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森のミュージアムの最新情報<研究ノート>を分離


by morristokenji

労農派コミュニタリアニズムの群像(1)―⓶宮澤賢治の羅須地人協会

 宮澤賢治の活動が多様で多彩極まりないものだったこともあり、彼の思想遍歴も多様である。誰でも若い時の思想をもち続けることは少ないが、賢治については宗教的な葛藤が大きい。とくに日蓮宗、法華経との関連で、「国柱会」の活動にかかわった点が注目されている。盛岡高等農林時代には、同人誌「アザリア」との関連で、学友の保坂嘉内との交流が強かったようだが、その後「1921(大10)年1月23日、突如賢治は家を出た。国柱会に入会以来父へ改宗を迫り、しばしば激しい論争をした。しかし父の容れるところとならず、この日たまたま店番中日蓮遺文集が棚から落ちて背を打ち、さあ行け励ますように感じて家出を決行した。上京して国柱会を訪い、本郷区菊坂町75(現文京区本郷4丁目35番5号)稲垣方に下宿した。仕事は赤門前の文信社---小出版社のガリ版切り、夜は国柱会に奉仕し」と「年譜」が伝えている。有名な「家出事件」だが、国柱会に入会して活動に関心を持っていたにしても、賢治の家出そのものは、父親との諍いや家業が嫌だったことが原因で、その口実が国柱会だったように思える。国柱会活動のための家出ではなさそうであり、だから下宿で大量の童話の原稿を書き、8月には妹トシの病気で早々に帰郷したのだ。日蓮宗への信仰は強かったが、国柱会の活動参加は短期間だ。
 若い時、右翼の活動にかかわった点では、労農派の堺利彦も似ている。文士として多くの新聞社や雑誌社と関係したが、兄の堺乙槌を頼り、大阪に出てきて「新浪華」という新聞社に入社した。ここは国粋主義の系統に属する新聞で「社会主義者、マルクス主義者として知られる堺利彦は、二十代初めには国粋主義の陣営に加わっていたのです」(黒岩比佐子『パンとペン』より)逆の例もある。堺たちの「平民社」が財政危機に陥った際には、「北輝次郎」の名前で、後の右翼の大物となった当時21歳の「北一輝」がカンパしたこともあった。こうした堺利彦の遍歴の幅の広さが、すでに紹介した彼の「社会主義鳥瞰図」において「あらゆる思想はみな濃淡のボカシをもって連続している」、つまり「右の右は左、左の左は右」であり、堺をはじめ労農派の思想には、幅に広さがあった。その点も、W・モリスと共通する。モリスも、マルクス主義者を自任しながら、エンゲルスからは「空想的社会主義者」として敬遠され、排除された。また、マルクスの娘エレノアや『社会主義』の共著者バックスと結成した「社会主義者同盟」も、アナーキストに支配されるなど政治的に苦労した。こうした幅の広さは、ロシア革命後のマルクス・レーニン主義のドグマ化されたセクト主義との大きな違いだ。
 その点で宮澤賢治の思想的立場として重要なのは、アナーキストとの関係だろう。賢治は生前には、1924年(大13)に詩集『春と修羅』、それに童話集『注文お多い料理店』の2冊しか公刊できなかった。それも事実上は自費出版、しかも売れ行きは頗る良くなかった。そんな賢治の著作について、まず『春と修羅』に高い評価が出た。読売新聞にアナーキストの辻潤が「惰眠洞妄語」で激賞したのだ。さらに草野心平の『銅鑼』同人に勧誘され、賢治も寄稿することになった。こうして無政府主義者のグループとして活動することになった。大逆事件の幸徳秋水に続いて、1923年の関東大震災の甘粕事件で指導者の大杉栄が虐殺された直後でもあり、賢治の立ち位置は微妙だったことは言うまでもない。幸徳秋水や大杉栄と堺利彦たちとの関係を考えると、すでに賢治は花巻農学校の最後、花巻・羅須地人協会の立ち上げのかなり以前から、注)アナーキストなどとの近い思想的立ち位置だったのは明らかだ。
注)賢治は労農派シンパである以上に、アナーキストとの関係が深い点は重要だろう。羅須地人協会の活動と同時にアナーキズムとの関係も深まったし、とくに『銅鑼』同人で中国の詩人、黄えいとの関係については、佐藤竜一『黄えい』(日本地域社会研究所、1994年刊)を参照されたい。
 花巻農学校時代、賢治の生活は充実し、楽しいものだったらしい。その教師生活を捨てて「羅須地人協会」を始めた理由だが、建前としては「本物の百姓」を目指したからである。しかし、具体的な理由となれば、モリスなどを継承する「農民芸術」の実践である演奏活動、「ポランの広場」など演劇の上演活動が、治安維持法などで学校の教育現場では不可能になった。また、盛岡高等農林で同窓・同級・同室でもあった親友で、将来を誓いあった高橋秀松が、早々に水戸の農学校の教師を辞めて、当時は『貧乏物語』で有名な河上肇が学部長だった京都帝大経済学部の学生となった。注)「自由学校」ともいえる羅須地人協会の発足の際の岩手日報のインタビュー記事にも、「新しい農村の建設に努力する花巻農学校を辞めた宮澤先生」との見出しで、「それには、自分に不足であった農村経済の研究を̪し、耕作をしながら幻灯会やレコードコンサートを開くなど、生活すなわち芸術の生涯を送りたいし、同志が20名ばかりあるので作物の交換を行い、静かな生活をつづける考えであると記されている。」(『年譜、1926年(昭元)4月1日)仙台の東北大あたりで「農村経済の研究」の点は上記、高橋秀松からの刺激を受けているようだし、「芸術の生涯」はモリスの農民芸術の実践が大きな理由だったのではないか?
注)賢治の高等農林時代の親友として保阪嘉内の名が挙げられるが、同人雑誌の仲間としては嘉内だが、学生時代の親友の意味では、高橋秀松が重要だと思われる。拙稿「宮沢賢治と高橋秀松―二人の友情と<産業組合>」(『賢治学』第6輯、2019年刊)参照のこと。
 こうした経緯で、すでに不自由になってきていた学校の教育現場から離れ、下根子桜の宮澤家の別荘で羅須地人協会の「自由学校」はスタートした。「花壇をつくり、崖下の荒地を開墾し、やがて農学校卒業生らを集めてレコードコンサートや音楽の合奏練習をはじめる。一方、稲作、肥料相談所を各所に準備する。」『農民芸術概論綱要』に描いた夢、そしてコミュニタリアニズムの実践の場として、賢治の羅須地人協会はスタートした。そして、賢治自らが「集会案内」のガリ切りをして、農民芸術の講義や砕石肥料などの化学的説明を担当する。皆が楽器を買い求め「セロ弾きのゴーシュ」に描写されているような合奏練習、「ポランの広場」で実践した演劇上演の準備も進められていた。しかし、こうした集会形式の活動への弾圧の手が、すでに治安維持法のもと、花巻農学校の教育現場だけでなく、さらに「自由学校」の羅須地人協会にも伸びてきた。注)賢治の夢や理想、集まってきた協会メンバーの大きな期待も、大正デモクラシーが関東大震災で終末を迎え、世界大恐慌の接近を前にして、正しく風前の灯火だったのだ。
注)羅須地人協会は音楽会や演劇上演などができなくなり、「集会形式」の活動が停止された。組織としては解散したり活動を停止したわけではないと思う。上記、伊藤与蔵「賢治聞書」でも、与蔵は下根子での活動再開を期待していた。
 当局が羅須地人協会の活動に目を付けたのは、協会の「集会形式」の活動だけではなかった。賢治が意識的にオルグ活動をしたかどうか不明だが、例えば山形・新庄の松田甚次郎の「最上協働村塾」、伊藤七雄による伊豆大島の「農芸学校」との関係は深い。ただ、当時の風潮としては、いわゆる労農派の系統として、日本でも1920年代全国的に「会社が作った養成所や政府や自治会が経営した労働学校ではない、いわゆる<独立労働者教育>を目指した学校で十年以上続いたのは東京と大阪だけでした。」(二村一夫「大阪労働学校の人びと」)とくに大阪労働学校は、「大原財団」「大原社会問題研究所」の支援もあり、花巻の羅須地人協会より少し早く1922年(大11)設立、16年間も存続した。創立者の中心は、協同組合運動で有名な賀川豊彦、それに教授陣が豪華で、学長クラスが大内兵衛、森戸辰男、学者では高野岩三郎、新明正道など、ジャーナリストも笠信太郎、尾崎秀美など多士済々、錚々たる陣容だった。賀川豊彦と言い、森戸辰男と言い、W・モリスなどの「共同体社会主義」(コミュニタリアニズム)の流れも強い。注)こうした労働学校の動きに連動した「農民学校」としての花巻「羅須地人協会」にたいして、当局の眼が光ったかも知れない。
注)大阪労働学校など、政府の公的機関や企業の営利目的ではなく、労働者や農民の自主的な「自由学校」が活動をを開始した。その点については拙稿「宮沢賢治の<羅須地人協会>:賢治とモリスの館、開館十周年を迎えて」、関連して「ウィリアム・モリスと夏目漱石、それから宮澤賢治」(いずれもパンフレット「仙台・羅須地人協会」編)を参照されたい。
 松田甚次郎の「最上協働村塾」だが、甚次郎は賢治の後輩として、1928年(昭2)に盛岡高等農林を卒業、すでにスタートして新聞でも話題になっていた「羅須地人協会」を訪れた。そこで賢治から「小作人たれ」「農村劇をやれ」と強く諭され、その感銘を胸に「最上協働村塾」を立ち上げ、多くの農村婦人の参加もあり、活動は戦時下まで続いた。賢治もそうだし、甚次郎もそうだが、東北の豪農出身であり、いわゆる地主の「金貸・商人資本」として有力な地方の事業家の子息であった。そうし家庭でなければ、高等農林に進学できない時代だった。だから「小作人たれ」と言われても、小作人になれる筈がないから、小作人の立場や気持ちを踏まえて活動し、そして農民芸術としての「農村劇」など実践しろ、と賢治は激励したのであろう。「小作人たれ」は、賢治らしい心象表現であり、あくまで「農村劇」など、モリスからのアーツ&クラフツ運動による農村改革運動だった。
 伊藤七雄が計画した「大島・農芸学校」も同様であり、「伊藤七雄は胆沢郡水沢町の豪商の出で、ドイツ留学中に胸を患い、療養のために伊豆の大島に転地し、ここに土地を買い、家も建てて暮らしていた。妹は兄を看病していた」(堀尾青史『年譜宮沢賢治伝』)七雄は早稲田大学出身で、浅沼稲次郎とも親しく、「建設者同盟」の系統で、日中交換学生の実現、大震災時の朝鮮人学生の保護などでも活躍した。伊豆大島での療養も、三宅島出身の浅沼の紹介らしいが、健康が一時回復した機会に、すでに1926年(昭元)に労農党支部大会で会ったことのある賢治を訪ねて、1928年(昭3)に妹と共に花巻に来ている。その返礼を兼ねて賢治の大島訪問の旅となった。その際、大島の漁業との関連も考慮してだろう、わざわざ仙台で開催中の「東北産業博覧会」(仙台商工会議所主催)にも立ち寄り、そのデータを持って大島の七雄を訪問し協力している。こうした点では、賢治の活動はすでに生産協同組合など、労農党の農民運動の一端を担うことになっていた。
 さらに加えると、花巻の羅須地人協会の活動は、賢治が実家を出て別宅で「独居自炊の生活に入る」とされている。しかし、実際は『賢治と一緒に暮らした男―千葉恭を尋ねてー』(鈴木守)がいた。千葉も水沢出身で、1923年(大13)穀物検査所花巻出張所で賢治に出会い、賢治の希望もあって、下根子桜の別宅に8か月ほど寄寓した。ただ、千葉も時折は水沢の実家に帰り、農業を手伝っていたらしいし、その後は実家に戻って帰農している。問題は、帰農した後、千葉は実家で「研郷会」を組織し、以後もたびたび下根子桜の羅須地人協会を訪問、水沢の「研郷会」の活動状況を賢治に報告している。その限りでは、花巻と水沢に活動のネットワークが形成され、地域活動の輪が拡大を始めていた。こうした動きもまた、官憲の注目を浴びることになったろうし、とくに1928年は、周知のとおり治安維持法による「3・15事件」で共産党員の大検挙、続いて労農派の関係者も多数検挙された。羅須地人協会の活動は、その活動自身が問題になったろうし、さらに組織的ネットワークの拡大も弾圧の対象になったと思われる。
 とくに岩手県でも、浅沼稲治郎などが来て労農党の支部結成の動きがあり、上記のように賢治も参加協力し、ここで伊藤七雄との縁もできた。さらに1928年には第一回の普通選挙に労農党稗貫支部から代表の泉国三郎が立候補、賢治も積極的に応援した。「バケツいっぱいのしょうふのりにハケをつっこみ、片手に新聞紙いっぱいに<泉国三郎と書いたのをもって、町中貼ってあるいたばかりか、謄写版も貸してくれ、おまけに二十円の金まで使ってくださいとおいていった>(煤孫利吉談)ことも記している。」(青江舜次郎『宮沢賢治』)こうした賢治の行動もあり、警察の事情聴取もあったし、さらに宮澤家に対しても恐らく牽制の働き掛けもあったことが予想される。羅須地人協会活動のうち、集会形式の活動、演奏や上演などの団体活動を規制せざるを得なくなったのではないか?『年譜』には次のような説明がある。「8月10日、発熱し豊沢町の実家で臥床、40日間、熱と汗に苦しむ」「9月下旬、一応回復し、下根子の協会へもどぅたが再び実家で臥床」「12月、急性肺炎を起こす。」要するに、賢治の病気のため、下根子桜の羅須地人協会活動は終わったことになっている。しかし、当時の賢治の健康状態、気象状況、稲作の作況など、綿密な検証により『年譜』は本当の「真実」を伝えるものではなく、「賢治の療養状態は、大した発熱があったっわけでもないから療養の傍菊造りなどをして秋を過ごしていた。」(鈴木守『羅須地人協会の終焉―その真実』)
 「真実」は、秋の「陸軍特別大演習」を前にして行われた官憲の「アカ狩り」から逃れるため、賢治が病気であることにして、実家に戻って自宅謹慎、蟄居していたのだ。
「・当時、<陸軍特別大演習>を前にして、凄まじい<アカ狩り>が行われた
 ・賢治は当時、労農党稗和支部の有力なシンパであった
 ・賢治は川村尚三や八重樫賢師と接触があった
 ・当時の気象データに基づけば<風雨の中を徹宵東奔西走>する風雨はなかった
 ・当初の賢治の病状はそれほど重病であったとは言えない」
 以上が、「不都合な真実」に対する本当の「真実」であろう。現在、また将来を考えれば、本当の真実を明らかにしておくことは大事だと思う。上記の通り、地元の労農党員の川村、八重樫が犠牲になったことを考えれば、賢治の身も、羅須地人協会そのものも、弾圧の危機にあったのだ。「不都合な真実」だったにしても、協会のメンバーと共に賢治が生き延びるためには、また岡山・倉敷の山川均の不敬罪事件で「一家取潰し」の例から宮澤家の存続を図ろうとすれば、「嘘も方便」で病気を理由にせざるを得なかった。それが「暗い谷間」に堕ちていく当時の東北の現実だったことを書いて置きたい。また、この事件で、『羅須地人協会の終焉』を迎えたというのも、本当の「真実」とは言えないことを強調したい。賢治が病気を理由に、羅須地人協会の「集会形式」の活動を辞めたことが、羅須地人協会の活動の失敗であり、賢治の挫折であり、思想的な転換であるといった厳しい評価である。確かに賢治の状況判断に甘さがあったにせよ、全体的には3・15事件を中心とする弾圧の犠牲だったし、秋の陸軍大演習のための天皇行幸を利用した予防検束の一環として、羅須地人協会の集会形式の活動が停止に追い込まれた。注)しかし、稲作や肥料相談、花壇設計などの活動は続けていたし、当時の「産業組合」活動に進むことになった点を忘れては困る。
注)鈴木守『羅須地人協会の終焉』は、「終焉」の表現はともかく、羅須地人協会の活動や宮沢賢治の「本当の真実」を綿密な検証により明らかにされた点で、心から敬意を表したい。「本当の真実」が解明されなければ、その評価は出来ないのであり、貴重な労作といえる。

by morristokenji | 2019-05-19 09:42