場経済の無政府的特徴が無視され、市場法則の投機的特殊性が捨象されるきらいが大きかった。とくに金融恐慌の必然性の解明には、「投機」が不可欠だと思います。(「投機」については、拙著『恐慌論の形成』2005年、日本評論社刊の第4、5章で詳論したので参照のこと)
 さらに上記の通り、「資本の絶対的過剰生産」の局面を迎えて、低下する利潤率を利潤量でカバーしようとして、投資競争が激化する。過当競争ですが、企業はこの過当競争に対応するためにも、ますます信用への依存を高める。商業信用から銀行信用へ、銀行は資金需要の増大に対応するために、いわば信用の投機化といえる「信用創造」を拡大する。企業は信用創造を利用するが、より安い利子で借り入れた資金をより高い利子で返済を迫られる。この信用の投機化と結びついて、商業資本など企業がさらに投機的取引に依存せざるを得なくなる。とくに限界利潤率がゼロ、マイナスの「資本の絶対的過剰生産」が進めば、銀行の「金準備」の歯止めがある以上、信用創造で投機化した利子率の上昇が生じ.利潤率と利子率はここで激突、貨幣金融恐慌が必然化する。ここでは商品の投げ売りも起こり、「資本過剰」による「商品過剰」も暴露されます。
 こうした投機の介入による金融恐慌の必然性を、投機を攪乱的要素として捨象する結果でしょう、ここで「世界市場と恐慌」のテーゼがまたまた復活を見ます。銀行の利子率上昇を、貿易収支の悪化など、中央銀行の「金準備」の流出から説明する見解に他なりません。しかし、これは明らかに純粋資本主義の抽象の否定だし、「唯物史観」の恐慌革命テーゼへの逆コースになるだけでしょう。純粋資本主義の放棄による世界資本主義への復帰に他ならない。それだけに商品形態には「投機」が不可欠であり、投機を通して資本主義経済の「無規律性の盲目的に作用する平均法則」が貫かれる法則性の意義を銘記すべきだと思います。

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by morristokenji | 2018-06-10 16:47