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森のミュージアムの最新情報<研究ノート>を分離


by morristokenji

別稿2 ソ連崩壊「脱レーニン『国家と革命』」:マルクス・レーニン主義批判

 1)問題の提起
 ここで童話作家・宮澤賢治に登場してもらうことに、違和感を持つ人が多いかも知れない。しかし、賢治が「労農派のシンパ」であり、地域でもかなり積極的に活動していたことは有名である。また、花巻の農学校を辞めて、自由学校の羅須地人協会でも、マルクスやエンゲルスの話題が多かったらしい。例えば、こんな話もある。「伊藤忠一君がマルクス全集を買いました。それを聞いて先生が、十年かかっても理解はむずかしいよ、と言っていました。今思い出してみると、先生の話の中に、カール・マルクスとか、フリードリッヒ・エンゲルスという名前がなんべんもあったように思います。たぶん社会主義に対する先生のお考えもお話になったと思いますが、残念ながら少しも覚えていません。」(「賢治聞書」伊藤与蔵、拙編著『賢治とモリスの環境芸術』時潮社、2007年)注)農学校と違った羅須地人協会の自由な雰囲気の中で、賢治も『資本論』などを手に入れ、マルクス主義など社会主義についての活発な議論が行われたのであろう。
 注)賢治は読書すると、その本を周囲に配ってしまったらしく、残された蔵書は多くない。しかし、その中に『資本論』が含まれている。
 さらに、こんな話がある。労農党の党員と思われる川村尚三の回想だが「その頃(昭和二年春頃)レーニンの『国家と革命』を教えてくれ、と言われ私なりに一時間くらい話をすれば、『こんどは俺がやる』と、交換に土壌学を賢治から教わったものだった。(中略)夏から秋にかけて読んでひとくぎりしたある夜おそく『どうもありがとう、ところで講義してもらったが、これはダメですね、日本に限って、この思想による革命はおこらない』と断定的に言い、『仏教にかえる』と深夜からうちわ太鼓で町をまわった」(杉浦 静「宮澤賢治と労農党」『国文学・解釈と鑑賞』2000年2号)注)当時の東北でも、ロシア革命やレーニンの思想が大きな影響を与えたのであろう。しかし賢治は、レーニンの『国家と革命』について、「断定的に」それを拒否していたエピソードである。労農派シンパらしい鋭い反応だし、賢治の優れた洞察力、透視力を見せつけられたように思う。
 注)研究会は盛岡の啄木に関連したものだってらしい。
 1991年のソ連崩壊は、言うまでもなく絶対的権威を保持していた「マルクス・レーニン主義」の根本的再検討を迫った。とくにレーニンがロシア革命の渦中に書いたと言われる『国家と革命』は、「マルクス・レーニン主義」の代表的著作として、「不羈の聖典」とも言える地位を与えられてきた。しかし、革命の渦中の作品として十分推敲されていない点もさることながら、とくに1870年代以降の「晩期マルクス」のコミュニタリアニズム(共同体社会主義)への接近などから考えると、一方でエンゲルスの「プロレタリア独裁」のテーゼへの偏執など、上記の宮澤賢治の拒絶反応を含めて、多くの再検討が必要だろう。すでに紹介したが、マルクスは「プロレタリア独裁」論について、あからさまな否定はしないものの、ある程度距離を置いていたように見える。また晩期マルクスは、70年代のコミュニティ・共同体研究ブームとの関係で、自らも『マルクス「古代社会」ノート』づくりを進めていた。そうした研究を踏まえて、レーニンとは対立する立場にあったナロードニキでメンシェビキのザスリッチによる『資本論』の「所有法則の転変」への疑問に対しても、肯定的な返書を書いていた。それだけにレーニンにとっては、エンゲルスのプロレタリア独裁を巡り、マルクス主義の整理が必要だったのではないか?とくにマルクスの見解を、エンゲルスと同様な「プロレタリア独裁」の主張に、改めて仕立て上げる必要があったように思われてならない。注)そのために『国家と革命』は、革命の渦中に書かれることにもなったのであろう。
注)「イスクラ」の編集メンバーは、ザスリッチをはじめメンシェビキに走り、レーニンは孤立してボルシェビキだった。それだけにマルクスの上記「返書」には、レーニンも気になっていたのではないか?
 
 『国家と革命』の具体的検討に入る前に、すでに検討したので重複するが、『共産党宣言』などとの関連で、マルクスの経済学研究の足跡を簡単に整理しておきたい。初期マルクス・エンゲルスの共同作業で、経済学研究の「導きの糸」と言われる作業仮設の「唯物史観」が提起され、政治的綱領文書『共産党宣言』に続いて、「中期マルクス」の『経済学批判』(1859年)が刊行された。しかし、これは「唯物史観」の枠組みの中での作業で、商品・貨幣論までで挫折し、「貨幣の資本への転化」まで進めなかった。誠実なマルクスは、『剰余価値学説史』など、改めて経済学説史の再整理を進め、唯物史観の枠組みを超えて、新たに純粋資本主義の抽象による『資本論』の世界を切り拓いた。「後期マルクス」による価値形態、労働力の商品化、資本主義の人口法則の解明など、「科学的社会主義」の生誕だった。また、純粋資本主義の抽象による『資本論』の自律的経済法則の解明により、世界市場や金融恐慌、国家の位置づけなど、改めて検討されることにならざるを得ない。続く1870年代、「晩期マルクス」には、パリ・コンミュンはじめ共同体研究のブームなど、検討課題がさらに提起されたのである。
 その場合、世界市場や国家との関連でも、『資本論』による純粋資本主義の抽象、そして近代社会の自律的経済法則の解明が、とくに重要である。純粋資本主義の抽象は、言うまでもなく19世紀中葉のイギリスを中心とする資本主義の自律的発展それ自身による歴史的・現実的抽象の世界に他ならない。周期的恐慌を含む景気循環の発展が、経済成長を自己実現し、その限りで「唯物史観」の「恐慌革命テーゼ」も反故と化した。初期資本主義の「原始的蓄積」のための強権的な国家も、A・スミスはじめ古典派経済学の自由主義政策の「夜警国家」に変わることになった。自由主義政策は、「小さな政府」の「政策なき政策」を実現し、近代国民国家は単なる「法治国家」に過ぎなくなり、その限りで政治的国家は後景に退いた。注)こうした「国家と革命」の歴史的変貌の下で、『資本論』の純粋資本主義の抽象が進み、資本主義の自律的経済法則が解明された、それが1860年代「後期マルクス」の世界に他ならない。そこに1870年、エンゲルスは20年ぶりにマンチェスターからロンドンに帰ってきた。ついでながらレーニンもまた、1901年だがロンドンに住み、当時はザスリッチも一緒に「イスクラ」を編集発行、その後も何度か訪れた。
注)『資本論』および宇野理論と法治国家との関係などについては、青木孝平『経済と法の原理論―宇野弘蔵の法律学―』(社会評論社、2019年)を是非とも参照されたい。

 2)エンゲルス・レーニン主義への偏向
 そこでレーニン『国家と革命』だが、序言で「はじめに、マルクスおよびエンゲルスの国家学説を考察し」その上でK・カウッキー批判、そしてロシア革命の現状を論ずる、としている。ここでは、マルクス、エンゲルスの考察に限定して検討するが、「1871年のパリ・コンミューンの経験」にも触れているので、必要に応じて取り上げよう。ただ、序言の冒頭「国家の問題は、現在、理論的な面でも、実践的=政治的な面でも、特別の重要性を獲得しつつある。帝国主義戦争は、独占資本主義の国家独占資本主義への転化過程を極度に促進し、尖鋭化させた」として、世界大戦と「国家独占資本主義」という、特殊な歴史的条件にあることを強調している。そうした特殊事情によるバイアスの強い点を注意すべきであろうが、その上でレーニンは第一章「階級社会と国家」、そして「一、階級対立の非和解性の産物としての国家」を論ずるのである。
 特殊な歴史事情によるバイアスの強い点は、マルクスの学説について「今日では、社会排外主義者はみな<マルクス主義者>である―冗談はよしたまえ!―そして昨日まではマルクス主義撲滅の専門家であったドイツのブルジョア学者たちは、略奪戦争を遂行するために、かくも見事に組織された労働組合を育て上げたという<ドイツ民族的な>マルクスについて、ますます頻繁にかたるようになっている」と述べている。マルクス主義の社会排外主義への利用の真偽の程はともかく、「マルクスの真の国家学説を復興させる」として引用するのがマルクスの著作ではなく、エンゲルスの著作『家族・私有財産および国家の起源』からである点も気になる。注)しかも、「国家はけっして外部から社会におしつけられた権力ではない。---和解しがたい対立に分裂したことの告白である。---社会から生まれながら、しかも社会の上に立ち、社会から自らをますます疎外してゆくこの権力が、国家である」を引用し、みずから「国家は階級対立の非和解性の産物であり」と定式化しているのである。
 注)エンゲルスの『起原』については立ち入らないが、モルガンなどの共同体研究を利用しながら、「マルクスが四十年まえに発見した唯物史観を、モルガンはアメリカで彼なりに新たに発見したのであり、それによって、未開と文明とを比較するさいに主要な点でマルクスと同一の結論に到達した。」と序文で強調して、初期マルクス・エンゲルスの唯物史観に回帰している。ここでも「晩期マルクス」との違いを強く感ずるが、なお『起原』はマルクスの死後に刊行された。
 さらに論点として、ひとつはブルジョア・小ブルジョア・イデオローグによる「国家は諸階級の和解の機関」説に対し、「マルクスを<ちょっぴり修正>する」点である。ここでもマルクスの修正を、エンゲルスの定式により行っている。もう一点は「マルクス主義の<カウツキー主義的>歪曲」であるが、この点もエンゲルスの「プロレタリア独裁」論による批判が強い。いずれにせよ後期マルクスの『資本論』との関連などは、完全に無視されている。その上でレーニンは、「二、武装した人間の特殊な部隊、監獄その他」に進み、国家権力の「監獄その他を自由にすることのできる武装した人間の特殊な部隊」をとり上げる。ここでもマルクスではなく、もっぱらエンゲルスによりながら「常備軍と警察とは、国家権力の暴力行使の主要な道具である」として、「国家の内部における階級対立が尖鋭化するにつれて、---公的暴力はますます強化する」と述べ、そうした事実を「前世紀の90年代の初め、---帝国主義への転換」として強調する。「帝国主義」の時代に先行する「自由主義」の時代の「夜警国家」については、一顧だにされないまま、エンゲルスとともに「三、被抑圧階級を搾取する道具としての国家」へとレーニンは筆を一方的に走らせてしまう。
 このように自由主義から帝国主義への歴史的「段階論」も無ければ、純粋資本主義の抽象による『資本論』の原理論との区別もないまま、国家は「搾取する道具」となっている。しかし、資本・賃労働の剰余価値生産、その階級関係には、そもそも「搾取する道具としての国家」の介入が必要なのか?『資本論』では、価値形態論を前提に、資本を流通形態として労働力商品を明らかにして、資本・賃労働が明らかにされた。その際、賃労働は「二重の意味で自由な労働力」商品である。一つは封建的な身分制度からの自由であり、もう一つは土地資産など生産手段を失ったことによる「失業の自由」である。その自由な労働力が商品経済の自由な契約で資本に雇用され、剰余価値が生産される。そこには法治国家の枠組みはあっても「被抑圧階級を搾取する道具としての国家」は存在しない。政治的国家の介入なしに資本・賃労働の剰余価値生産が「自律的運動法則」として実現するのが、『資本論』の純粋資本主義の世界である。注)その法則性を全く無視したまま、もっぱらエンゲルスの助力のもとに、単純な階級闘争史観に逆転するのがレーニンの論法なのだ。
 注)『資本論』を前提に法治国家と政治的国家については、上記、青木孝平『経済と法の原理論―宇野弘蔵の法律学』を参照のこと。
 確かに上述の20世紀を迎えた「国家独占資本主義」の下で、しかも第一次世界大戦とその敗戦の中で、ロシアで政治的国家が登場する現実は重要だった。しかし、その特殊歴史性を強調する必要があるにしても、エンゲルスに便乗して一般的に、そして原理的に「搾取する道具としての国家」を持ち出すのは誤りという他ないと思う。さらにレーニンは、「資本による賃労働の搾取の道具」としての近代国家を一般化して論じているし、例外として仏のボナパルティズムなどを例示している。また、国家と経済の癒着の事例として、エンゲルスとともに「官吏買収」「取引所との同盟」「帝国主義と銀行」などを挙げ、さらに『普通選挙権』による国家総動員体制の意義についても論じている。こうした事例は重要だが、それぞれ特殊歴史的な条件の下で位置付けるべきであり、単なる「階級支配の道具」にしてしまったのでは、それぞれの特殊歴史的意義は曖昧になるだけだろう。そうした方法的な曖昧さを強めながら、さらにエンゲルスとともに「四、国家の<死滅>と暴力革命」に進み、国家を「糸車や青銅の斧とならべて、考古博物館へ」送り込もうとする。
 無論、国家の「博物館入り」も簡単な話ではない。レーニンは、ここでもエンゲルス『反デュ―リング論』から長い引用を利用する。ここまでくれば、マルクス・レーニン主義ではない、まさに「エンゲルス・レーニン主義」の主張である。「プロレタリアートは、国家権力を掌握して、生産手段を先ず国有に転化する。」プロレタリア独裁による国家社会主義である。注)しかし、エンゲルスは「プロレタリアートはプロレタリアートとしての自分自身を揚棄し、それによってあらゆる階級区別と階級対立を揚棄し、それによって国家としての国家をも揚棄する。」この点に関連して、レーニンは5点を提起する。1)1871年のパリ・コンミュンの経験に根差すテーゼであり、プロレタリア革命によるブルジョアジーの国家の「揚棄」であり、国家の「死滅」は揚棄の後産的なものとする。2)プロレタリア独裁の意味も、「特殊な抑圧権力」としての国家に含める。3)国家の「死滅」は後産的であり、「民主主義もまた国家である」4)「国家の死滅」は、無政府主義者だけでなく、「自由な人民国家」を要求する日和見主義者にも向けられている。5)「国家死滅論」は、エンゲルスによる「暴力革命の役割の歴史的評価」と結びついている。
 注)こうしたプロレタリア独裁論にもとずくロシア革命の「国家社会主義」について、はじめに紹介した東北人の宮澤賢治の強い拒絶反応が生まれたのであろう。
 3)「プロレタリア独裁」論の『国家と革命』
 要するにレーニンは、もっぱらエンゲルスの「プロレタリア独裁論」を、ロシア革命のための『国家と革命』のテーゼに仕立て上げようとしているのだ。エンゲルスのプロレタリア独裁論は、すでに別の機会に紹介の通り、1871年のパリ・コンミュンの経験から提起されたが、マルクスはコンミュン参加の市民、協同組合などを評価し、エンゲルスの「プロレタリア独裁」の提起には一定の距離を置いていたように思われる。そのためレーニンの引用も、ほとんどすべてがエンゲルスのものだし、「暴力革命にたいするこのような見解をもって大衆を系統的に教育する必要が、マルクスおよびエンゲルスの全学説の基礎にあるのだ」と述べるが、これを読んだらマルクスはどんな顔をするか?レーニンは、ここで初期マルクス・エンゲルス時代の『哲学の貧困』、『共産党宣言』、注)それとともに元来は「私信」に過ぎないはずの『ゴータ綱領批判』を挙げるだけで、後期マルクスの『資本論』などは無視している。繰り返すが『国家と革命』は、マルクス・レーニン主義ではない。エンゲルス・レーニン主義として読むべきだろう。
 注)『共産党宣言』については、別稿「脱・マルクス・エンゲルス『共産党宣言』:マルクス・レーニン主義批判」を参照のこと。
 エンゲルス・レーニン主義と言うべき『国家と革命』の主張は、もっぱら第一章でまとめられ、第二章は「1848―51年の経験」、第三章は「1871年のパリ・コンミュンの経験」である。いずれも歴史的事例による補足とみていいが、ここでは第三章を検討したい。上記の通りエンゲルスの「プロレタリア独裁」は、パリ・コンミュンで提起されたが、その意味では『共産党宣言』など、初期マルクス・エンゲルスの見解の補強が第二章で必要であった。その上で第三章だが、レーニンは「いまや世界史は、疑いもなく1852年とは比較にならないほど広範な規模で、国家機構の<破壊>にたいして、プロレタリア革命の力をことごとく集中>させる方向にみちびきつつあるーーーパリ・コンミュンがもっとも教訓的な材料を提供した」として、第三章に入っている。とくに『共産党宣言』の修正点としては「マルクスの考えは、労働者階級は<できあいの国家機構>を粉砕しうちくだくべきであって、それをそのまま奪取するにとどまってはならない、という点にある。」しかし、「1871年のヨーロッパ大陸では、プロレタリアートはどの一国でも人民の大多数をしめてはいなかった。---<人民>革命は、プロレタリアと農民ののいずれをも抱擁したときにだけ」成功するが、「パリ・コンミュンは、まさにこのような同盟にむかって道をひらこうとしたが、内外のいくたの原因のために、その目的を達しなかった。」それでは、「粉砕されたた国家機構を何によっておきかえるか?」
 ここでレーニンは、マルクスの『フランスの内乱』から引用し「プロレタリア社会主義共和制のこの<明確な>形態は、一体、どういう点にあったか?」この設問に対して、「コンミューンは、粉砕された国家機構を、<たんに>一層完全な民主主義によって、すなわち常備軍の廃止、すべての公務員の完全な選挙制と解任性によっておきかえたものであるかのようである。だが実際には、この<たんに>は、ある制度を、これと原則的に異なる種類の他の制度によって大々的におきかえることを意味する。ここに、まさに<量の質への転化>の一つの場合がみられる。」ブルジョア民主主義からプロレタリア民主主義への転化であり、「もはや本来的には国家ではないあるものへの転化」である。続いて次に、マルクスによる「議会制度の揚棄」をとりあげ、「コンミュンは、議会的な団体ではなくて、同時に執行府でもあり立法府でもある行動的な団体たるべきものであった。」レーニンは、関連してドイツの社会民主主義の見解として「郵便を社会主義経営の見本と呼んだ。全くその通りである」として、「全国民経済を郵便にならって組織すること、---武装したプロレタリアの統制と指導のもとに<労働者の賃金>以上の俸給を受けないように組織すること―これこそ、われわれの当面の目標である。」プロレタリア独裁型国営郵便局制度、この「郵政改革」がレーニンの革命であろうか?その上で「四、国民の統一の組織」を論じている。
 しかしマルクスは、地域共同体としてのコンミュンを重視している。「コンミュンをさらに仕上げるだけの時間が無かったが、全国的組織の大まかな見取図には、どんな小さな田舎の部落でもコンミュンがその政治形態となるべきであったこと」「パリの<全国代議員会>もまた、コンミュンから選出されることになっていた。」その上で「国民の統一は破壊されるのではなく、反対に、コンミュン制度により組織されるはずであった。---古い統治権力の純然たる抑圧諸器官は切り取ってしまうべきではあったが、他方、その正当な諸機能は、社会そのものにたいする優越権を横奪しつつ権力者からもぎとって、これを社会の責任を負う機関に返還するはずであった。」マルクス『フランスの内乱』からの引用だが、こうしたコンミュン重視によって、プルードンなど無政府主義者との新たな関係が生まれる。注)それと同時にベルンシュタイン、カウツキーなどとの論争点にもなるが、それに立ち入るのは省略する。しかしレーニンの主張は、ここでも「マルクスは中央集権主義者である」として、「プロレタリア的中央集権制度」として評価しつつ、「プロレタリア独裁」の側に引き寄せてしまう。その上で、最後に「五、寄生体―国家―の揚棄」に進む。
 注)「パリ・コンミュン」におけるプルードン派の影響力は大きかった。フランスという事情があったと思われるが、もともとマルクスとプルードンとの関係は、初期マルクスの『哲学の貧困』によるマルクスのプルードン批判の影響によるものだった。しかし、『哲学の貧困』の理論的限界も大きかったと思う。
 ここでもマルクスからの引用の上「<寄生する肉瘤>であった<国家権力の廃絶>、それの<切り取り>、それの<破壊>、<いまや余計なものとなりつつある国家権力>―これらが、コンミュンの経験を評価し分析する際に、マルクスが国家について述べたもろもろの表現である」として、レーニンは結論的に「マルクスは、社会主義と政治闘争との全歴史から、国家は消滅するに違いない、国家の消滅の過渡的形態は<支配階級に組織されたプロレタリアート>であろう、という結論を引き出した。だがマルクスは、この将来の政治的諸形態を発見しようとはしなかった。ただフランスの歴史を精密に観察し、それを分析し、1851年に到達した結論―事態はブルジョア国家機構の破壊にむかって近づきつつある、という結論を下すに止まつた」として、エンゲルス流の「プロレタリア独裁」論に強く引き付けながら、次のように結論を下している。すなわち、「コンミュンは、ブルジョア国家機構を粉砕しようとするプロレタリア革命の最初の試みであり、粉砕されたものにとってかわりうる、またとってかわらなければならない、<ついに発見された>政治形態であるとして」1905年、そして1917年のロシア革命に繋げたのである。

4)「晩期マルクス」とエンゲルス「プロレタリア独裁」
 レーニン『国家と革命』は、ロシア革命の成功とソ連社会主義の体制維持により、長く「マルクス・レニン主義」の聖典に位置付けられて来た。確かにロシア革命の成功から言えば、レーニンと彼の『国家と革命』の果たした役割は真に大きかった。その歴史的役割を過少に評価したり、否定することは出来ない。しかし、『国家と革命』の内容は、マルクスではなく、もっぱらエンゲルスの所説によるものだし、とくに「プロレタリア独裁」論に依拠するものだった。1871年パリ・コンミュンが取り上げられ、そこではマルクスの『フランスの内乱』も引用され、利用されている。しかし、できる限りエンゲルスの「プロレタリア独裁」論に引き寄せてマルクスは利用されたのであり、それはマルクス・レーニン主義と呼ぶより、むしろ「エンゲルス・レーニン主義」が適当だったのではなかろうか?
 「後期マルクス」によって『資本論』の地平が拓かれ、純粋資本主義の抽象による資本主義の自律的運動法則の解明がなされた。マルクスとしては、資本主義の運動法則を前提にして、パリ・コンミュンを受け止めざるを得なかった。周知の通りパリ・コンミュンは、普仏戦争後にパリ市の自治市会の宣言によるもので、「史上初のプロレタリアート独裁」などと、もっぱらエンゲルス寄りに紹介される例が多い。しかし、70年に始まった普仏戦争は、ナポレオン三世の仏政府軍が大敗北、敗戦による混乱に対するパリ市民の自治体の抵抗闘争だった。単なる国家権力をめぐる階級闘争、そこでの「プロレタリア独裁」と言った単純な図式ではない。マルクスは敗戦による混乱の中での複雑な対立図式を考慮しているし、抵抗闘争の中心もプロレタリアートというより伝統的な都市の手工芸の職人、熟練工であり、プルードン的な「職人社会主義思想」の影響も大きかった。そして、不況や戦争の中で「互助的な協同組合」の結成も相次いだ。だからマルクスも、協同組合の活動に注目し、その発展に多大な期待をかけていたのだ。ここでも繰り返し引用して置く。
 「もし協同組合的生産が詐欺や罠に止まるべきでないとすれば、もしそれが資本主義制度にとってかわるべきものとすれば、もし協同組合の連合体が一つの共同計画にもとづいて全国の生産を調整し、こうしてそれを自分の統制のもとにおき、資本主義的生産の宿命である不断の無政府状態と周期的痙攣とを終わらせるべきものとすれば―諸君、それこそ共産主義、<可能な>共産主義でなくてなんであろうか!」(マルクス『フランスにおける内乱』マル・エン全集⑰)ここでは、すでに『資本論』で解明した資本主義経済の自律的運動法則の止揚として、①パリ・コンミュンの共同体・コミュニティ、②そのもとでの相互扶助的な協同組合の発展、③地域協同組合の連合組織による共同計画に基づく「コミュニタリアニズム」の大枠が提示されている。エンゲルスの階級支配の道具としての国家、その暴力装置の奪取、プロレタリア独裁による国家の死滅の図式との違いは大きいと思う。
 マルクスは『資本論』の世界で、純粋資本主義を抽象し、下部構造として国家など上部構造から自律的に運動する法則性の解明に成功した。ここでは資本・賃労働も、階級支配の道具としての国家権力の暴力なしに、労働力の商品化による矛盾に基づく剰余価値生産の秘密が明らかにされた。それにより労働力商品化の基本矛盾の止揚が方向づけられ、国家権力の奪取による上部構造ではなく、下部構造の内部からの変革が提起されたのである。60年代「後期マルクス」の第一巻刊行から、進んで70年代、第2巻「資本の回転」の原稿など、労働力商品の「社会的再生産」の科学的解明に進んだ。その解明の中で、資本流通の循環・回転に対して、賃労働による生産と消費の単純流通と消費主体の家庭、家族など地域「共同体」の位置づけが明らかにされた。「晩期マルクス」が、上記のパリ・コンミュン、モルガンの共同体研究、さらいロシアのザスリッチへの返書など、コミュニタリアニズム(共同た社会主義)に接近していたことは、すでに別の機会に紹介したので繰り返さない。注)それはエンゲルス・レーニン主義の「プロレタリア独裁」とは異なる、マルクスのもう一つの道だったと思う。
 注)拙稿「労働力商品化の止揚と『資本論』の再読―労働運動の再生と労働力の再生産の視点」(平山昇等編著『時代へのカウンターと陽気な夢』社会評論社、2019年所収)を参照されたい。

by morristokenji | 2019-08-19 10:28