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森のミュージアムの最新情報<研究ノート>を分離


by morristokenji

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 2018年は、マルクス生誕200年、その前の年2018年が『資本論』150年の節目だった。一部関係者の努力と期待にもかかわらず、マルクス主義のブームは起こらなかった。「すでに日本ではマルクス経済学は絶滅危惧品種である」との近代経済学からの冷たい評価を痛感する。しかし、国際的には中国など、新しいマルクス主義の再評価の動きもあり、とくにソ連崩壊による「マルクス・レーニン主義」の失権に代る、マルクス主義の根本的な見直しが要請されている。その際、上述の初期マルクスや後期マルクスに対して、新たに「晩期マルクス」の位置づけ、とくに「コミュニズム」(共産主義)に対する「コミュニタリアニズム」(共同体社会主義)に着目の必要があると思う。ロシア革命以来、戦前戦後を通じて「マルクス・レーニン主義」の覇権主義的支配が強く、その反動としてソ連崩壊が「社会主義」を死語と化した感も強まつた。しかし、モリス・バックスの『社会主義』を含めて、西欧の社会主義の源泉は広く深い。その点では、「マルクス・レーニン主義」の専制こそ異常な時代だったのであり、今や正常化を取り戻した時代として、モリス・バックスの『社会主義』と「晩期マルクス」の接点を再確認する必要があろう。
 すでに紹介の通り、日本では幸徳秋水が『社会主義神髄』でマルクス『資本論』、エンゲルス『空想から科学へ』などと共に、モリス・バックスの『社会主義』を紹介し、強く推奨していた。『社会主義』では、とくにマルクス『資本論』を「第19章科学的<社会主義>―カール・マルクス」と大きくページを割いて紹介している。じつは『社会主義』のまえに、イギリス最初のネ―ティヴによるマルクス主義団体「<社会>民主連盟」「社会主義者同盟」などで、マルクスの三女エリノアと同志的に活動していたE・Bバックスが、当時まだ『資本論』の英訳が出ていなかったが、1881年12月、月刊評論誌『モダーン・ソート』に「現代思潮の指導者たち、第23回―カール・マルクス」を書いた。それを送られたマルクスは「ロンドンのウェストエンドの壁に、ビラにより大文字で告知された論説の発表は、一大センセーションを生んだ。---愛する妻が生涯の最後の日々に、それにより元気づけられたことである。君も知っての通り、彼女はこうしたすべてについて強烈な関心を寄せていたのだ。」ゾルゲにはコピーを送り、さらに英仏の多くの関係者にも、コピーと共に「現代の社会主義にたいして真正な関心を示している最初のイギリスの批評家なのです」と言った書面を送っている。
 それから約1年ほどで最愛の妻を追うように、マルクスもまた1883年3月に他界した。マルクスから多大な評価を受けたバックスは、『資本論』を熟読していたモリスと共に、社会主義者同盟の機関紙「コモンウィール」にファンタジックロマンの代表作『ユートピア便り』とともに、『社会主義』を連載した。それをさらに共著として「第20章たたかう<社会主義>」「第21章勝ちとられた<社会主義>」などを書き加えて1893年に刊行されたのである。こうした事情を考慮すると、マルクスとモリスは直接の接点はないようだが、エリノア・マルクスと共にバックスとの関係、とくにバックスとしては上記『モダン・ソート』にたいするマルクスの高い評価を受け、モリスを誘って文字通りの共同作業として『社会主義』が刊行されたのである。『社会主義神髄』の幸徳秋水、さらに堺利彦、山川均などの労農派グループが、上述の通り鳥瞰図の「マルクス派(あるいは正統派)」として、モリス・バックスを継承することになった点を強調したい。
 では、戦前の日本、ロシア革命による「マルクス・レーニン主義」の正統化と教条化以前の段階において、堺や山川が上記「マルクス派(あるいは正統派)」と自称していたマルクス主義とは何だったのか?初期マルクス・エンゲルスの唯物史観、もしくは政治文書『共産党宣言』か?中期の『経済学批判』のそれか?純粋資本主義の抽象による自律的運動法則の『資本論』の世界か?それとも1870年代、パリ・コンミューンなど共同体ブームを踏まえた「晩期マルクス」の地平なのか?我々の結論を言えば、「晩期マルクス」による共同体社会主義(コミュニタリアニズム)のそれであり、そこにまたモリス・バックスの『社会主義』とマルクスとの接点があったことは、上記のバックスによる月刊評論誌『モダーン・ソート』のマルクス『資本論』の評論に対するマルクスの賛意表明からも明らかだと思う。また、1870年代、「晩期マルクス」については、すでに別の機会に論じたので、以下要点だけを摘記するだけにとどめたい。
 第1に、1868年『資本論』第1巻が刊行された後、1871年普仏戦争が起こり、ナポレオン3世のフランスが敗退した。それに伴い「パリ・コンミューン」が、リヨンやマルセイユなどのコンミューンと共に、市民の都市防衛闘争として立ち上がつた。パリ・コンミューンについては、「世界初の社会主義革命」とか、「世界最初のプロレタリア独裁政権」などと呼ばれるものの、あくまでも市民による都市共同体の防衛戦争であり、立ち上がった市民もプロレタリアというよりも都市の職人層だし、協同組合などの参加者者だった。マルクスも『フランスの内乱』を書いたものの、大量虐殺による鎮圧の後であり、「出し遅れの証文」だった。エンゲルスの「プロレタリア独裁」も、第一インター(国際労働者協会)の内部対立を激化させ、混乱の果てに1876年に組織解散を招いた。大変な政治的失敗となった。『共産党宣言』以来の路線の再構築が迫られた。
 第2に、パリ・コンミューンをはじめ、共同体・コミュニティに対する関心の高まりもあり、遅れていた原始・古代からの共同体研究が本格化した。アメリカの文化人類学の先駆者と言われるL.H.モーガンの『古代社会』(Ancient Society)が、1877年に刊行されたが、マルクスもそれを読み、長大な「古代社会ノート」(クレーダー編『マルクス古代社会ノート』)を作成している。マルクスにとっては、『経・哲草稿』や『剰余価値学説史』などに続く、いわば最後の「ノートづくり」となった。また、とくにモーガンは、親族を中心に婚姻・家族の制度を基礎に共同体の発展系列を明らかにした。こうした研究に影響されて、エンゲルスもまた『家族。私有財産・国家の起源』を書き、マルクス主義もまた、共同体研究を基礎に再構築の作業が始まったとも言えるだろう。
 第3に、ロシアのナロードニキ、そしてロシア社会民主労働党のメンシェビキの理論家、ヴェラ・ザスーリッチからのマルクスへの質問状と、それへの返書がある。この問題については、別の機会に質問状や返書の内容について論じたので繰り返さない。質問は、初期マルクス・エンゲルス以来の唯物史観、そして「所有法則の転変」に関するもので、『資本論』によればロシアの村落共同体の運命について、「村落共同体は古代的な形態であって、歴史により没落する運命にある」との主張の是非を問うものだった。マルクスは、「この西方の運動では、私的所有の一つの形態から、他のもう一つの形態への転化が問題なのです。これに反してロシアの農民にあっては、彼らの共同所有が、私的所有に転化されなければならないでしょう。ですから、『資本論』で与えられた分析は、農村共同体の生命力を肯定する理由も、否定する理由も提供してはいません。しかし、私が行った特殊研究により、私はこの共同体がロシアの社会的再生の支点だと確信するようになりました」と書き、「所有法則の転変」について、事実上の修正を行ったのである。
 なお、それに関連して初期マルクス・エンゲルスの唯物史観の「綱領的文書」として有名な『共産党宣言』についても、とくにパリ・コンミューンと第一インターの組織的瓦解などを踏まえ、修正の意向を漏らしている。『宣言』は歴史上多数の読者を獲得し、『聖書』と並ぶ世界のベストセラーと言われえている。しかし、パリ・コンミューン後の共同体研究ブームや上記ザスーリッチへの返書問題もあり、『宣言』についても、1882年ロシア語版序文では、マルクス・エンゲルス連名だが、恐らくマルクスの執筆で以下のように述べている。「『共産党宣言』の課題は、近代のブルジョア的所有の解体が不可避的に迫っていることを宣言することであった。ところが、ロシアでは、資本主義の思惑が急速に開花し、ブルジョア的土地所有が発展しかけているその半面で、土地の大半が農民の共有になっていることが見られる。そこで、次のような問題が生まれる。ロシアの農民共同体は、ひどく崩れてはいても、太古の土地共有制の一形態であるが、これから直接に共産主義的な共同所有という、より高度の形態に移行できるだろうか?」
 この設問に答えてマルクスは、上記の返書以上に明確に述べている。「この問題に対して今日与えることのできる唯一つの回答は、次のとおりである。もし,ロシア革命が西欧のプロレタリア革命に対する合図となって、両者が互いに補い合うなら、現在のロシアの土地共有制は共産主義的発展の出発点となることができる。」ここでは明確に初期マルクス・エンゲルスの唯物史観、所有法則の転変についての修正が明言されている。そして、ロシアに限定されてはいるものの原始・古代の土地共有制に基づくコミュニティの存在とモリス・バックスの『社会主義』、共同体社会主義(コミュニタリアニズム)に向けての視点が明確に提起されていることが確認できるだろう。そのことはまた初期マルクス・エンゲルスの唯物史観に基づく所有論的アプローチ、すなわちブルジョアジー対プロレタリアート(資本対賃労働ではなく)、国家による統括、世界市場と恐慌、恐慌・革命テーゼ、世界革命とプロレタリア独裁などのテーゼの根本的再検討が要請されたと言えるだろう。

by morristokenji | 2019-04-19 19:26
 日本における社会主義の導入といえば、すでに述べた通り初期の時点では、主として『鳥瞰図』によると「穏和派(あるいは修正派)」の系列であり、アメリカから帰朝した人達が中心だった。とくにキリスト教の信仰と結びついていたし、そのように紹介されてもきた。具体的には、アメリカの労働運動を研究して帰国した高野房太郎、片山潜が中心になって、足尾鉱毒事件の少し前になるが、1897年(明30)にアメリカの労働運動組織AFLを模倣した「労働運動期成会」が結成された。しかし、労働運動期成会はやがて労働組合運動派と社会主義運動派に分かれて対立した。1898年には、片山潜などはキリスト教的社会主義を説く安部磯雄らと共に「社会主義研究会」を組織し、ここで日本の社会主義が呱々の声を上げたと言われている。土着社会主義との対比で言えば、正しく「外来社会主義」だが、さらに1900年「社会主義協会」を組織し、欧米の社会主義思想の研究・紹介、それを啓蒙宣伝する活動が開始された。
 同時に片山潜や安部磯雄などは、1901年(明34)に社会民主党の結成に乗り出した。その結社宣言では、社会主義、民主主義、平和主義を謳い、さらに平和的な階級制度の廃止、土地・資本の国有化、普通選挙や教育の均等化など、特定の思想的立場に立つものではなかった。したがって賛同者も幸徳秋水、木下尚江、西川幸次郎など、その多くが自由民権家やキリスト教の関係者だった。にもかかわらず明治政府は、結党届に対して即日結社禁止、わが国の社会主義運動は早くも流産した。ただ、そのため結果的には、上記「社会主義協会」を中心とする社会主義思想の紹介、啓蒙が盛り上がることになった。その際、思想の流入は後進的なるがゆえに、欧米先進国の社会主義が一挙に、幅広く、かつ同時に進められ、いわゆる空想的社会主義から、マルクス、エンゲルス、さらにレーニンの著作まで、同時に広く紹介された。また、幸徳秋水の上記『社会主義神髄』も刊行されることになった。
 なお、ここで注意したいのは、幸徳の『社会主義神髄』では、参考文献としてマルクス・エンゲルス『共産党宣言』、マルクス『資本論』、エンゲルス『空想から科学へ』と共に、とくにモリス・バックスの共著『社会主義』が挙げられている。しかも幸徳は「社会主義の効果」として、モリスの主張を具体的に引用紹介している。「ウィリアム・モリスは曰く<人が財貨の為に心を労するなきに至るも、技芸、萬有、恋愛等は、人生に与ふるに趣味と活動とを以てす可し>と。」つまり、社会主義における芸術や恋愛の高度な自由について、具体的に紹介しているのである。すでに別の機会にも触れたが、モリス・バックスの『社会主義』は、1870年代『資本論』執筆後の「晩期マルクス」の思想形成において、マルクスとモリス達との重要な接点をなしている。またモリスの名作ファンタジックロマン『ユートピア便り』の理論的基礎を提供しているし、当時アメリカでベストセラーだったベラミー『顧みれば』に対抗する作品だった。
 ベラミー『顧みれば』は、最近の「ベーシックインカム」論の源流ともいえる国家社会主義論のファンタジーであり、それに反対してモリスは、正統マルクス主義の立場から、共同体社会主義(コミュニタリアニズム)にもとづくベラミー批判を展開した。その点では国際的な社会主義論争だったのであり、幸徳がモリス・バックス『社会主義』を紹介し、さらに堺利彦がモリスの『ユートピア便り』を抄訳として『理想郷』のタイトルで平民文庫から刊行した。堺は「鳥瞰図」では、自ら「マルクス派(あるいは正統派)」として国家社会主義の流れである社会改良主義、労働組合主義から区別し、さらにすでに激しく論争し対立を深めていた無政府主義からも自己の立場を区別していた。堺の「鳥瞰図」は、いうまでもなくロシア革命以前、つまりソ連型社会主義=マルクス・レーニン主義以前の系統図になるわけだが、それだけにソ連崩壊後の今日こそ、その意義が遡って見直されるべきではなかろうか?マルクスと比べると、エンゲルスはモリスを空想的社会主義者の一人として排除する傾向が認められる。そのためエンゲルス・レーニンの流れでは、いいかえればマルクス・レーニン主義の立場からは、モリスやバックスは評価されず、とくに戦後日本では完全に無視され続けてきた。
 モリスも『ユートピア便り』の翻訳などは、文学作品として評価されたが、とくにモリス・バックスの『社会主義』は、幸徳の『社会主義神髄』の高い評価にもかかわらず、紹介も翻訳もないまま放置され続けてきた。さらにいえば、早くから手掛けていた安部磯雄のマルクス『資本論』の翻訳が遅れ(明42‐3に片山潜の『社会新聞』に一部連載)、そのため独語の『資本論』の翻訳に代って、山川均が英語の『社会主義』の中の「科学的社会主義」の部分を、『大阪平民新聞』第6-9号1907年(明40)に連載したのである。日本で初めて『資本論』第1巻の本格的紹介が、モリス・バックスの『社会主義』を通して、しかも山川均の手によって行われたことは、特筆されるべきではないか?そうしたマルクス主義の導入との関連があるからこそ、堺は自らマルクス主義の「正統派」と称して、片山潜などの国家社会主義派、そして幸徳秋水の無政府主義派から区別して「鳥瞰図」を書いたものと思われる。
 なお、対立していた国家社会主義派は、高野房太郎にしても、片山潜、安部磯雄、いずれもアメリカ留学組であり、クリスチャンが多かった。それに比べれば、幸徳と堺は、海外留学の経験もないし、宗教的な色彩もない。むしろ漢学や儒教を学んだのであり、2人に共通していたのは、その才能はともかく、文学青年として新聞などに勧懲小説を書いていたことが、1892年に創刊された『万朝報』に2人が相次いで入社した理由だろう。しかし、2人は日露戦争反対のため退社、1903年の「平民社」の立ち上げと共に、機関誌として『平民新聞』の発刊に従事することになった。とくに幸徳は、健筆を生かしレーニン『帝国主義論』より15年も早く、独自の帝国主義論として『廿世紀の怪物帝国主義』を書き、さらにマルクス『資本論』、モリス・バックス『社会主義』を紹介した上記『社会主義神髄』も書いた。しかし、「鳥瞰図」の通り、幸徳は急速に無政府共産主義の方向に転換したのであり、モリス・バックスの正統マルクス派の堺たちから離れることになる。とくに、1905年初め「平民新聞」が発行禁止で廃刊、平民社も解散の後、幸徳は米・サンフランシスコに出かけ、「桑港社会党」にも入党した。沢山の日本人出稼ぎ労働者と共に無政府主義、サンジカリズムの洗礼を受け、約半年間の滞米亡命生活から帰国したのである。
 帰国した幸徳は、日刊「平民新聞」の発行を進め、上記の通り岡山・倉敷から山川均を誘い、堺とも一緒に活動した。しかし、この時点では既に幸徳と堺の対立、つまり幸徳の無政府共産主義と堺の「正統マルクス主義」との論争は、もはや「二人の議論はしだいにハサミ状にはなれてゆくばかりで---タモトを分かつほかなかった。」そうした中で幸徳が巻き込まれた「大逆事件」(1910年)が起きたのだが、堺・山川は赤旗事件(1908年)のため銃禁固刑で入獄中で逮捕を免れた。そのため大逆事件の後の「冬の時代」、残された堺は獄中で考えたしのぎの構想「売文社」を設立して、雑誌『へちまの花』、次いでその後継誌『新社会』の編集・発行はじめ各種事業を立ち上げ、救援活動と共に生活の糧とした。さらに、全国の社会主義の関係者との連絡や生活の援助や維持に努力した。そうした活動自体が、晩期マルクスからモリス・バックスの共同体社会主義コミュニタリアニズムの実践でもあったわけで、こうした堺の思想形成と人生体験については、黒岩比佐子の名作『パンとペン:社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』を是非とも参照されたい。本書への評価を含めて、共著『土着社会主義の水脈を求めて』の第一部第1章、6「明治二十年代の幸徳秋水と堺利彦」第2章、3「幸徳秋水の社会主義」4「堺利彦の社会主義」5「平民社と堺利彦の夢」6「幸徳秋水が垣間見た夢」、さらに第3章3「夏目漱石と堺利彦」第4章1「堺利彦と売文社」などを参照のこと。堺の思想と人生がクロノジカルに書かれていて面白い。

by morristokenji | 2019-03-24 19:56
 3・11東日本大震災から三年を経過した2014年5月21日、NHKニュースは、天皇皇后両陛下が「栃木県佐野市に郷土博物館を訪れ、足尾鉱毒問題に取り組んだ田中正造の直訴状などをご覧になりました」と報じた。あまり話題にならなかったが、少し詳しく紹介したい。
 両陛下は「21日から22日にかけて、私的な旅行として、足尾鉱毒問題の解決に一生をささげた田中正造の遺品などを展示する佐野市郷土博物館などを訪問されました。
 佐野市の郷土博物館には、田中正造ゆかりの資料を展示するコーナーがありますが、普段は防犯上の理由や劣化を防ぐために、直訴状は複製を展示しています。今回は両陛下の訪問に合わせて四年ぶりに実物を展示しました。
 田中正造が直訴に及んだのは1901年(明34)12月、帝国議会の開院式から皇居に戻る途中の明治天皇の馬車行列に鉱毒被害を訴える直訴状を手に駆け寄りました。
 しかし、警備の警官に取り押さえられ、釈放された後、直訴状も返されました。
 山口館長は<時代背景など全く違いますが、明治天皇にはご覧いただけなかった直訴状が113年たって天皇陛下にご覧いただいたのは感慨深いです。仮に正造が生きていたらどんな感想を漏らすかなと思いました>と話しました。
 館長と共に両陛下を案内した佐野市の岡部正英市長は<震災があったことなどで環境問題へのご関心から、佐野に来ていただけたと思います>と話しました」
 
以上、NHKニュースだが、いくつか大事な論点が提起されている。
1)両陛下が、公的ではなく、わざわざ「私的な旅行」として佐野市に出かけ、田中正造の直訴状を直接ご覧になった。
2)直訴状の内容だけなら、複製があるし、印刷物で読める。しかし、百十三年たった今日、明治天皇に代って実物を受け止められた。
3)東日本大震災、とりわけ福島第一原発事故との関連でも、直訴状を今日お読みになる意義をお感じになっていた。
 特に東日本大震災でも、渡良瀬川下流から基準値を超える<鉛>が検出されるなど、鉱毒問題が今日も続いている。さらに、福島第一原発問題の解決が、日に日に遠ざかり、被災住民の期間の希望が絶たれ、故郷を奪われ、わが村、わが町を捨てなければない。原発再稼働が既定路線になり、国の責任であるはずの放射能除染も十分進まないまま、中間貯蔵施設の国有化が進む。こうした足尾鉱毒事件百十三年後の現実は、谷中村の強制捨村・棄村・廃村の現代版ではないのか?
 福島第一原発の被災者住民の立場を、被災地住民の慰問だけで済ますことができない。谷中村の捨村・棄村・廃村と田中正造の直訴状を重ね合わせながら、両陛下は被災地住民の立場を理解しようとする。そして政治や行政の無責任に対して、憲法の象徴天皇制、国家元首としての責任を感じておられるのではないか?老骨の病苦を推して、さらに生前の退位を考えながら、あえて佐野市郷土博物館の私的訪問の道を選ばれたと思う。

 さて、田中正造の直訴状だが、じつは正造自身が書いたものではない。直訴の前日の12月9日、のちに大逆事件で死刑になった幸徳秋水のもとを正造が訪れた。幸徳が書いたものを一部修正、加筆、捺印したものとされている。正造は、1849年(嘉永2)に下野の名主の家に生まれ、17歳で名主を継ぎ、そのご栃木県議会議員、その時点で自由民権運動の組織化のため立憲改進党に入党、当時の県令・三島通庸の圧政に抗してたびたび入獄、足尾鉱毒事件の前に自由民権運動家として活躍していた。そのご県議会議長、さらに国会開設で1890年(明23)第一回総選挙で衆議院議員に当選、すでに足尾鉱毒事件を国会でも取り上げて活動していた。
 この時、同じ衆議院議員で大阪4区から当選していた中江兆民、その書生であり「万朝報」の記者として、名文家としても知られていた幸徳秋水に、正造が「ほかに引き受け手が見つからなかった」直訴状を書いてもらった。その上で、当日になり修正加筆、捺印の上、正造が直訴に及んだ。秋水は「多年の苦闘に疲れ果てた老体と、その悲壮な決意をみて、いやだということができなかった」と述懐している。少なくともこの時点では、田中と幸徳の二人が、自由民権運動の延長で足尾鉱毒事件に取り組み、明治天皇への上奏分が準備されたことになる。
 その後も、発狂者の行動として処理されてしまった田中正造だが、政府が強制的に捨村、廃村を決めた谷中村に移り住み、抵抗運動を続けた。時折、上京しては幸徳などのいる「平民社」を訪問した。当時の『平民社』には、幸徳の他に堺利彦、木下尚江、石川三四郎、荒畑寒村などがいて、正造の運動を支援した。大逆事件の幸徳秋水は、堺の『鳥瞰図』でもそうだが、アナキズム・無政府主義の代表と位置付けられている。しかし、ここで社会主義者として登場したころの幸徳秋水は、土着の自由民権家らしく、儒教の教えにも強く、年配で民権運動を闘い続ける田中正造に共感した。このように明治の自由民権運動の延長上に足尾鉱毒事件をめぐる運動があり、その運動をめぐって「平民社」の活動があり、さらに人的ネットワークが形成されていた。その点で、日本で初めて社会主義の思想をまとめたと評価される幸徳秋水の名著『社会主義神髄』も、秋水は正造に頼まれて明治天皇への直訴状を書いた、そのすぐあと1903年(明36)に刊行された。

 ここで「平民社」と幸徳秋水の『社会主義神髄』に触れることになったが、ここで自由民権運動の発展線上で、さきに触れた堺利彦の『社会主義鳥瞰図』との関連を見ることにしよう。とくに堺が、自らの立ち位置としている「マルクス派(あるいは正純派)」との関連だが、すでに見たように堺は大逆事件の後、思想的運動の「冬の時代」を迎えて、1穏和派(あるいは修正派)、1マルクス派、そして1直接行動派(あるいは無政府的社会主義)の三系統、三派鼎立の図式が提示されていた。少なくとも大逆事件の前、1900年ごろの時点では、マルクス派と直接行動派を中心に「平民社」がネットワークをもって、足尾鉱毒事件など自由民権運動をも継承する接点が生きていたのである。

by morristokenji | 2019-03-23 20:11
 1906年(明39)幸徳秋水に招かれ、岡山から上京し堺利彦の『平民新聞』の編集を手伝った山川均は、国家論をめぐっての堺と幸徳秋水の討論に立ち会っていた。「幸徳の無政府主義と堺のマルクス派的な社会主義とが鋭利に対立し、二人の議論は次第にハサミ状にはなれてゆくばかりで、---二人は(少なくとも理論の上では)タモトを分つほかなかった。二人の議論は何度となくこの点にきた。しかし幸徳のがわでも堺のがわでも、実際運動の上ではどうしてもタモトを分かつに忍びないものがあったと思う。そこで議論はまた出発点に立ちもどり、明日に明後日に持ちこされた。」(山川『自伝』283-4頁)無政府主義と「マルクス派的な社会主義」の対立が、日本でも土着社会主義の水脈の中で渦を巻いていたのが判る。同じような対立が少し遡って1870年代、パリ・コンミューンをめぐるマルクス派対プルードン無政府主義派の対立にも似た思想的対立だったように思われる。この対立の中で、マルクスも『フランスの内乱』を書き、組織的統一に腐心したにもかかわらず、第一インターは1876年に組織面から崩壊、解散した。マルクスにとっても、ここで手痛い政治的失敗を犯したことになる。こうした中で、60年代『資本論』刊行のあと、70年代「晩期マルクス」の思想的転機が訪れていたことも、念のため指摘しておきたい。
 さらに土着社会主義をめぐる思想的対立の循環の渦中で、無政府主義と「マルクス派的な社会主義」の立ち位置を確かめるために、堺自身が整理してまとめた『社会主義鳥観図』を予め提示し、それに従って組織的対立の流れをみることにしよう。ただ、この『鳥観図』は、幸徳秋水が1910年(明治43)の「大逆事件」で逮捕され、翌年に死刑の判決、執行の後に書かれた。大逆事件によって、無政府主義の直接行動派の運動は壊滅状態、政治的には大正デモクラシーの到来まで、いわゆる「冬の時代」を迎えたのであった。ただ、生き残った大杉栄や荒畑寒村らは、1912年(大正元)には『近代思想』を創刊、思想面の継承だけがはかられた。
 対立する議会主義派の片山潜だが、上述した明治30年前後、阿部磯雄などアメリカ帰りの社会主義者の中心として、初期の社会主義運動、労働組合運動を組織していた。「東京市電ストライキ」なども指導、そのため逮捕、投獄された。翌年、年号が明治から大正に変わり、新天皇即位の大赦で出獄した。しかし片山は、1914年(大正3)に日本を捨ててアメリカに亡命、さらに17年のロシア革命の成功を見てとり、アメリカ共産党、メキシコ共産党の結党にも協力して、マルクス・レーニン主義に大きく転換した。そのうえで1921年(大正10)にはソ連に渡り、コミンテルン常任執行委員会の幹部、国外から日本共産党の結党を指導した事情などについては後述する。
 こうした経過からすれば、大逆事件の後の「冬の時代」は、社会主義をめぐる分派闘争も完全に凍結されてしまった。大きく見れば無政府主義VS国家社会主義の対立図式の中で、いわば中間的地位にあり、セクト的調整と共に、近代化の流れの中で、自由民権運動やキリスト者とも連携しようとした「日本型共同戦線党」とも言える堺利彦、そして山川均などの立ち位置は、どのようなものだったのか?堺利彦の『鳥観図』は、1914年(大正3)に書かれたもので、上述の通り大逆事件で無政府主義の幸徳秋水が犠牲になり、国家社会主義の片山潜はアメリカに亡命して日本を去ってしまった。そんな日を迎えて、「大杉栄君と僕」という文書を書き、それの説明として『鳥観図』を付けているのだが、時代的背景と共に、堺や山川の思想的立ち位置が興味深く書かれている。説明文もじつに面白い。
 「日本お社会主義運動に三派の別が生じていた。今でもボンヤリその形が残っている。
 一、穏和派(あるいは修正派)
 一、マルクス派(あるいは正純派)
 一、直接行動派(あるいは無政府的社会主義)
 これをひとについて言えば、安部礒雄君は右翼に属し、幸徳秋水君は左翼に属し、僕自身は中間派に属していた。そのうち、幸徳君は殺されたが、安部君と僕はほぼ昔のままの立場で続いている。そして今日、幸徳君の立場を継承している者は、すなわち大杉栄君である。---すべて主義態度の範囲は、そう明瞭に区分することのできるものではない。実際運動に当たっては、種々の便宜上、どこかに一線を画して、党派団体の区分をつけるけれど、理論の上から見るときには、あらゆる思想はみな濃淡のボカシをもって連続しているのである。この関係をやや明瞭に示すために、左に一つの表を作ってみる」として『鳥観図』を提示する。さらにその上で、こう述べている。
 「面白いことは、社会主義の左端なるシンジカリストと、その右端のまた一歩右なる労働組合主義の一半とが、その非政治派、非議会派たる点において一致していることである。進歩派と保守派とその両端において、かえって相近づくは注意すべき現象である。また左の表の全体を見渡すと、左端も右端も同じく個人主義で、ここにも思想の輪が一周してさらに相近づかんとする形が現れている。実例をもってこの点を考えてみるに、極端なる自由貿易論者や自由競争論者は、政府の干渉をできうべきだけ排除し、個人の活動をできうべきだけ拡大する点において、すこぶる無政府的傾向を有しているーーー」と。
 すこぶる面白い、いかにも堺らしい整理ではないか?党派的イデオロギーの決めつけはしない。そして、相互の連携の可能性を探る点では、後の労農派の「日本型共同戦線」党的発想がここで十分に伺われる。また、鳥観図とは言うものの、その目線は上から垂直的ではない。あくまで水平的なネットワークを念頭においているのが判る。「あらゆる思想はみな濃淡のボカシをもって連続している」と述べて、分派的、かつセクト的対立を極力抑制しようとしている。さらに左右両派の対立についても、「左の左は右、右の右は左」と言わんばかりの円環論法でイデオロギー的対立を回避する配慮が強い。
 ここで堺利彦の『鳥瞰図』を引用・紹介するについては、宇野弘蔵『資本論五十年上』の冒頭、第一章「社会主義を知る」の次の質疑による。
 「—ぼくが社会主義を初めて知ったのは中学校から高等学校へかわるという時だった。大正三年か四年のころです。
 OOやっぱり堺利彦、大杉栄というような人の書物でーーー。
 ー—堺さんです。」
 この後に『鳥観図』を挙げ「僕にはあれが非常におもしろかった。---一番右が守銭奴、隠遁者、遊蕩者等の個人主義、その次が国家主義とかというようにね。一番最後に無政府共産主義から個人的無政府主義というので右につながることになる。社会主義の堺氏やサンディカリズムや無政府共産主義の大杉氏らはその中の左翼にいるわけだ。」後に詳述する土着社会主義の宇野・三段階論の方法が、堺利彦の『鳥観図』の水系にあったことを、ここで予め提起しておきたい。

by morristokenji | 2019-03-20 10:18
 土着社会主義のタームで「労農派の思想」を探る、それを考えたのは上山春平氏の著作『日本の思想』を読んだ時からである。「日本の土着思想と周辺」として書かれた著作の増補版とのことで、「第一部 土着思想の系譜」の一つに「土着の社会主義ー労農派の思想」が載っている。上山氏らしいシャープな問題意識が満ち溢れ、興味深く読んだ。そんな経験から、平山氏との共著『土着社会主義の水脈を求めて』を纏めるについても、上山氏の著作が念頭にあり、第一部を「労農派とその周辺」、第二部を「労農派と宇野弘蔵」というタイトルにした。ただ、上山氏の著作との関係はとくに触れなかったが、第二部の宇野理論の「三段階論」の方法についても、「土着社会主義」を強く念頭に置いて書いたつもりである。
 そこで上山氏の土着社会主義としての「労農派の思想」だが、中国の毛沢東が日本社会党について、「不思議な党だ」と言ったそうだが、その「第二半インター」性も、日本社会党の「労農派の伝統」に負うところ大だと見る。日本社会党は「左右二本」社会党と揶揄され、左派はソ連派で右派の社民系と対立していた。左右の対立だけではない、中ソ論争もあり、ソ連派と中国派が対立、仙台出身の佐々木更三委員長は中国派の領袖だった。旧ソ連がコミンテルンなどの「プロレタリア国際主義」に対して、中国派は批判的であり、その点では「労農派の伝統」かも知れない。念のため指摘すれば、今日の中国共産党の「新時代の中国の特色ある社会主義」、さらに「新しいマルクス主義」「社会主義市場経済」などは、ソ連型の国際主義の否定であり、「労農派の伝統」の土着社会主義なのかどうか?
 労農派は、言うまでもなく講座派との対立を指し、それは戦前の1930年代の日本資本主義論争の対立の呼称だった。しかし、1917年のロシア革命、とくに戦後は冷戦下、社会主義は完全にソ連のマルクス・レーニン主義一辺倒となり、そのソ連が崩壊して、とくに日本では「社会主義」は完全に死語と化してしまった。「労農派の伝統」も同じ運命に流されているわけだが、米国のトランプ路線に対抗する「新時代の中国の特色ある社会主義」の習近平路線とともに、講座派との対立の次元を超えて、土着社会主義としての「労農派の伝統」を再検討する意義は大きいと思う。その意味で、「労農派系の学者たちは、---マルクス理論を経済学にかたよらせてとらえる経済主義的傾向をまぬがれていない。こうした傾向を克服しながら、マルクス理論の現代的発展を試みることが、彼らに残された課題であろう。」では、どうするのか?
 上山氏は、講座派と対抗する労農派の路線については、山川均の整理を紹介していた。講座派は外圧型・権威主義・前衛型であり、労農派は内発型・土着主体的社会主義だが、「共産党や講座派が、レーニン主義ないしスターリン主義を権威主義的に信奉する受動的な思想態度を脱しきれないのに対して、労農派が一方において、土着的な民主主義運動の伝統を継承しながら、他方において、マルクス理論の研究を深め」、「日本土着の社会主義思想の貴重な遺産を見いだすことができるのではあるまいか」として、土着性の継承としてはマルクス主義の「思想の内容」よりも「むしろ思想の態度なのである」と述べる。そして、中江兆民や内村鑑三の思想を挙げ、「労農派のマルクス主義摂取の態度に通じる内発性ないし土着性が認められる」とした上で、その「態度」の確立として「労農派教授たちの先輩として、先ず第一に挙げなければならないのは、堺利彦であろう」と述べ「堺利彦と労農派」に絞り込んでいる。
 さらに大内兵衛『経済学五十年』から「戦争で焼けたぼくの家の応接間には、堺枯川の<棄石埋草>という額がかかっていた。---僕は、あの字が好きであり、あの文句がすきであった。堺さんはステ石ウメ草だろうか。それ以上のものだろうか。日本社会主義がもし他日立派に立ち上がるとすれば、彼のステ石ウメ草の上にであろう」(上巻八三頁)を引用し、こう述べている。「労農派の立場は山川均によって確立されたのであるが、山川の思想形成は堺に負う所が大きい。山川が堺と行動を共にするようになったのは、明治39年からであり、この年の12月に、山川は幸徳秋水にまねかれて郷里岡山から上京し、日刊『平民新聞』の編集に参加した。当時、山川はしばしば堺と幸徳の討論に立ち会ったという。」(180頁)堺、山川、そして幸徳の名前も出てきたが、土着社会主義の源流地点に到着したようである。

by morristokenji | 2019-03-18 14:47
 自由民権運動は、言うまでもなく明治前期、藩閥政治に対する民主主義的な政治運動であり、天賦人権の思想にもとづく藩閥打破、国会開設などの要求が進められた。広範な運動であり、全国的な広がりをもって進められたが、東北でも運動の連続面などでは、戊辰戦争との直接的なつながりはないものの、北関東から東北は大きく運動の盛り上がりが見られた地域だった。例えば、阿武隈山系の福島・石川町は、自由民権運動発祥の地として知られ、西の板垣退助と並ぶ東の河野広中が、石川区長として赴任し、民権運動を始めた。運動の結社である「石陽社」のための有志会議は1875年に開設、土佐の「立志社」に次いで東日本では最も早い活動と言われる。最近でも、福島第一原発事故に重ねながら、福島の苦悩とともに、改めて自由や人権の意味を問う演劇の上演活動を『河北新報』が伝えている。
 自由民権運動のトップリーダーは土佐の板垣退助だったが、その板垣も戊辰戦争では、土佐藩であり官軍側で東北征伐にやってきた。「奥羽の義」によれば、「1868(慶応4)年旧暦8月21日。新政府軍は会津若松を目指し、郡山市と福島県猪苗代町にまたがる母成峠を急襲した」「新政府軍は板垣退助(土佐藩)、伊地知正治(薩摩藩)率いる兵3000」、会津側の守備の手薄を衝いて、政府軍は会津軍を一気に攻め立て、会津若松の鶴ヶ城落城に道を開いた。板垣の軍功はまことに大きかったが、その板垣が自由民権運動では、明治政府の官権・藩閥政治を批判し、全国的な民権運動をリードした。薩長の藩閥政治の権力支配への批判とともに、例えば奥羽列藩同盟の側にも、仙台藩士・玉虫佐太夫などの盟約書には、「一、大義を天下に述べるを目的とし、小節細行に拘泥しない。一、重要事項は列藩で集議し、公平の旨に帰すべし。一、みだりに農民を労役するな」など、すでに民権思想が鋭く提起されていたことが、官軍の板垣に影響したかも知れないと思うところである。
 周知のとおり日本の社会主義思想、社会主義運動については、「明治20年代の後半は、日清戦争とその勝利による多額の賠償金により資本主義が興隆した時代であり、職工の増加とともに労働運動が起こり、そこにアメリカ帰りの一群の若者たちが労働組合や社会主義の思想を伝え、日本の社会主義運動はそこから始まったと言えるであろう。明治30年前後(1890年代末)のことである。」例えば高野岩三郎の実兄の高野房太郎(1869-1904)、安部磯雄(1865‐1949)、片山潜(1859-1933)、賀川豊彦(1888-1960)などであり、社会主義研究会、社会主義協会、社会民主党の創立がすすめられた。さらに1897年には「労働組合期成会」から「鉄工組合」が組織され、またセツルメント事業や協同組合などからも労働組合の結成がすすんだ。   
 しかし、こうしたアメリカ帰りの外来的な思想や運動に対し、「土着社会主義」の思想や運動を見る立場からすれば、明治10年代まで遡り自由民権運動などにも接点を求める必要がある。共著『土着社会主義の水脈を求めて』では、平山昇氏が明治三十年代「高野房太郎の夢と放浪」、「阿部磯雄と社会民主主義」を書いているのだが、明治20年代に遡り「二葉亭四迷の社会主義」「横山源之助と下層社会」、さらに「一葉の日記から」「北村透谷と『文学界』」など文学作品の紹介の上で、「馬場辰猪と中江兆民」「明治二十年代の幸徳秋水と堺利彦」を取り上げている。文学作品の興味深い紹介、分析は共著に譲るとして、ここでは自由民権運動との関連で「馬場辰猪と中江兆民」をまず取り上げよう。
 民権運動は、土佐に生まれた上記「立志社」、翌75年(明治8年)に大阪で「愛国社」として全国組織化され、78年に再興されて1880年の第4回大会には、全国から民権運動家が結集して「国会期成同盟」が発足した。国会開設を要求する署名は24万余に達し、自由民権運動は全国的に大きく高揚した。こうした民権運動の高揚に対して、藩閥政府は同年「集会条例」を発布して、演説会や集会を規制したが、81年になると北海道開拓使払い下げ汚職事件で追い詰められ、10月には伊藤博文は『国会開設の勅書』を発表、そこで1890年には国会を開設することにした。しかし同時に、政敵の大隈重信を政府から追放する「明治14年の政変」を断行した。
 こうした政治的動乱の中で、東京では沼間守一の「櫻鳴社」、イギリス帰りの馬場辰猪、小野梓などの「共存同衆」、福沢諭吉の慶応義塾系の「交詢社」、それに中江兆民の「仏学塾」といった演説団体、政治塾などが起こり、銀座通りには新聞社が軒を連ね、言論活動が一挙に活発化する。さらに『国会開設の詔勅』が出されると、81年に板垣退助を総理とする「自由党」、82年には大隈重信の「立憲改進党」が結成、民権運動の最盛期を迎えることになった。こうした中で、国会開設を決断した伊藤博文は、改めて新たにつくる憲法を準備するために、先進国の欧米ではなく、普仏戦争で勝利しビスマルク宰相がリードした後進国のドイツ帝国に渡り、合わせて自由党の分裂を図る動きを進めた。資金を提供された自由党の板垣退助は、国会開設により民権運動の目的が達成されたとして、憲法の内容には関心を持たず、長期のヨーロッパ漫遊を決め込んでしまった。帰国後、自由党を解党したのである。そのため民権運動の側からも批判の声が上がったし、自由党左派の指導による有名な「秩父事件」の借金党も立ち上がった。
 ここで自由党左派の論客として、馬場辰猪と中江兆民を挙げるが、土佐藩から馬場はイギリスに、中江はフランスに留学し、その点で上記の伊藤博文の後進国ドイツ帝国への渡欧とは対極的な立場を形成していた点が重要だろう。というのも1870年代であり、普仏戦争、パリ・コンミューンなどによる欧米の新たな思想形成、とくに後述するがイギリスではK・マルクスやW・モリスなども健在で、それを反映することになったからだ。馬場の代表作『天賦人権論』は、当時の東大総長、加藤弘之『人権新説』への批判だったが、加藤も天賦人権論に立脚した民権派の立場だった。それが『新説』では、進化論にもとづき「優勝劣敗、適者生存」を主張したのに対する馬場の批判だった。馬場はイギリス留学中もフランスに赴いていたが、1870年から78年まで、74年に一時帰国するが、翌年『米欧回覧実記』で有名な岩倉具視の使節団として渡英、その間政府留学生となっているが、この長期の留学中に政治思想としても言論思想の自由、「公議與論」の民権思想が固められ、左派の論客としては当時もっとも重視されていた。
 なお、馬場の最初の英国留学だが、土佐藩の5人の留学生を迎えた「イギリス人の牧師ダニエル(J.J.Daniell)に連れられて、ロンドンの西方約百マイルにあるヴィルトシャー州(Wiltshire)の町チペナン(Chippenham)に行き、そこからさらに、その郊外にあるラングレー(Langley)という小村に移った。ダニエルがそこの教区の牧師をしていたのである。」(萩原延寿『馬場辰猪』29頁)ヴィルトシャー州、チペナンといえばNHKテレビでも「イギリスで一番美しい村」と紹介され、今日でもイギリス観光のスポットであるコッツウォルズ地方に属する。そこで5人が1年間も過ごしているのであり、さらにコッツウォルズといえば、後に日本でも堺利彦が抄訳『理想郷』として紹介したW・モリスのファンタジックロマンの名作『ユートピア便り』の舞台にもなった。土佐藩の英国留学が、こうした地域を選んだことは、馬場をはじめとする自由民権運動にも、興味深い影響を与えたに違いないと思う。
 さらに土佐藩からは、中江兆民がフランスに留学した。馬場が二度目の留学となった岩倉使節団に司法省9等出仕として採用されたのである。普仏戦争とパリ・コンミューン直後のパリやリヨンに滞在し、西園寺公望とも知り合い、イギリス留学の馬場とはドーバー海峡を挟んで何回か交流していた。そうした点からも、当時のヨ―ㇿッパ思想の変転を受け入れながら、幅広く自由民権運動を進めることになったのであろう。74年には、中江は馬場よりも早く帰国し、後に「仏学塾」となる仏蘭西学舎を開き、ルソーの『社会契約論』の翻訳など、民権思想の普及に務めた。一方の馬場は帰国後、自由党左派の最高の論客として活躍し、1883年には当時の警視総監から東京での政治演説の禁止を申し渡されるほどだった。その後、著作活動が中心になつたが、そうした中で「観念としての民衆と事実としての民衆の乖離」「理念に対する確信と運動に対する失望」に苦悩しつつ、1886年にはアメリカに渡ったが、88年にフィラデルフィアで結核のため客死してしまった。
 残された中江は、ルソーの思想紹介など、主としてジャーナリズムを中心に、自由民権運動の理論的指導者として活躍した。「東洋のルソー」とも評され、第一回の衆議院総選挙では大阪4区から立候補し、当選者の一人となった。それも自ら本籍地を大阪の被差別部落に移し、「余は社会の最下層の、さらにその下層におる種族にして、インドの<バリヤー>、ギリシャの<イロット>と同僚なる新平民にして、昔日公らの穢多(えた)と呼び倣わしたる人物なり」と自称し、トップ当選を果たしている。しかし、議員を途中で辞職し、北海道の小樽に移り、地方の新聞創刊などジャーナリズムで活躍、さらに鉄道事業などの事業活動も手掛けたが、その後政界への復帰はないまま、1901年に死去した。『三酔人経綸問答』『一年有半』などの著作を残しているが、兆民は号で「億兆の民」の意味、さらに「秋水」とも名乗ったが、それは弟子の幸徳秋水に譲り渡している。





































































































by morristokenji | 2019-03-03 15:46
 2018年、日本近代の幕開けとなった明治維新から150年、つまり奥羽越列藩同盟が薩長の官軍と戦った戊辰戦争に敗れ、東北が「白川以北一山百文」と蔑まれ、収奪され続けてきた歴史の節目の年だ。東北の解放と開発を社是として、2011年東日本大震災にも地道な取材報道を続けている仙台の地方紙『河北新報』は、戊辰150年を迎え「奥羽の義」というタイトルで長い連載を試みた。薩長との国内戦に敗れ、賊軍の汚名に泣かされてきたけれども、敗北した奥羽の側にも多少の「義」のあったことを実証し強調し、積年の恨みを晴らしたい、そんな心情は東北人として好く理解できる。しかし、「義」は義でも、それは大義ではない。中義ないし小義を意味しているのであろう。だから連載も「奥羽の大義」にせず、単なる「義」にしたのではなかろうか?
 その伏線として、連載に先立ち「論考ー維新と東北」として、何人かの識者の「視点」を紹介している。その中で作家・原田伊織氏の見解に代表されるが、日本資本主義の近代化、ブルジョア革命である明治維新について、それが「テロリズムを背景にしたクーデターに過ぎない」という視点である。もし明治維新の王政復古が単なるクーデターに過ぎないとすれば、そもそも革命に大義などなかった。とすれば、それに対する奥羽越列藩同盟も、戊辰戦争も、大規模な内戦になってしまつたものの、そもそも大義などあり得ない。そして敗北した東北の側にも、クーデターに反対した中義、小義が残されているだけになってしまう。戊辰戦争の歴史的意義は、多くの犠牲に比べて、決して大きくはないことになるだろう。
 こうした視点が提起される根拠だが、改めて確認しておくと「1868年4月4日、江戸城に東征軍の勅使が入り、徳川家への沙汰状を公式に交付した。この日をもって徳川政権は公式に終わった」歴史的事実が存在する。欧米先進国から大幅に遅れ、後進国ドイツからも遅れた二重の後進日本資本主義のブルジョア革命は、倒幕戦争など不必要な無血平和革命が成功したのであり、戊辰戦争もブルジョア革命との大義に直結する問題は存在しない、単なる「テロリズムを背景としたクーデターに過ぎない。」倒幕戦争などではなく、薩長の明治新政府軍が、それ以前の「8・18政変」など、東北の会津藩などに対する「私怨にもとづく報復」とみるのであり、仙台藩なども仲裁に入るだけだったところ、クーデターに巻き込まれてしまった。したがってブルジョア革命の大義とは無関係に、私怨の報復戦争が拡大してしまったのである。
 その点で、のちに東北から宰相の地位に上った岩手の原敬が、1917年(大正6年)盛岡の法恩寺での「戊辰戦争殉難者50年祭」においてささげた祭文の一節が興味深い。「かえりみるに昔日もまた今日のごとく国民誰か朝廷に弓を引く者あらんや。戊辰戦役は政見の異同のみ。当時、勝てば官軍負くれば賊軍との俗謡あり、その真相を語るものなり」戊辰戦争は、大義なき「政見の異同」だけ、たんに政治的見解が異なるだけで、一方が勝ったからといって、負けた方を処断できる筋合いではない、と主張している。大正デモクラシーの風潮を背景にした原敬の政友会総裁としての直言である。しかし、明治維新に始まる日本近代史を振り返るならば、それだけでは済まない歴史の現実も否定できない。
 確かに「戊辰の義」を読んでいても、私怨の報復戦争の色彩が極めて強い。そのための犠牲があまりにも大きいし、会津をはじめ東北の怨念も大きく根深い。しかし、そうだとしても薩長の官軍側としては、孝明天皇の崩御により、天皇制の権力奪取を強め、国権の掌握を強化することによって、維新のブルジョア革命を推進した現実を重視しなければならない。その点では、戊辰戦争も明治維新の延長であり、廃藩置県、秩禄処分、地租改正など、維新のブルジョア革命による「賊軍」の東北に対する仕打ちと差別は大きかった。例えば地租改正にしても、「賊軍の東北諸侯などに土地の私有権を認められない。そのため北海道などに追放し、特に山林は国有林にしたのだ。東北に国有林が多いのはそのためなのだ」その昔、恩師で戦前・東北大に在職していた宇野弘蔵氏による説明を思い出す。
 それに付けても戦後、1960年代初めの話だが、仙台市民の仲間に入れてもらい、選挙権も得た。東北の政治動向を知りたいとも思い、選挙の立会演説会を覘いたことがある。そこで抜群の雄弁をふるっていたのが只野直三郎という候補者で、1932年東北大法文学部卒業、戦後「日本人民党」を結成、「一人一党」で旧宮城一区から何回も当選していた。驚いたことに「国有林野を解放し、廃藩置県とは逆に廃県置藩、幕藩体制に戻して、林野を地域に開放すべきだ」と訴えていたのである。この超革命的な訴えがトップ当選につながる、それが戦後東北・仙台の政治風土だったのだ。首都の東京とは全く違う政治風土を感じ、恩師にも話した、その報告に対する宇野先生の回答が、上記のような内容であった。すでに50年以上も前の話だが、東北を理解する大切な鍵だと思い続けてきた。
 天皇制を利用した明治・絶対主義の明治維新は、上記の廃藩置県・秩禄処分。地租改正など、日本資本主義の創出のために、戊辰戦争の勝利を十二分に利用したことを見落としてはならない。東北諸藩の賊軍を追放し、身分制度を廃絶することにより、資本主義経済の大前提となった二重の意味で自由な「近代的労働力商品」を創出したのだ。明治初年の激しいインフレとデフレも加わり、没落士族と下層農民の労働者化による資本の「本源的蓄積」のための重要な槓桿となったのが、ほかならぬ戊辰戦争の薩長、官軍の勝利と奥羽羽越列藩同盟の敗北と賊軍だったと思う。この日本資本主義の近代化の裏面を忘れるわけにはいかない。それから150年、東北の近代化による開発は、戊辰の敗北とともに今日まで、その裏面を打ち消すことができない。秋田など市町村の自治体廃止まで進む人口減少、各県の最低賃銀など所得格差の拡大、そして東日本大震災による福島原発事故のエネルギー政策の矛盾に至るまで、日本資本主義の裏面であり、負の遺産でしかない。戊辰戦争150年の感懐である。
 

by morristokenji | 2019-02-25 09:01
 昨2017年8月から、新しい『資本論』ぜミナールをスタートさせて、本ブログにアップしてきました。しかし、諸般の事情から、この間中断しましたが、新たな体制の下で『資本論』ゼミナールを再開することにしました。

①引き続き仙台・羅須地人協会のゼミナールとして開催する。毎月、第3土曜日、午後2時から、仙台市内、東一番町サンモール商店街、NPO法人「市民のためのシニアネット仙台」にて開催する。
②テキストとして『資本論』をベースに、すでに本ブログにアップしてきた拙稿を使い、その検討を進める。
③宇野弘蔵の「三段階論」(経済学原理論、発展段階論、現状分析論)の発祥の地とも言える仙台で、宇野理論の創造的発展を目指し、新しい『資本論』研究のゼミナールとする。
④現代の日本資本主義が当面する諸問題を念頭に置き、仙台・羅須地人協会のホームページhttp://rasuchijin.jpn.org/に連載している「田園から―オピニオンー」大内秀明「持論時論」なども討論の対象として、現代世界経済の現状分析の発展を目指す。一例として「持論時論」第80回「<入管法>と労働力商品の特殊性:資本主義的人口法則の矛盾」など。

by morristokenji | 2018-12-09 10:14
 『資本論』の信用論についても、その編別がまず問題です。競争論が前提になるのは当然にしても、第4篇の冒頭には、信用論を抜きにして「利子生み資本」が説かれている。資本相互の競争や信用を抜きに、いきなり利子生み資本が説かれているのです。なぜそうなったかは不明ですが、マルクスの原稿を、エンゲルスが適当に配置したのでしょう。しかも、その内容がさらに問題です。「利子生み資本」なる資本が、資本相互の信用を抜きに、なぜ利子生み資本という形式で登場できるのか?さらに疑問なことに、貨幣の物神性を受けているのでしょうが、「資本の物神性」が説かれている。第24章の冒頭ですが、第21章「利子生み資本」を振り返って、「利子生み資本において、その資本関係は、その最も外的な最も物神的な形態に達する」と述べているからです。「商品物神」「貨幣物神」に対応して、「利子生み資本」を「資本物神」として、資本の競争や信用、利子との関係を抜きに、いきなり「資本物神」が説かれているのです。では、この「資本物神」を具現する「利子生み資本」とは何か?
 そこで21章「利子生み資本」内容ですが、マルクスは一方において「貨幣資本家」、他方では「機能資本家」を持ち出し、貨幣資本家は「資本として投じる貨幣を持ちながら、自らは資本として投じない」資本家であり、逆に機能資本家は「貨幣として投じる貨幣を持たない資本家」としています。ここでの貨幣資本家は、単なる貨幣資本の担い手ではない。貨幣の機能として「資本として機能する使用価値」があり、「この可能的資本としての、利潤の生産のための手段としての属性において、貨幣は一つの商品に、ただし一種独特な商品になる。または、同じことだが、資本は資本として商品になる。」それを機能資本家に貸し付けて利子をとり、「利子生み資本」として価値増殖を図るというものです。
 しかし、この「利子生み資本」には多くの疑問が寄せられている。商品、貨幣に続く、たんなる流通形態の資本の形式ならともかく、すでに資本の直接的生産過程や流通過程、さらに再生産過程まで明らかにされている段階で、そもそも「資本として投じ得る貨幣を持ちながら」投資しない資本家がいるのか?貨幣の使用価値に、貨幣の諸機能のほかに「資本として機能する使用価値」などあるのか?機能資本家にしても、利子の根拠が説明されていないのに、利子支払いの根拠があるのか?さらに貸し付けられる資本を返済する根拠があるのか?など、など多くの疑問です。要するに、本来は資本の流通過程を根拠に、資本の競争を媒介する「信用論」を抜きに、貨幣資本家も機能資本家も説明できない筈である。マルクスはここで、資金を融通する貨幣市場(資金市場)と、株式資本などの資本市場とを混同しているのではないか?だからまた、上記のように「資本は資本として商品になる」とも述べたものと思われます。
 このように「利子生み資本」論が、競争を基礎とする信用や利子の運動機構から切り離されて論じられているが、つづく第22章「利潤の分割。利子率。利子率の自然率」では、資本の競争を基礎に資金の貸借をめぐる信用関係、貨幣市場での利子率の変動、さらに平均利潤率と自然利子率との関連が論じられている。とくに利子率と利潤率の関係は、景気循環の進行中に両者の関係が変化するのであり、ここでは当然のことながら資本蓄積論を基礎とした景気循環が対象となってくる。ただ、ここでもマルクスの純粋資本主義の抽象による、資本蓄積過程の自律的運動が明確でないためでしょうが、景気循環の対象設定が不明確であり、「我々の考察圏外に属する循環」などと述べられている。そこで、すでに述べた「資本の絶対的過剰生産」に論点を絞って、信用と利子率の運動を整理することにしましょう。
 資本の蓄積過程を基礎として、資本の過剰蓄積が進む中で、すでに見たように利潤率の低下を利潤量で補う投資競争が激化する。この投資競争の激化は、言うまでもなく資本の流通過程で明らかにされた遊休資本の信用による利用を基礎として進む。信用による遊休化のマイナスをプラスに変えることにより、利子支払いの根拠も与えられる。さらに商業資本の役割は、①遊休化によるマイナスを、商品の買い取りで代位する役割、さらに②商品販売の店舗など「純粋な流通費用」のマイナス=空費を商業資本が専業化してマイナスする、「マイナスのマイナス」で企業利得の根拠も与えられる。こうした商業資本の活動と結びつきながら、資本による信用の利用が拡大し、商業信用から銀行信用の利用も高まることになる。
 こうした銀行信用の利用拡大は、銀行信用を基軸として成立している貨幣市場の利子率の上昇を招く。いわゆる「中位の活況」の下では、中位の利潤率に中位の利子率が対応して、景気の拡大が進んできた点から、ここでは利潤率の低下に利子率の上昇が対応する。この利潤率と利子率の対抗関係には、資本の競争激化に伴い「投機活動」の関与が関連せざるを得ない。とくに商業資本の介在は、G-W-G'の流通形態の特徴からも、より安く「買占め」、より高く「売り惜しむ」投機活動を助長し、それが信用利用と結びつく。つまり、「買占め」のための借り入れ拡大と、「売り惜しみ」による返済の遅延とが進み、投資拡大―競争激化―利潤率低下、それが投機の介在により、利子率の上昇に結びつかざるを得ない。とくに「資本の絶対的過剰生産」のもとでは、追加投資がゼロあるいはマイナスの利潤率まで進む。そうした段階では、利子率の上昇が投機を通して金融恐慌に発展することは必然であり、ここに「恐慌の必然性」が提起されます。マルクスの説明は必ずしも明確ではありませんが、「資本の絶対的過剰生産」との結びつきでは、競争・信用と商業資本の介入によって、恐慌現象は金融・信用恐慌として必然化することになるのです。

 「論点」恐慌の必然性と「投機活動」
 初期マルクス以来の「唯物史観」では、「恐慌・革命テーゼ」と呼ばれるイデオロギー的仮説が、根強く残っていました。いわゆるプランでも、「世界市場と恐慌」により資本主義の崩壊を説こうとしていたように推測されます。しかしマルクスは、理論的には純粋資本主義の抽象、とくに資本蓄積論など景気循環の必然性の解明から、さらに利潤率低下について「資本の絶対的過剰生産」を提起して、恐慌の必然性にアプローチした。また、現実的には47年恐慌のあと、約10年周期の恐慌の到来にもかかわらず、革命情勢は来ない。むしろイギリス資本主義を先頭に、恐慌を梃子にして資本主義の成長・発展が実現した。こうした中で、マルクス自身「恐慌・革命テーゼ」の仮説からの脱却を迫られた。純粋資本主義の抽象による自律的運動法則の解明だし、『資本論』の後期マルクスから、さらに70年代の晩期マルクスに他なりません。
 『資本論』では信用と利子率についても、利潤率と利子率の変動を中心に金融恐慌の解明が進んでいる。ここでも部門間不均衡や過少消費による商品過剰論が併存するものの、とくに低下する利潤率に対する、利子率の急激な上昇については、金融の投機化が重視される。言うまでもなく市場取引では、取引の投機化が必然的だし、特に景気が上昇し過熱化する際は、経済全体が投機化する傾向が強い。ある意味で投機は、市場経済に特有な現象だし、マルクスの強調した「無規律性の盲目的に作用する平均法則」もまた、市場経済の投機化を通して実現すると言っても過言ではない。流通形態としての資本が、上記の通りG-W-G'の形式で登場し、安く購入し、より高く販売する形式そのものが、すでに「投機」の可能性を孕んだ形式です。しかし、広く経済学、マルクス経済学でも、価値法則など法則解明については、「投機」などの攪乱的要因を捨象し、ひたすら平均化した状態で説明されます。一方では資本主義経済を「カジノ資本主義」と呼びながら、同時に他方では「投機」を単なる攪乱要因として捨象するのです。そのため市場経済の無政府的特徴が無視され、市場法則の投機的特殊性が捨象されるきらいが大きかった。とくに金融恐慌の必然性の解明には、「投機」が不可欠だと思います。(「投機」については、拙著『恐慌論の形成』2005年、日本評論社刊の第4、5章で詳論したので参照のこと)
 さらに上記の通り、「資本の絶対的過剰生産」の局面を迎えて、低下する利潤率を利潤量でカバーしようとして、投資競争が激化する。過当競争ですが、企業はこの過当競争に対応するためにも、ますます信用への依存を高める。商業信用から銀行信用へ、銀行は資金需要の増大に対応するために、いわば信用の投機化といえる「信用創造」を拡大する。企業は信用創造を利用するが、より安い利子で借り入れた資金をより高い利子で返済を迫られる。この信用の投機化と結びついて、商業資本など企業がさらに投機的取引に依存せざるを得なくなる。とくに限界利潤率がゼロ、マイナスの「資本の絶対的過剰生産」が進めば、銀行の「金準備」の歯止めがある以上、信用創造で投機化した利子率の上昇が生じ.利潤率と利子率はここで激突、貨幣金融恐慌が必然化する。ここでは商品の投げ売りも起こり、「資本過剰」による「商品過剰」も暴露されます。
 こうした投機の介入による金融恐慌の必然性を、投機を攪乱的要素として捨象する結果でしょう、ここで「世界市場と恐慌」のテーゼがまたまた復活を見ます。銀行の利子率上昇を、貿易収支の悪化など、中央銀行の「金準備」の流出から説明する見解に他なりません。しかし、これは明らかに純粋資本主義の抽象の否定だし、「唯物史観」の恐慌革命テーゼへの逆コースになるだけでしょう。純粋資本主義の放棄による世界資本主義への復帰に他ならない。それだけに商品形態には「投機」が不可欠であり、投機を通して資本主義経済の「無規律性の盲目的に作用する平均法則」が貫かれる法則性の意義を銘記すべきだと思います。

by morristokenji | 2018-06-10 16:47
 『資本論』は第3巻第3篇で、「利潤率の傾向的低下の法則」を論じています。第1巻第7篇と同様に、資本主義経済の歴史的傾向として、生産力の上昇と共に利潤率が低下し、その結果として資本主義の歴史的限界を説く、生成、発展、消滅の歴史法則です。こうした歴史法則を、純粋資本主義の自律的運動法則の中で説き、窮乏化革命や利潤率低下によって資本主義社会の「最後の鐘を鳴らす」イデオロギーは、初期マルクス・エンゲルス以来の「唯物史観」のイデオロギー的仮設でしょう。しかし、それは理論的論証とともに、歴史的に実証、検証されなければ、単なるドグマに終わるだけです。とくにここ「利潤率の傾向的低下」との関連では、第13章「この法則そのもの」を生産力の発展に伴う資本の有機的構成の高度化から説明した後、歴史的な実証、検証を交えながら法則に対して第14章で「反対に作用する諸要因」を挙げて、マルクス自ら反省的に検討しています。そうしたマルクスの誠実さは大事ですが、しかし法則の自己否定にもつながる。
 さらに、より重要な理論的内容ですが、第15章「この法則の内的矛盾の展開」において「生産拡大と価値増殖との衝突」、さらに「人口の過剰における資本の過剰」を論じています。ここでもマルクスは、「利潤率の傾向的低下の法則」の枠組みの内部ですが、資本蓄積に伴う競争と利潤率の変動、とくに「この法則の内的矛盾の展開」として景気変動を説き、その上で「資本の絶対的過剰生産」の説明があります。第1巻の資本蓄積論として、周期的景気循環の必然性の基礎を解明した上で、資本の競争と利潤率の変動を論じた重要な論点でしょう。そこで、ここでも利潤率の傾向的低下をめぐる歴史的な傾向は別に措いて、第1巻の資本蓄積論との関連で。「この法則の内的矛盾の展開」と「資本の絶対的過剰生産」について、立ち入ることにします。
 マルクスは、生産力の発展が資本の価値増殖と矛盾する点を先ず指摘し、「利潤率は低下するが、利潤量は、充用資本量の増加と共に増加する」点を強調します。「率の低下を量で補う」資本の価値増殖行動ですが、そのうえで「人口の過剰における資本の過剰」を論じます。資本蓄積論と資本の競争論との接点ですが、資本の投資競争により資本蓄積が進みますが、資本は率の低下を、労働強化のためにも、「個別資本の最小限は増大する。」すでに資本蓄積論でも強調されていた通り、資本は「有機的構成不変の蓄積」、たんなる能力拡大型投資で拡大しょうとすれば、賃金の上昇から剰余価値率が低下する。この剰余価値率の低下が、個別資本の利潤率低下をもたらし、この率の低下が量の拡大を刺激して、投資競争の激化をもたらす。その結果として「個々の商品のではなく、資本の過剰生産ーといっても資本の過剰生産は、つねに商品の過剰生産を含むのであるがーは、資本の過剰蓄積以外の何ものをも意味しない。」ここでマルクスは、商品過剰論ではなく、資本過剰論の立場を明確にしつつ、さらに次のような問題提起をします。
 「いかなる場合に、資本の過剰生産は絶対的であろうか?しかも、これやあれやの、または二、三の重要な生産領域にわたるものではなく、その範囲自体において絶対的であるような、したがってすべての生産領域を包含するような、過剰生産は?」資本の絶対的過剰生産は、同時に全般的な過剰生産であり、それゆえに周期的恐慌に結びつくのであろう。マルクスは、自ら定義するように「資本主義的生産の目的への追加資本が、ゼロに等しくなれば、そこには資本の絶対的過剰生産が存在するであろう。しかし、資本主義的生産の目的は、資本の価値増殖でる。ーーーしたがって、労働者人口の供給する絶対的労働時間も延長されず、相対的剰余労働時間も拡張されえないような、労働者人口に対する比率において、資本が増大するや否や(そうでなくとも、相対的剰余労働時間の拡張は、労働に対する需要が強くて、賃金の上昇傾向がある場合には、実行されえないであろう)、したがって、増大した資本が、その増大以前に比して同じであるにすぎないか、またはより少なくさえもある剰余価値量を生産する場合には、そこには資本の絶対的過剰生産が現れるであろう。すなわち、増大した資本C+Δcは、資本CがΔcによるその増大以前に
生産したよりも、多くの利潤を生産せず、または、それよりも少ない少ない利潤をさえ生産するであろう。」
 少し長い引用だが、極めて重要な指摘が見受けられます。第一は、「商品の過剰」と「資本の過剰」の関連だが、ここでマルクスは明確に「資本の過剰」の結果としての「商品の過剰」であり、その逆ではないと言い切っている。したがって、すでに紹介した商品過剰論の立場が明確に否定され、あくまでも「資本の過剰」の立場から「資本の絶対対的過剰生産」が論じられ、さらに実現論的恐慌論の立場も否定され資本過剰論が表明された、とみるべきでしょう。マルクス恐慌論として、極めて重要な指摘です。
 第二は、資本の絶対的過剰の前提に、利潤率の低下があるが、さらにその前提として、賃金の上昇による剰余価値率の低下が指摘されている点です。ただ、マルクスの主張は「括弧付き」だし、必ずしも明確ではない。ただ利潤率の低下を全般的なものとして、絶対的過剰として説明している点では、資本の直接的生産過程の剰余価値生産の限界、そして資本蓄積の過程との関連を問われなければならない。その点で、マルクスが賃金の一般的上昇、さらに労働力の不足にも踏み込んだ点は重要な指摘として重視すべきです。すでにマルクスが資本蓄積論において、「資本構成不変」の蓄積パターンを提起していた以上、ここで資本蓄積の進行に伴う労働力の不足、賃金上昇のメカニズムが重視されるのは当然です。
 さらに第三に、資本の競争論として、特に重要なマルクスの主張ですが、資本の絶対的過剰生産について、ここで「限界原理」を利用している点です。一見して理解されますが、上記のように「増大した資本C+Δc」、つまり限界的投資について、利潤率がゼロ、あるいはマイナスとしている。したがって、ここではマルクスの上述の「平均原理」、そして資本構成が「中位構成」や「平均構成」を持ち出して市場価値を説明していたのとは全然違う。あくまでも既存の投資Cに対し、「追加資本であり」したがってΔcであり、その限界的生産力ではゼロないしマイナスの利潤率となる点から資本の絶対的過剰生産が説明されるのです。こうした説明からすれば、資本の絶対的過剰生産の説明原理にとどまらず、マルクスは資本の競争、市場調節的生産価格の説明原理としても、「平均原理」ではなく「限界原理」を採用する考えだったのではないか?当時まだ「限界革命」が始まった時点にもかかわらず、マルクスは数理的説明としても、限界原理の「資本C+Δc」をここで持ち出すことになり、そうした点から景気循環論、とくに恐慌論の説明に及んだと思われます。そこで、競争論から進んで、信用論による利潤率と利子率の対抗関係を見ることにします。

「利潤率の傾向的低下の法則」
 『資本論』第3巻、第3篇のタイトルとなっている「法則」は、言うまでもなく長期にわたり論争点になってきました。論争は、利潤率低下そのもとしても論じられましたが、上記の通り「傾向的低下の法則」として、資本主義の歴史的な生成、発展、消滅の歴史的法則として、とくに利潤率の低下による資本蓄積の破綻として論じられてきた。「法則そのもの」は、簡単に言えば生産力が上昇する場合、資本主義的な生産に特有な現象として、剰余価値率m/vが一定と仮定して、次のように定式化される。
 p/C=m・n/c+v=m・n/v/c+v/v=m・n/v/(c/v+1)
 この利潤率の定式において、生産力の発展は資本の有機的構成v/cを高める。したがって利潤率p/Cは低下せざるを得ない、というものです。しかし、何よりも先ず生産力が上昇し、相対的剰余価値の生産も進むのに、①m/vを一定とするのは背理だし、②技術的発展は回転度数nを高めるだろうし、③c/vについても、cの価値が低下するという「反対に作用する」要因もあるから、利潤率の低下を抽象的な原理的説明として論証することは困難です。原理的には、純粋資本主義の抽象として、生産力の上昇が、資本蓄積論の展開の中で、資本の過剰をひきおこし「絶対的過剰生産」により、周期的に利潤率の低下を招く論証をすれば足りる。マルクスは、資本蓄積論でもそうでしたが、一方では原理的論証により周期的恐慌の必然性を解明する恐慌論を展開しようとした。しかし、同時に他方では、資本主義の生成、発展、消滅の歴史法則として、利潤率の低下から資本主義の崩壊をイデオロギー的に主張したかったのでしょう。
 特にここでは、資本の競争の激化により、「世界市場と恐慌」という「恐慌・革命テーゼ」のイデオロギー的仮設から抜けられなかった事情があったかも知れません。エンゲルスの編集もあったのでしょうが、初期マルクス・エンゲルスの唯物史観のイデオロギー的仮設の枠組みの中に、原理的な「資本の絶対的過剰生産」の解明が埋没させられる傾向が強かった。しかしマルクスは、ここでも資本蓄積にもとづく資本の競争論として、「限界原理」に基づき「資本の絶対的過剰生産」の必然性の解明に成功したのです。その点で、資本主義の歴史的法則の解明とは別に、競争論として「資本の絶対的過剰生産」の解明の理論的意義を、高く評価する必要があるでしょう。

by morristokenji | 2018-06-05 19:47