森のミュージアムの最新情報<研究ノート>を分離


by morristokenji

カテゴリ:未分類( 148 )

(13)平均利潤と生産価格

 すでに紹介の通り、マルクスは『資本論』の巻別構成について、第1巻「資本の生産過程」第2巻「資本の流通過程」に対し、第3巻をたんなる両者の統一ではなく、「競争や信用」を含む「全体ととして見られた資本の運動過程から生ずる、具体的な諸形態を発見し、説明することである」と第3巻の冒頭で述べている。その上でエンゲルスは、マルクスの原稿を整理して、「費用価格と利潤」のタイトルの下で、利潤や利潤率、平均利潤や生産価格を説明している点が、極めて重要な論点です。ここで、資本の直接的生産過程に戻り、剰余価値率の利潤率への転化などではなく、ここでも価値形態論が前提になって、資本を商品、貨幣に続く流通形態としてのG-W-G'としている。だからこそ、G-Wが費用価格kp(産業資本形式ならG=W===Pが費用価格)としているのです。こうした流通形態の見地から、費用価格とW-G'販売価格vpとの関連で、G'の利潤を説明して、利潤率を導く方法を採用している。その上で個別資本の競争による平均利潤、そして平均利潤が実現される生産価格を展開する方法に他なりません。
 ここでは、明らかに費用価格kpと販売価格vpの差額がΔgとしての利潤pです。この利潤が、費用価格を含む全体の投資額Gとの関連でΔg/G利潤率を形成する。資本の価値増殖率であり、利益率です。そして個別資本による自由な競争の下では、利潤率が平均化され、平均利潤率及び平均利潤が形成され、価格基準としては生産価格が成立します。このように流通形態としての資本が前提され、さらに資本の流通過程の固定資本の存在が作用して、平均利潤率に基づく生産価格論の展開になります。しかし、ここでも生産価格論の展開は、価値形態による流通形態の見地だけでなく、ここ生産価格論でもまた、『資本論』冒頭から前提されてきている労働価値説の等価交換との矛盾に逢着します。価値と生さ価格の矛盾に他なりません。
 マルクスは、「資本主義的に生産される各商品の価値Wは、定式W=c+v+mで示される」として、まず直接的生産過程での商品の価値規定を提示します。こうした価値規定こそ、労働生産物を商品経済的富として、その価値を等価労働量に還元していた古典派以来の労働価値説に他ならない。しかし、その論証こそ単なる同義反復に過ぎない、というマルクス批判を引き起こしました。すでに繰り返し述べたので繰り返しませんが、こうした価値規定を前提にして、ここで「費用価格をkと名付ければ、定式W=c+v+mは、定式W=k+mに、商品価値=費用価格+剰余価値に転化される」と述べます。こうした費用価格、利潤の定義では、流通形態としての資本の運動形式は無視され、単に実体的なc+vの見方の違い、「括り方」の差異だけに過ぎなくなってしまう。個別資本が競争する流通形態としての資本、その費用価格や利潤の提起の意味は無くなってしまいます。
 同様にマルクスは、労働価値説に基づく商品の価値規定W=c+v+mを設定するため、剰余価値mの見方の差異だけで利潤pを定義することになる。さらに利潤率もm/c+vに還元される。また、固定資本の回転を考慮するものの、m/Cが平均利潤の前提に置かれ、価値から単に量的に乖離した生産価格となる。そうなればトートロギーに過ぎないと批判を浴びた労働価値説は、ここで価値と生産価格の矛盾に陥り、さらに批判の矢を浴びざるを得なくなってしまいます。マルクスが折角、第3巻について競争・信用を意識しながら「資本の運動過程から見られる具体的諸形態」とした費用価格や利潤の形態的意義は消えてなくなってしまう。価値形態論を重視し、流通形態としての資本の形態規定である「費用価格と利潤」の見地から、個別資本の競争の基準としての生産価格の展開が必要です。

[PR]
by morristokenji | 2018-05-11 11:01
 『自然エネルギーのソーシャル・デザイン』
 ―スマートコミュニティの水系モデル―

*経緯
 
仙台市の政令市移行に伴う宮城町の計画策定への協力
  
作並・瀬戸原地区の土地購入と「賢治とモリスの館」建設

「みやぎ建設総合センター」による建設業振興活動事業に対する助成金
「建設業主導による名取川・広瀬川水系の資源を活用した低炭素社会構築
モデル事業」受託

2011・3・11東日本大震災の発生に伴い、上記「モデル事業」に震災復興の視点を据える。特に、東北電力の発電施設①女川原子力発電所②仙台火力、新仙台火力両発電所の被災による発電停止に対し、③三居沢小水力発電所(1888)が健在だった事実 、および戦前は仙台市電気部の発送電事業が多大な成果を収めた点などを重視することになった。(拙稿「地域の自然エネ活用を:復興再生の道」河北新報、2011・6・26付「持論時論」参照)

*論点
1)オバマ・Green New Dealの自然エネルギーへの回帰、産業構造の転換、さらに最近のJ・リフキンなど「第三次産業革命」論  戦後日本のエネルギー政策と東北開発の総点検 低炭素化と自然再生エネルギーと第三次産業革命の位置づけ

2)晩期マルクスおよびW・モリス、B・バックスの共同体社会主義(コミュニタリアニズム)の視点  晩期マルクスの「共同体」志向とモリス・バックス『社会主義』の接点

3)宮沢賢治の「産業組合青年会」「ポラーノの広場」など、協同組合運動への視座の評価  賢治と高橋秀松(初代・名取市長)の交友と協同組合運動

4)宇野弘蔵「労働力なる商品の特殊性について」(1948年4月『唯物史観』) 労働力商品の特殊性と単純流通A-G-W、「資本の変態」の切断と労働力再生産の個人的消費、生産と消費の経済循環=経済原則、「共同体社会」主義の視点



[PR]
by morristokenji | 2018-03-05 20:15
 『資本論』の中には、「商品経済の物神性」など、物神性(フェティシズム)の説明が沢山出てきます。物神性の現象形態、その根拠など、多様な説明です。人間と人間の関係がモノとモノの関係になり、そのモノが魔力をもって人間の意識や行動を支配する。『資本論』で最初に登場するのが「貨幣物神」で、「カネに目が眩む」金権腐敗の政治などでしょう。
 
 『資本論』第1巻、最初の「商品」の章の最後の第4節は、「商品の物神的性格とその秘密」ですが、ここで「商品の物神性」と「貨幣の物神性」がまず取り上げられます。ただ、貨幣の物神性も商品との関係で生じていますから、「商品の物神性」とも言えますが、物神性そのものは商品ではなく「貨幣の物神性」です。商品と商品の関係が、なぜ貨幣との関係となり、「カネに目がくらむ」貨幣の物神性を産むのか、その必然性の解明が「価値形態論」にあった。だからマルクスも、順序として第3節「価値形態または交換価値」の説明の後の第4節で「貨幣物神」を説明したのでしょう。
 そこでマルクスの説明ですが、「商品を使用価値として見る限り、商品はその属性によって人間の欲望を充足させるものだとか、あるいは人間労働の生産物として得るものではない」として、商品の使用価値とか、価値規定の内容・労働からではなく、物神性が「商品の形態的性格」、つまり価値形態から生ずる、と明確に言い切っています。A・スミスのように価値規定の内容・労働を「本源的購買貨幣」としたのでは、商品は労働生産物として貨幣であり、商品は相互に交換・購買し合い、価値形態には思いも到らない流通主義の誤りに陥ったのです。マルクスはそこを批判して、商品物神を貨幣物神として、価値形態から説明しているのです。
 
 商品の価値形態ですが、すでに説明の通り相対的価値形態の商品の価値が、等価形態の商品の使用価値で表現される。商品の2要因が、相対的価値形態の積極的な価値の表現、等価形態の使用価値が価値の消極的な表現材料の提供として分化する。x量・商品A⇒y量・商品Bですが、商品Aの所有者はAを供給し、商品Bの使用価値を需要する形態で、AとBの価値関係が形成されている。したがって、Aの所有者のBの使用価値に対する欲望が重要だし、欲望を充足する使用価値の量になる。だから、例えば「20エレのリンネル=半着の上着」などは、Aの上着の使用価値への欲望を無視したナンセンスな表現形式になるのです。
 マルクスの価値形態論は、「簡単な価値形態」「拡大された価値形態」「一般的価値形態」と展開されますが、上記のAとBとの需要と供給の対立関係を明らかにするものです。「一般的価値形態」では、等価形態としては「一般的等価物」が出てくる。価値物としてBは直接的交換可能性、つまり「購買力」を与えられ、その代わり相対的価値形態のAは、使用価値として供給できることになる。その上で、貨幣形態は一般的等価物としてのBの地位が独占的に固定され、逆にAは使用価値の単位量を前提に供給されることになる。例えば貨幣商品が金だとして、1着の上着⇒2オンスの金、1トンの鉄⇒4オンスの金、10ポンドのコーヒー⇒0.5オンスの金というように、相対的価値形態として供給される商品は、それぞれ商品供給の単位量が、それに対する等価形態の貨幣は、量的に分割・合成が可能なので4オンスとか、0.5オンスなど価値量の貨幣表現、つまり価格表現になります。
 このように価値形態としての貨幣の地位が独占的に固定すれば、直接的交換可能性としての購買力が付与される以上、貨幣が何でも購入できる「有効需要」の担い手になる。逆に相対的価値形態の一般商品は、供給しやすいように単位量の使用価値として市場に出る。価値の貨幣表現である価格に対しては、右肩上がりの供給曲線、逆に需要の方は、価格に対して右肩下がりとなり、商品によっては「限界効用」が低下することが含まれるでしょう。価格は需要曲線と供給曲線の交点になるでしょうが、購買の決定は購買力による有効需要の担い手としての貨幣の側にある。「金は生まれながらにして貨幣ではないが、貨幣は生まれながらにして金である」貨幣物神が生まれるのです。金本位制が長く定着し、その後も基軸通貨ドルは金との交換性が保証される金為替本位制だったし、その崩壊後の管理通貨制も「管理できない管理通貨制」だし、為替相場の急変時には、先ずは金を購入する動きが出るのは、他でもない「貨幣物神」のなせる業ではないか?

 物神性の根拠については、資本の生産過程で明らかにされます。流通形態としての資本の「一般的形式」は、すでに説明の通りG-W-G'ですが、労働力の商品化を前提にして、産業資本の形式G-W---P---W'-G'において、商品関係が人間関係の形成と結びつくからです。価値形成・増殖過程で、人と人の関係がモノとモノの関係が階級関係となる必然性が解明されます。A・スミスのように価値形態を看過し、労働力の商品化を解明できないまま、人間労働を本源的購買貨幣としてしまえば、人と人の関係がモノとモノの関係に媒介される人間疎外は眼中に入らない。物神性の根拠が問われないまま、商品経済が絶対視されるのです。マルクスは、『資本論』の価値形態論により労働力の商品化を明らかにし、人間疎外の根底から物神性を明らかにしたのです。
 そのマルクスですが、『資本論』第3巻の第5篇「利子生み資本」において、貨幣の物神性を前提にして、さらに「資本の物神性」を提起します。第24章の冒頭ですが「利子生み資本において、資本関係は、その最も外的な最も物神的な形態に達する」と述べています。ここで「利子生み資本」ですが、マルクスは一方において「貨幣資本家」、他方では「機能資本家」を持ち出し、貨幣資本家は「資本として投じ得る貨幣を持ちながら、自らは資本として投じない」資本家、逆に機能資本家は「資本として投じ得る貨幣をもたない資本家」としています。貨幣資本家は、貨幣の機能として「資本として機能する使用価値」があり、それを機能資本家に貸し付けて利子をとり「利子生み資本」として価値増殖を図るというものです。
 
 しかし、この「利子生み資本」には多くの疑問が寄せられています。すでに資本の生産過程や流通過程、再生産過程が明らかにされている段階で、そもそも「資本として投じ得る貨幣を持ちながら」投資しない資本家がいるのか?貨幣の使用価値に、貨幣機能のほかに「資本として機能する使用価値」などあるのか?機能資本家にも、利子の根拠が説明されないのに、利子支払いの根拠があるのか?さらに貸し付けられる資本を返済する根拠があるのか?要するに、本来は資本の流通過程を根拠に説明される「信用論」を抜きに、貨幣資本家も機能資本家も説明できない。資金を融通する貨幣・資金市場と株式資本などの資本市場が混同されているのではないか?『資本論』第3巻は、マルクスの草稿を、エンゲルスがアレンジしたものですが、著しく不合理な整理のように見えます。
 商業資本論によって、商業資本には2面があり、①産業資本からの商品の買い入れ代金、②商品販売の店舗など「純粋な流通費用」の2つだが、①は流通過程での遊休貨幣資本を商業資本が代位する。そこに遊休化の代位として、遊休化による「マイナスをプラス」に変え、利子支払いの根拠が与えられる。②については、「流通費用のマイナス」=空費を商業資本が専業化してマイナスする、「マイナスのマイナス」で企業者利得の根拠が与えられる。ここから商業資本の利潤には「利子と企業者利得」の分化が生じ、その利子収入の面を「利子生み資本」として「資本の物神性」の説明とする見解もあります。しかし、商業資本の利潤が、利子と企業者利得に分化する説明はともかくとして、なぜそれを「資本の物神性」にしなければならないのか?そもそも「資本の物神性」とは何か?

 「資本の物神性」の説明は別にして、貨幣市場が成立し、利子率が確定すると、すべての収益について、それを利子率で資本還元する。それを「資産」と呼び、動産と不動産、金融資産と実物資産、とくに株式資本を中心に「擬制資本」として、資本市場も成立してきました。こうした「資産」価値からの収益は、「資産」価値が利子率による資本還元である以上、収益は利子と見なされ、そこに物神崇拝的な性格を見ることは可能かも知れません。しかし、資本と資産の違いもあるので、それを「資本物神」と呼ぶのは如何なものか。昔から有産者(ブルジョア)と無産者(プロレタリア)の区別があり、今日では超低金利による異次元金融緩和の政策が、所得の格差より資産格差を拡大し、両者の対立が階級対立と見なされる傾向もある。その点では「資産」の物神性が特に重要かも知れません。

[PR]
by morristokenji | 2018-02-26 09:17
「人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係を、つまり彼らの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係を取り結ぶ。この生産諸関係の総体は、社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、その上に法律的、政治的上部構造がそびえ立ち、また一定の社会的意識諸形態、その現実の土台に対応している。」
「社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階に達すると、今までそれがその中で動いてきた既存の生産諸関係と矛盾するようになる。これらのの諸関係、あるいはその法律的表現に過ぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態から、その桎梏へと一変する。その時、社会革命の時期が始まる。経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造の全体が、徐々にせよ急激にせよ、崩壊する。」
「一つの社会構成は、すべての生産諸力が、その中では発展の余地がないほど発展しないうちは、崩壊することは決してなく、また新しい高度な生産諸関係は、その物質的な存在条件が、古い社会の胎内で孵化し終わるまでは、古いものにとって代わることは決してない。だから人間が立ち向かうのは、いっも自分が解決できる課題だけである。」
「大略、経済的社会構成が進歩してゆく段階として、アジア的、古代的、封建的、近代ブルジョア的生産様式をあげることができる。ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の敵対的な、と言っても個人的な敵対の意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生ずる意味での敵対的な形態の最後のものである。しかし、ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時に敵対的関係の解決のための物質的諸条件をつくり出す。だから、この社会構成で人間社会の前史は終わる。」

 少し長いが「唯物史観」の定式からの引用です。マルクスが経済学の研究を始めて以来、「初期マルクス・エンゲルス」の唯物史観が、一貫してイデオロギー的に前提されてきた。マルクスの表現を借りるなら、経済学研究のための「導きの糸」として、マルクスは資本主義を歴史的な社会としてとらえ続けてきた。それは科学的研究には不可欠な「作業仮設」であり、イデオロギー的な仮説だった。仮説は必要不可欠であり、マルクスにとっても、まさに理論的研究の「導きの糸」として役立ったし、その点で唯物史観を抜きに『資本論』もあり得ないし、唯物史観を否定してはならない。しかし、仮説はあくまでも仮設であり、理論や歴史そのものではない。理論については、理論的検討による論証が必要だし、歴史的事実については検証、実証が行われなければならない。理論的論証なしに、また歴史的実証抜きに一方的に主張されれば、それは単なるイデオロギー的なドグマになってしまう。
 まず「初期マルクス・エンゲルス」の唯物史観ですが、最初エンゲルスが投稿してきた『独仏年始』の経済学研究の論稿「国民経済学批判大綱」(1844年)に、マルクスが強く刺激を受けた。マルクスは、もともと父親の影響もあり法律学を専攻し、ベルリン大学ではヘーゲル哲学を学び、ヘーゲル左派として活躍していた。しかし、主筆を務めた『ライン新聞』で、「森林盗伐」問題などを扱っている中で、経済学の勉強不足を痛感していた。それだけにエンゲルスの論文からの刺激が大きく、続いて二人は共同で『経済学・哲学草稿』『ドイツイデオロギー』『共産党宣言』などを書いた。共同作業なので、ここで「初期マルクス・エンゲルス」と表現しますが、ロンドン亡命以降も二人の協力は続いものの、「中期マルクス」であり、「後期マルクス」であり、経済学研究はもっぱらマルクスが担うことになった。エンゲルスは父親の工場経営のため遠くマンチェスターに離れてしまった。
 要するに唯物史観は、「初期マルクス・エンゲルス」の作業仮設であり、A・スミスやD・リカードなど古典派経済学の抜粋、ノート、草稿の中で「国民経済学者は私有財産制の運動を説明するのに、労働を生産の中枢として捉えながら、労働者を人間としては認めず、労働する機能としてしか見ていない」と述べている。ヘーゲル左派として、人間疎外、労働疎外の立場ではありながら、ここでは私有財産の基礎に労働をおいている。この「私有財産と労働」を起点として、階級関係も「ブルジョア(有産者)に対するプロレタリア(無産者)」であり、さらにJ・ロック以来の「労働価値説」を基礎にして、自然法に基づく「自己の労働」の果実としての私有財産を提起したのです。唯物史観は、こうした「私有財産と自己の労働」に基づく古典派労働価値説の受容にあった、と捉えることができるでしょう。

 では、その後マルクスの経済学研究が進む中で、唯物史観はどうなったのか?「中期マルクス」の『経済学批判』ですが、ここには「序説」とともに、「序文」には経済学研究のプランや上記引用の唯物史観が定式化されています。マルクスは自らの経済学研究の跡を振り返り、ここで唯物史観を定式化する。そのうえで古典派労働価値説を継承し、商品、貨幣を論じます。だから『経済学批判」は、唯物史観の定式の枠組みの中で、商品の価値や貨幣の機能が論じられているのです。商品は、古典派労働価値説によって労働生産物であり、労働生産物が富であり、「国冨」である。したがつて商品の価値は労働により決定され、交換価値も基本的に等労働量の交換比率として等労働交換である。貨幣の機能も、こうした商品論の労働価値説に基づいて展開されますが、「貨幣の資本への転化」には進めなくなった。したがって『批判』は、商品論と貨幣論だけで終わってしまったのです。マルクスの挫折です。そこでマルクスは、『批判』に先行して書いた草稿『経済学批判要綱』を超えて、『経哲草稿』以来3度目になる経済学説批判の作業を進め直します。それが『剰余価値学説史』ですが、もう一度マルクスは、ここでスミスやリカードの批判的研究に挑戦したのです。
 この『剰余価値学説史』の研究を通して、「後期マルクス」の『資本論』の地平が拓かれた。古典派労働価値説の批判を進め「価値形態」、そして「労働力の商品化」、さらに「貨幣の資本への転化」を通して、資本の生産過程による剰余価値論の展開に成功しました。その点でいえば、価値形態論と労働力商品化論は、理論的には表裏の関係にある。労働力は労働生産物ではない。しかし、労働力は土地・自然・エネルギーなどとともに、商品経済的富の原基形態をなす。労働力や土地自然まで商品化され、労働市場や不動産取引が拡大する。それが資本主義経済の商品市場の特徴です。例えばスミスは、すでに指摘のとおり商品を労働生産物に還元して、労働を「本源的購買貨幣」とした。生産過程を流通過程に還元し、流通主義のイデオロギーにより資本主義の絶対視に陥ったのです。マルクスは、労働力の商品化の解明に成功し、それにより商品形態=価値形態を明らかにした。古典派労働価値説の批判の要諦は、価値形態と労働力の商品化の解明にあり、それによってマルクスの『資本論』は古典派経済学を科学的に批判し超克できたのです。

 しかし、『資本論』による古典派労働価値説の批判的克服は、それほど安易な作業ではなかった。価値形態論をあれほど強調し、労働力商品化による剰余価値論を展開したにもかかわらず、『資本論』冒頭の商品論では、商品は依然として労働生産物だし、等労働量交換として、価値論の展開が進められている。そのためベーム・バベルク以来、マルクス価値論批判がそこに集中して来ました。また、古典派労働価値説と密接に関連している、私有財産の自己の労働による基礎づけも、すでに解説のとおり『資本論』第1巻の最後に「所有法則の転変」として残されているのです。剰余価値の資本化による資本蓄積の前提に、マルクスはまず「商品生産の所有法則」として、「最初われわれにたいして所有権は、自己の労働に基づくものとして現れた」(第22章 剰余価値の資本への転化」)と述べ、それが「社会的労働に基づく資本主義的私的所有」による資本蓄積、そして「社会的労働に基づく社会的・共同所有」として「所有法則の転変」に基づいた「資本主義的蓄積の歴史的傾向」を第7篇、第24章「いわゆる本源的蓄積」の第7節で説いているのです。
 こうしてマルクスは「初期マルクス・エンゲルス」以来の唯物史観を、ここでまた提起します。しかし『資本論』のマルクスは、一方で古典派労働価値説の根本的批判を進めてきた。価値形態論と一体化された労働力商品化論、そして労働力商品化の特殊性に基づく剰余価値論、そして資本の流通過程論に他なりません。唯物史観の定式化にもかかわらず、上記のとおり「中期マルクス」の『批判』は、「貨幣の資本への転化」を前にして挫折した。それを超えた「後期マルクス」の『資本論』としては、古典派労働価値説の流通主義に回帰することは許されないはずです。古典派労働価値説の批判からすれば、「初期マルクス・エンゲルス」の唯物史観の原点への回帰は、唯物史観を作業仮設からドグマにしてしまう重大な誤りではないか?この誤りも、古典派労働価値説をマルクスが十分批判しきれなかったことによるものではないか?

 以上のように「初期マルクス・エンゲルス」の唯物史観は、エンゲルスの主導で古典派労働価値説による「私的所有と労働」の関係として定立されました。もちろんヘーゲル左派の立場から、疎外論が前提され、疎外された労働による私的所有の基礎づけだった。しかし、「後期マルクス」の『資本論』における純粋資本主義の抽象による価値論が形成されるまで、価値形態論も労働力商品化論も、古典派労働価値説を批判したマルクスには、まだ十分には提起できなかったのです。それがまた「貨幣の資本への転化」に進めなかった「中期マルクス」の『批判』の限界だった。しかし、『資本論』のマルクスは、価値形態論も労働力商品化論も明確に定立し、新たな理論的地平を切り拓くことに成功したのです。だとすれば、『批判』の唯物史観の仮説に埋め込まれた「私的所有と労働」、そして「所有法則の転変」の歴史観からここで決別し、それまでの唯物史観の作業仮設を、純粋資本主義の自律的経済法則による論証により問い直す必要があったのではないか?
 1870年代の「晩期マルクス」にとって、すでにヨーロッパ大陸は周期的恐慌を繰り返し、金融恐慌をバネにして経済成長を続けていた。唯物史観の「恐慌・革命テーゼ」は完全に反故と化し、政治的には「パリ・コンミューン」の激動が、マルクスも指導した国際的な労働運動の連帯組織「国際労働者協会」(第一インター)を解体に導くことにもなった。エンゲルスの「プロレタリア独裁」に対し、むしろマルクスは、ここでL・H・モルガン『古代社会』を読み、新たにまた「古代社会ノート」作りに進んだ。さらに、いち早く『資本論』の翻訳が進んだロシアからは、ナロードニキの女性活動家、ロシア社会民主労働党のメンシェビキ理論家ヴェラ・ザスーリチからの手紙による詰問に、事実上「所有法則の転変」を修正する返書を書かざるをえなかった。それに加えて英訳が遅れに遅れていたロンドンでも、『資本論』仏語訳の読者が広がり、マルクス主義の組織「社会主義者同盟」のE・B・バックスが、「現代思潮のリーダー達 第23回 カール・マルクス」を書いたのです。バックスは、『資本論』の価値形態論、労働力商品化論を高く評価したうえで、パリ・コンミューンを踏まえたのでしょう、「所有法則の転変」を超えて「共同体社会主義」を提起したのです。マルクスもまた、それを「真正社会主義」として受け止めながら、亡妻を追うように死地に赴いたことを最後に指摘しておきます。

 「論点」 「唯物史観」をめぐる歴史観の対立
 初期マルクス・エンゲルスによる唯物史観が、マルクスの経済学研究にとって、近代社会の資本主義を批判的にとらえるイデオロギー的な作業仮設として、極めて重要な役割を演じていたことは上記の通りです。しかし、経済学研究の深化と共に、とくに中期マルクスから後期マルクスの『資本論』への道程は、当時のイギリス中心の資本主義の発展によつて、「純粋資本主義」の抽象による法則性の解明、それによる新たな歴史観の形成の地平を拓くことになった。しかし、にもかかわらずマルクスに対する古典派労働価値説からの制約が強く、「所有法則の転変」の歴史観を残したし、それによる資本主義への「葬送の鐘」を鳴らすことにもなったのです。しかし晩期マルクスは、ポスト『資本論』の70年代、「パリ・コンミューン」の影響など、共同体論の新たな研究に取り組み、自らの歴史観を考え直していた。そうした事情を配慮して、ここで『資本論』をめぐる歴史観の流れを整理して置きましょう。
 
 まず一つの流れは、初期マルクス以来の所有法則の転変を踏まえた「単純商品生産史観」と呼べるようなものです。「最初われわれにたいして所有権は、自己の労働に基づくものとして現れた」、つまり独立自営の農民など小商品生産者の社会が想定されます。そこでは個人的な生産による生産力の発展、社会的分業などの拡大により、商品経済が拡大発展する。しかし、「自己の労働によって得られた、いわば個々独立の労働個人と、その労働諸条件との癒合に基づく私有は、他人の、しかし形式的には自由な労働の搾取に基づく、資本主義的私有によって駆逐される。」だが、「資本主義的生産様式が自己の足で立つにいたれば、労働のさらにそれ以上の社会化と、土地その他の生産手段の、社会的に利用される、したがって共同的な生産手段への、さらにそれ以上の転化、したがって、私有者のさらにそれ以上の収奪は、一つの新たな形態をとる。」社会的生産力のさらなる発展による資本主義的私的所有の否定、自己の労働に基づく私的所有の「否定の否定」として、ポスト資本主義を展望します。

 こうした「所有法則の転変」に基づく所有論的アプローチに対して、別のマルクスによる商品経済の発展の見方がある。「商品交換は、共同体の終わるところに、すなわち共同体が他の共同体、または他の共同体の成員と接触する点に始まる。」(『資本論』第1篇第2章)商品経済は共同体の内部からではなく、外部の共同体との間から発生し、私的所有権も共同体内部の自己の労働に基づくものとはいえない。こうした商品経済の外部性から商品、貨幣、さらに「貨幣の資本への転化」を説き、宇野理論の説明にも一部みられたように、世界市場の市場間の価格差から、商人資本や金貸資本の価値増殖を重視する。労働力の商品化も「いわゆる本源的蓄積」による政策によるもので、こうした労働力商品の特殊性に基づく「基本矛盾」が外部的に設定され、労働力商品化の止揚として、ポスト資本主義がここでは展望されます。この歴史観は、「流通浸透視角」とも呼ばれ、「世界資本主義論」により代表されますが、それは宇野理論の「純粋資本主義」の抽象を否定するものです。

 後期マルクスの『資本論』は、19世紀資本主義の確立と発展、政策なき政策とも言える「自由主義」の下で、自律した資本主義から抽象された「純粋資本主義」の法則性解明です。すでに述べた通り、労働生産物ではない、資本の生産物でもない、労働力や土地・自然まで商品化し、周期的景気循環に代表される資本主義的商品経済として、自律的経済法則が抽象される。純粋資本主義として経済法則が抽象されるからこそ、資本主義の発生、発展、成熟(消滅)の歴史的発展段階と経済法則の原理が、方法的に峻別される。宇野理論の原理論と段階論の区分ですが、さらに各国の資本主義の発展と世界経済の現状分析により、労働運動などの組織や運動が解明されることになる。原理論・段階論・現状分析の三段階論によって、原理論の経済法則から解明される「経済原則」の実現、すなわち地域の自然と人間との物質代謝、家族やコミュニティでの労働力の再生産、地産地消の「経済循環」など、労働力商品の特殊性による「基本矛盾」の止揚によって、経済原則を目的意識的、かつ組織的に実現する道が拓かれる。こうした組織的実践による経済原則の実現こそ、晩期マルクスが事実上志向していた「類的存在」としての人間の「共同体社会」主義の実現であり、それによる「人間社会の前史の終わり」でしょう。


[PR]
by morristokenji | 2018-01-31 20:08
 第7篇「資本の蓄積過程」の中心は、第23章「資本主義的蓄積の一般的法則」です。第21章「単純再生産」、ならびに第22章「剰余価値の資本への転化」は、再生産についての「経済原則」を明らかにする。拡大再生産は、いわゆる「経済成長」論であり、資本主義経済では経済の成長が資本の蓄積として法則的に実現する。第22章のタイトルが、「剰余価値の資本への転化」とされ、拡大再生産の内容が「経済学の謬見」である「節欲説」批判になっています。しかし、拡大再生産としての「経済成長」論を明らかにして、「節欲説」を批判しても良かったかと思います。資本主義経済では、経済成長が「蓄積せよ、蓄積せよ」のスローガンのもと、資本蓄積として遂行され、成長至上主義の「欲望の経済」が実現されます。その法則的解明が、第23章「資本主義的蓄積の一般的法則」です。
 
 マルクスは一般的法則を説明するに当たり、すでに簡単に触れましたが、ここで資本の構成₌不変資本c/可変資本v(有機的構成ともいう)について、①構成の「不変な場合」と②構成が「高度化する場合」の2つのパターンに分けています。①は、単なる規模拡大・能力拡大型投資で、既存の固定資本投資を前提に稼働率を高め、もっぱら労働力や原材料の流動不変資本の拡大を図る。②は、新たな固定資本投資により資本の構成c/vを高度化し、技術革新と合理化を進め省力化を図る投資です。そして、一般的法則としては、「第一節 資本構成の不変な場合における蓄積に伴う労働力需要の増加」、つまり先ずは①の能力拡大型投資の蓄積で進む。とくに資本の流通過程で明らかにしましたが、固定資本の回転の特殊性から、固定資本の償却が進まない限り、新たな設備投資による固定資本の更新ができない。したがって、既存の固定設備の利用で積極的な技術革新はなく、資本の稼働率を高め、流動不変資本と労働力の雇用拡大が進む。その結果として「蓄積に伴う労働力需要の増加」をもたらすことになります。
 ここで労働力商品の特殊性が表面化し、資本蓄積の制約要因となって、資本主義に特有な人口法則が具体化する。①の能力拡大型投資は、労働力需要の増加により雇用拡大が進むが、流動不変資本とは異なり、前述の第2巻資本の流通過程の「可変資本の回転」は、労働力の再生産としての「個人的消費」に依存せざるを得ない。雇用拡大による賃金の上昇は、労働力の再生産を刺激するが、消費生活を通しての労働力の再生産は、モノの生産、再生産ではない。人間の再生産であり、具体的には家庭で家族として子供が出生し、育児・保育され、進学し、労働力として雇用されるまでには最低でも10数年が必要である。こうした労働力の特殊性に基づく再生産の制約が、労働市場における労働力不足・人手不足となり、賃金上昇の圧力となって剰余価値率の低下をもたらす。剰余価値率の低下は、第3巻の分配範疇では利潤率の低下、つまり資本の過剰蓄積を意味する。当然、経済原則的には、経済成長の鈍化、停滞を帰結します。
 このように①の資本蓄積が進むと、労働市場での労働力の不足、人手不足が必然化するが、それは資本蓄積が労働力商品の特殊性から、可変資本の回転を通して、労働市場の求人倍率を高める結果に他ならない。さらに、先ず①の蓄積が進むのは、固定資本の回転の特殊性が、経済原則から固定資本の償却を迫るからです。だから、①の蓄積パターンの持続的進行は、労働力商品の特殊性、固定資本投資の特殊性から、経済成長の制約要因によるチェックを受けることになる。したがって、経済成長の要因の新たな確保が必要にならざるを得ないが、それは「技術革新」による生産性の向上と、それに基づく相対的過剰人口の形成である。生産性向上により、相対的に過剰人口を形成し、それによる労働力不足・人手不足の解消を図ることになります。
 そこで資本蓄積は、マルクスのいう②の資本構成の高度化、つまり上記の合理化型投資へ転換して、資本蓄積を進めることになります。第二節のタイトルも「蓄積とそれに伴う集積との進行中における可変資本の相対的減少」です。合理化型投資は、上記の①の蓄積が進み、固定資本の回転も進んで、償却資金の積み立ても完了に近づいているので可能になる。つまり、固定設備の更新に際して、新たな生産性向上を可能にする技術革新型の投資が行われ、②の資本蓄積に転換することができる。生産性向上は、上記の通り相対的過剰人口を生み出し、それによって労働力人口を形成する。労働力商品の特殊性を「人づくり革命」ではなく、「生産性革命」への資本蓄積の法則的転換により解決するのです。こうした資本蓄積の①から②への自律的転換を通して、資本蓄積の一般的法則が貫かれる。これが『資本論』による「資本主義的生産様式に特有な人口法則」であり、こうした法則により労働力商品の特殊性、固定資本の回転の特殊性による経済原則からの制約を、資本主義は法則的に解決して「富の発展」である経済成長を進めることができる。

 このように『資本論』では、資本の構成を①と②の二つのパターンに分類し、相対的過剰人口の形成などの説明では、①と②の循環的交代を通して、資本蓄積による周期的景気循環の基礎を明らかにしています。例えば「近代産業の特徴的な生活過程、すなわち中位の活況、生産の繁忙、恐慌、沈滞の各時期が、より小さい諸変動に中断されつつ、10年ごとの循環をなす形態は、産業予備軍、または過剰人口の不断の形成、あるいは多く、あるいは少ない吸収、と再形成に基づいている」と明確に景気循環を基礎づけている。しかし、マルクスのの説明は、必ずしも一貫性があるわけではない。①と②がケース・バイ・ケースで、その時の条件で決まるような説明もあるし、さらに①が歴史的に先行し、資本主義的蓄積の本格化とともに②が不断に進み、相対的過剰人口が累積的に進行する。資本蓄積が進むと、過剰人口も累積化し、失業者が増大して「貧困の蓄積」となり、いわゆる窮乏化革命が説かれることにもなります。マルクスも資本主義の「最後の鐘」を早く鳴らしたかったのかも知れません。しかし、「資本主義的蓄積の一般法則」としては、資本主義に特有な人口法則の解明が重要だった。
 マルクスの説明が、必ずしもスッキリ一貫したものにならなかった理由ですが、いろいろあると思います。大きな理由としては、『資本論』第2巻「資本の流通過程」で明らかにされる「可変資本の回転」による労働力商品化の特殊性、さらに「固定資本の回転」の特殊性が十分に前提されなかった。すでに紹介しましたが、マルクス自身も資本の蓄積過程が再生産過程である以上、その前提に資本の流通過程の解明が必要であることを知っていた。しかし、第1巻の取りまとめを急ぎ、「最初まず蓄積を抽象的に、すなわち単なる直接的生産過程の要因として、考察するのみである」とした。このように直接的生産過程として抽象化したことの結果として、可変資本の回転や固定資本の回転の制約が十分に評価されず、②の蓄積パターンが連続することになり、失業と貧困の蓄積が一方的に強調される窮乏化革命論になってしまった。
 もう一つ、『資本論』第1巻の取りまとめを急いだ点とも関連しますが、ここ第7篇「資本の蓄積過程」には、すでに述べた通り「所有法則の転変」を中心に、第24章「いわゆる本源的蓄積」など、理論的展開の歴史的検証や例証のレベルを超えて、資本主義の生成、発展、消滅の歴史的展開を解こうとしている。そのイデオロギー表現が有名な「収奪者が収奪され」て「最後の鐘」を鳴らすことになる。『資本論』が純粋資本主義の抽象により資本主義経済の運動法則を論理的に説明する筈だったのに、ここで論理的・歴史的展開、つまり「歴史と論理の統一」を図った。そのためにイデオロギー的な作業仮設が独走し、ドグマ化してしまったのではないか?とくに所有法則の転変による「第7節 資本主義的蓄積の歴史的傾向」に集約されていますが、それについては項を改めて検討しましょう。

「論点」 周期的景気循環と純粋資本主義の抽象

 第7篇第23章「資本主義的蓄積の一般的法則」では、上記の通り周期的恐慌を含む景気循環の必然性の基礎が明らかにされ、マルクス恐慌論としても極めて重要な理論的展開です。しかし、第7篇全体としては、景気循環の必然性の理論的展開よりも、むしろ資本主義の生成、発展、消滅の歴史的展開、とくに「所有法則の転変」による歴史的移行が強調されていた。また、資本主義経済の運動法則としての景気循環の自律的運動法則も、理論的な曖昧さを含む展開だった。その点で、『資本論』における資本主義の運動法則の解明と、歴史的展開・移行との方法的関連が、ここで改めて問い直さなければならないでしょう。
 『資本論』の課題は、すでに明らかな通り近代社会としての資本主義経済の運動法則の解明です。そして、運動法則を理論的に解明するためには、「顕微鏡も科学的試薬も用いるわけにはいかぬ。抽象力なるものがこの両者に代わらなければならぬ」とマルクスは述べ、しかも個人的な価値判断に基づく人為的な「理想型」(Idealtypus)ではなく、「過程の純粋な進行が確保される」「典型的な場所は今日までのところイギリスである。」ドイツなども、イギリスに続いて発展するとして、イギリス資本主義の運動によって法則解明が行われるとしています。資本主義経済の運動法則は、イギリスを中心とする歴史的現実から抽象される「純粋資本主義」になるわけです。
 このようなイギリス資本主義の歴史的発展は、さらに経済政策のイデオロギー面では、重商主義や帝国主義などの政策とは異なり、自由放任政策(laissez faire)の自由主義の時代を迎えていた。これは資本主義経済の発展を、「なすがままに任せる」いわば「政策なき政策」であり、資本主義の自律的発展を推進するものだった。そうした中で後進国ドイツやイギリスにも逆転の動きが強まってはいたものの、世界市場を中心に約10年周期の規則的な景気循環が、19世紀の20年代から20世紀にかけて実現したのです。こうした規則的な景気循環の発展こそ、純粋資本主義の歴史的・現実的な抽象そのものであり、そうした現実的・歴史的抽象による純粋資本主義の運動が、資本主義の運動法則の時間と空間を提供した。こうした歴史的・現実的抽象は、たんなる現実の「模写」ではない。抽象の方法をも反映する「方法の模写」に他ならない。マルクスも周期的景気循環の現実を重視して、『資本論』の「第2班の後書」(1873年1月)では、次のように述べています。
 「資本主義社会の矛盾に満ちた運動は、実際的なブルジョアにたいしては周期的な景気循環の移り変わりにおいて、最も切実に感じられている。近代産業は、この循環を経過するものであって、その頂点が恐慌である。恐慌はまだ先行の段階にあるが、再び進行を始めている。そして、その舞台の普遍化していることによって、並びにその作用の強化されていることによって、神聖なる新プロイセン的ドイツ国の成り上がり者どもにすら、弁証法をたたき込むであろう。」この「後書」きを、『資本論』初版から6年も経った、またフランス語版に対する改訂の作業の後、マルクスは書いた。資本主義経済の自律的運動法則、そして純粋資本主義の抽象の「舞台」が、他ならぬ「周期的な景気循環」により繰り広げられ、「弁証法をたたき込む」法則性を強調しているのです。ここで、『資本論』における純粋資本主義の抽象の意義を、周期的景気循環の自律性として強調して置きます。

「論点2」資本主義的人口法則と「経済原則」
 
 ここで資本蓄積論における周期的景気循環の必然性との関連で、資本主義的人口法則が解明されました。すでに明らかなとおり、労働力商品の特殊性により、可変資本の回転においては、労働力の再生産が単純流通を通して、個人的消費の過程で行われる。一方の労働力が資本に雇用され直接的生産過程で剰余価値を生産し、他方では可変資本の回転により個人的消費で労働力の再生産が行われる。ここに資本主義的な「経済循環」の経済原則と経済法則との関連が明らかにされます。そして、この労働力の再生産は、経済原則から言って、個人的消費の場である家庭・家族、そして経済循環も地域の共同体との関連で進められる。こうした関連は、さらに資本の蓄積過程における資本主義的人口法則との関連でも、さらに特有な相対的過剰人口の問題が提起されます。
 資本主義的人口法則は、すでに明らかなとおり資本蓄積の下で、資本構成の変化に対応して、個人的消費を通して再生産される労働市場の労働力の吸収と反発、そして賃金の上昇と低下、雇用の拡大と縮小として現れます。労働力の吸収が高まり、賃金が上昇し、雇用の拡大が進む、具体的には好況期には、労働力の再生産も拡大基調で進むでしょう。しかし、逆に、資本による労働力の反発が強まり、賃金が低下し、雇用の縮小する局面、具体的には景気後退の不況期には、資本にとっては相対的過剰人口の形成であり、「生産性革命」と「人づくり革命」かも知れませんが、相対的過剰人口の存在はどうなるのか?
 『資本論』では、上述のように不断の有機的構成高度化、それによる「産業予備軍の累進的生産」が強調され、そのため「相対的過剰人口の種々の存在形態」を述べています。景気循環で生ずる相対的過剰人口の他に「流動的、潜在的、および停滞的形態」を挙げていますが、その適否はともかく相対的過剰人口の存在と労働力再生産との関係は無視できない。労働力の再生産が「家庭」・「家族」として図られるとすれば、家族の中の何人かが資本に雇用され吸収されるが、景気が後退して資本が反発すれば、何人かが失業して戻ってくる。さらに家庭・家族が地域の共同体を構成するとすれば、そうした共同体が吸収・反発の調節弁・雇用調整のバッファーとなる。そうしたバッファーを利用して資本主義的人口法則も機能するし、その点にまた、労働力商品の特殊性に基づく資本蓄積の経済法則と経済原則の接点と緊張関係が指摘できるでしょう。
 このバッファーの機能ですが、資本による雇用が拡大し、家庭・家族の労働力が吸収される局面が進むと、賃金上昇と共に人手の不足が進む。とくに少子高齢化などの現実では、人手不足が深刻化し、「人づくり革命」なども提起されるのです。また、権力的に「生産性革命」も叫ばれます。本来なら、資本蓄積の法則性から生産性向上と相対的過剰人口の新たな創出を迎えるはずですが、それが進まない産業構造の硬直化でしょう。さらに20世紀資本主義の共通した政策スローガンとして、「福祉国家主義」とも言える「完全雇用」の政策が登場した。この福祉国家の政策が、労働市場では「不断の賃金上昇」、「慢性的人手不足」を招来し、経済原則の面でも「経済成長の限界」を招くのです。明らかに資本蓄積の歴史的限界とも言えますが、これ以上ここでは立ち入れません。

[PR]
by morristokenji | 2018-01-28 20:30
 ここで『資本論』第1巻に戻りますが、第2巻の「資本の流通過程」を前提することによって、とくに第7篇「資本の蓄積過程」について、改めて検討しなければならない論点が出てきます。そもそも第2巻による「補足」の必要性に気づきながら、おそらくマルクスは、第1巻の刊行を急いだのだろうと思います。そのため、論点の多くを一先ず棚上げにして、第1巻をまとめざるをえなかった。とくに「商品生産の所有法則の資本主義的領有法則への転換」を早期に提起したかった。その結果、「所有法則の転変」から、資本主義から社会主義への歴史的転換・移行を説くことにもなり、すでに多少触れましたが、社会主義論=ソーシャルエコノミー論としても、色々問題を持ち込むことになってしまったように思います。まず、その点から検討しましょう。

 第一に、第7篇を開いて、まず奇異に感ずるのは、すぐ「第21章 単純再生産」を始めずに、他の篇とは異なり「まえがき」のような長めのコメントがあることです。マルクスはここで「貨幣の資本への転化」を述べ、資本の循環について「資本の流通」に触れ、資本蓄積の第一の条件として「資本はその流通過程を正常な仕方で通過することが前提される。この過程のさらに詳細な分析は、第二巻で行われる」と述べているのです。つまり、資本の蓄積過程の分析のためには、第二巻の「資本の流通過程」による「補足」、というより「前提」が必要である点が指摘されているのです。とすれば、資本の蓄積過程の前に、「資本の流通過程」を置くことをマルクスも考えていた。しかし、第一巻を急いでまとめることにした、そこで第二巻は後回しになった、ということかと思います。さらに第三巻では、利潤、利子、地代の分配範疇を述べることも指摘し、そのため資本蓄積を「抽象的に、すなわち単なる直接的生産過程の要因として、考察する」と断っています。したがって、資本の蓄積過程の分析には、資本の流通過程、例えば上記の固定資本の回転の特殊性などを、十分考慮して読み取るべきでしょう。

 第二に、単純再生産と拡大再生産は、「経済原則」の説明にとって必要な内容ですが、資本蓄積は「剰余価値の資本への転化」として、拡大再生産が「経済法則」として実現される過程です。その際、「第22章 剰余価値の資本への転化」として「第1節 拡大された規模における資本主義的生産過程。商品生産の所有法則の資本主義的領有法則への転換」が説かれています。ここで、わざわざマルクスは「商品生産の所有法則」を持ち出し、「最初われわれにたいして所有権は、自己の労働に基づくものとして現れた。少なくとも、この過程が妥当でなければならなかった、というのは、同権の商品所有者のみが対立するのであり、他人の商品を獲得する手段は、自己の商品の譲渡のみであり、そして自己の商品は、ただ労働によってのみ作り出されうるものだからである。」(1巻732頁)言うまでもなく初期マルクス以来の「唯物史観」における「私的所有と疎外された労働」の関係であり、また「単純商品生産社会」の想定であって、私的「所有権」の基礎づけに「自己の労働」を持ち出している。こうしたマルクスの「想定」が、所有法則の転変による歴史的移行についての「第24章 いわゆる本源的蓄積」、とくに「第7節 資本主義的蓄積の歴史的傾向」の布石になっている。しかし社会主義論を含めて、ここから様々な疑問が生じてきます。とりわけ所有論的な中央集権型の上からの計画経済のソ連型モデルも、こうした所有法則の転変に起因しているように思われます。

 第三に、「第23章 資本主義的蓄積の一般的法則」では、資本蓄積と「相対的過剰人口」の存在形態など、資本主義的人口法則が説かれます。内容的には、後に検討するとして、このように資本蓄積について「一般的法則」を説き、純粋資本主義における景気循環の基礎を明らかにした上で、さらに「第24章 いわゆる本源的蓄積」が置かれ、しかも所有法則の転変として、資本主義の歴史的生成、発展、消滅が説かれます。しかし『資本論』では、剰余価値論はじめ、他の先行諸篇では、歴史的資料は沢山使っていますが、資本主義社会の歴史的生成、発展、消滅そのものを法則的に展開してはいない。とくに「所有法則の転変」としては、上記の通り「単純商品生産社会」の想定は、A・スミスの初期未開の社会など、労働を「本源的購買貨幣」とする流通主義のイデオロギーに過ぎない説明だった。さらに、資本主義の歴史的生成過程としては、マルクス自身「いわゆる本源的蓄積」の過程を説いている。本源的蓄積と所有法則の転変の両者を、いかなる関連にあると考えているのか?さらに、社会変革のための組織的運動を抜きに、性急に資本主義の「消滅」を単にイデオロギー的に主張するだけではないのか、余りにも性急に「最後の鐘」を打ちすぎているのではないか等、ここで様々な疑問が出てきます。「最後の鐘」を鳴らすのは『資本論』ではない、各国の資本主義の現状分析や世界経済の関連から、多様な形で組織的運動が形成され、そうした組織の主体的運動の成果として鐘が鳴るのでしょう。

 第7篇は、内容的に純粋資本主義の運動法則としては、余りにも多岐、多様にわたりすぎている。『資本論』第一巻の最後の締めくくりとして、単に純粋資本主義の運動法則にとどまらず、資本主義の歴史的生成、発展、消滅まで説き、資本主義の「最後の鐘」を鳴らそうとしたのでしょうが、それは単なるイデオロギー的主張にとどまった、と言えるように思います。恐らくマルクスも、それに気づいていた。だから、「パリ・コミューン」の後の1872年―75年にかけて、自身で改訂に手を入れた『資本論』仏語版(分冊版)では、部分的改定のために手を入れただけではなかった。資本主義の歴史的生成、発展、消滅にかかわる部分、つまり第24章「いわゆる本源的蓄積」の部分を第23章までと区分し、それを切り離して第8篇にしたのです。第23章の「資本主義的蓄積の一般的法則」の論理と、第24章以下の歴史過程の部分を編別構成上は峻別しようと考えたのではないか。「論理と歴史」、「科学とイデオロギー」、「理論と実践」の関係について、マルクス自身の内在的な問題提起だったと思います。

 「論点」「論理と歴史」の統一のドグマ
 ヘーゲルの弁証法との関連でしょうが、いわゆるマルクス・レーニン主義では、①論理と歴史、そして②科学とイデオロギー、③理論と実践について、3者を統一しなければならないというドグマが支配してきました。とくに『資本論』については、「論理と歴史」の統一のドグマの支配が問題です。上記のように『資本論』第1巻第7篇については、仏語版の篇別構成の変更など、「資本の資本蓄積・再生産過程」の論理的展開と「資本の原始的蓄積過程」「所有法則の転変」の歴史的の関連を、方法的にどのように関連付けるか、重要な問題が提起されています。ここに『資本論』の歴史と論理の方法が集約されていると言えます。

 『資本論』は、すでに繰り返し述べているように近代社会である資本主義の運動法則を解明しますが、それは純粋資本主義の抽象によって明らかにされます。だから冒頭商品も、古典派経済学のように労働生産物に限定されないし、また資本の生産物の限定も必要ない。労働市場で取引きされる労働力商品も、不動産市場の土地・自然も、商品経済的富である。そして、流通形態として全面的交換可能性を持つ商品として価値形態が与えられ、貨幣が理論的に必然化した。しかしマルクスは、古典派経済学を批判し、価値形態を明らかにしながら、冒頭商品を労働生産物に還元し、労働価値説を論証した。その上で、『資本論』第1篇、第2章「交換過程」論では、わざわざ商品所有者を登場させ、ここで「自己に労働」に基づく「私的所有」権を設定した。初期マルクス・エンゲルス以来の唯物史観のテーゼであり、商品生産の所有法則とともに、単純商品生産社会を想定することになってしまったのです。
 マルクスは、『経済学批判』では商品論、貨幣論までで挫折しましたが、『資本論』では価値形態を前提にして、商品・貨幣、そして資本を、流通形態としてG-W-G'を一般的定式とするのに成功した。しかし、冒頭の等労働量交換の労働価値説は、単純商品生産の前提からも、「労働力の商品化」を論理的に説くことが出来ない。そこでマルクスは、Hic Rhodus,hic salta!(ここがロドスだ、さあ跳べ!)と自ら叫び、「命がけの飛躍」によって、労働力の商品化を導くことになった。「命がけの飛躍」により、神学上の「原罪」である「いわゆる本源的蓄積」を第1巻の巻末に追いやった上での労働力の商品化であり、産業資本の剰余価値生産の展開だった。その上で、第2巻「資本の流通過程」の位置づけに配慮しながらも、資本蓄積・再生産過程を理論的に展開しようとした。第7篇「資本の蓄積過程」の展開である。
 しかし、「いわゆる本源的蓄積」は、巻末の第24章に追いやられたものの、上記のように第22章では、「剰余価値の資本への転化」を説き、第1節では「商品生産の所有法則の資本主義的領有法則」への転変を提起しているのである。ここでは「自己の労働」に基づく「私的所有」を説き、歴史的単純商品生産社会から、資本主義的領有の近代社会、そしてポスト近代の社会主義への歴史的転換を説く枠組みを提起している。こうした枠組みの中へ純粋資本主義から抽象される資本の蓄積・再生産過程の運動法則も組み込まれてしまっている。その上で、第24章の最後で第7節「資本主義的蓄積の歴史的傾向」が説かれる。ここでの歴史的傾向は正しく「所有法則の転変」であり、純粋資本主義の運動法則は、資本主義の歴史的転換・移行の法則の中に組み込まれたともいえるだろう。

 このように『資本論』第1巻の展開は、序文や後書きに純粋資本主義の抽象による資本主義の経済法則の展開をうたいながら、一方の純粋な論理的展開の方法的見地は、他方の「単純商品生産史観」ともいえる初期マルクスの唯物史観の作業仮設に過ぎない歴史的転化の枠組みに大きく制約されている。まさに論理的展開と歴史的転化・移行の体系的ともいえる混濁であり、論理と歴史の混淆ではないか?そして、「所有法則の転変」は、単なり混濁だけではなく、「科学とイデオロギー」「理論と実践」の統一のドグマとも重なり合いながら、マルクス・レーニン主義の誤謬を招来してしまった点はさらに後述したいと思います。

[PR]
by morristokenji | 2018-01-02 15:43
 資本の流通過程は、資本の一般的形式G-W-G'に基づき循環し、回転します。そこでも、生産と消費を繋ぐに当たり、労働力商品の特殊性が、経済原則の面から、可変資本の回転に制約を課しました。それだけではない。さらに、不変資本の投資の中にも、原材料のように一回の生産過程で全部的に価値移転して製品化するもの、それを流動資本とします。それに反し、機械設備への投資などは、部分的に価値移転するだけで、回収が長期化するので固定資本です。A・スミス以来、流動資本と固定資本の区別が行われてきました。『資本論』でも、その資本分類を継承していますが、マルクスは流通過程と生産過程の区別を厳密にして、その上で生産資本ついて、まず固定資本は、機械などに投資された資本で、部分的にしか価値移転されず、投資の回収が長期化します。他方、全部的に価値移転が行われ、一挙に全部的に回収できる流動資本は、固定資本より投資効率が良いのは当然です。その点、固定資本により回転期間の面で大きな制約を受ける。
 資本の直接的生産過程では、すでに説明したとおり雇用した労働力の使用価値である労働を強化する絶対的剰余価値生産、しかし労働強化には制約があった。1日は24時間だし、労働力は人間の能力であって、家畜同然の奴隷ではない。使い捨てではなく、労働力の再生産を保障して、その意味で人権を認めなければならない。それに対して、労働者が資本から必要労働を、その生活手段として買い戻すに当たり、その消費財の生産性を向上し、その価値を切り下げれば、間接的ながら必要労働による労働力の価値切り下げになる。労働強化による直接的な剰余価値生産が絶対的剰余価値生産、それに対し生産性の向上による間接的な剰余価値生産を、相対的剰余価値生産と呼びました。資本にとっては、絶対的剰余価値生産に色々制約があるため、むしろ相対的剰余価値生産がより重要であり、生産性向上が不可欠になります。
 
 『資本論』において、純粋資本主義として抽象されるのは、これもまた労働力の商品化に対応しますが、生産力水準としては機械制大工業です。協業や分業の拡大とともに、機械制大工業の工場制度が、生産過程の「組織者」になり、資本主義的生産が確立した。労働者は、工場制度の組織の中に組み込まれ、チャップリンの喜劇「モダンタイムス」のようになり、労働の生産性も機械の生産性となって、生産性向上が推進される。資本は、不断に生産性向上を求めますが、しかし固定資本の存在は、不断の生産性向上を許さない。なぜなら、固定資本に投資された資本は、流動資本と異なり、一挙に全部的に価値移転できずに、部分的に価値移転して、少しづつ償却されるからです。償却された部分は、部分的に貨幣化されますが、それも償却資金として積み立てて置かねばならない。償却の期間が来た時に、初めて新たな機械とともに技術革新と生産性向上が実現するのです。
 その点で、すでに述べましたが、政府が上から「生産性革命」を叫び、「人づくり革命」を目指しても、固定資本の償却を無視して、機械の更新はできない。機械制大工業は、巨大化する固定設備により相対的剰余価値生産を進める以上、固定資本の償却が進み、その更新に合致させて技術革新を行わざるを得ない。不断の技術革新や不断の生産性向上は無理な話です。それに技術革新は、企業自身よりも、外部の研究機関などの研究開発で進むケースも多い。したがって、企業の固定資本の更新時に上手く技術革新が合致するとは限らない。その点でも生産性革命が不断に進み、相対的剰余価値生産が不断に推進されるわけではない。資本の流通過程も、固定資本の回転の面で、機械設備の償却という「経済原則」からの強い制約を免れないのです。最近では「生産性向上」が実体経済面の固定資本投資を避けて、どうしても流通や金融面の情報化など、ソフト化に集中する傾向が生まれるのでしょう。

 こうした固定資本の償却そのものについては、『資本論』で特に説明がありませんが、非資本主義的な「社会的生産」ソーシャルエコノミーの例を挙げ、「社会的生産の基礎上では、比較的長期間にわたり、その期間中は有用効果としての生産物を供給することなしに労働力と生産手段を引き上げるこれらの作業が、一年中連続的にか、また数回にわたり、労働力と生産手段を引き上げるだけでなく、生活手段と生産手段を供給もする諸生産部門を害することなしに遂行できる基準が決定されねばならない。」と述べ、こうした経済原則が貨幣資本との関連で「貨幣資本は社会的生産においては無くなる。社会が労働力と生産手段とを種々の事業部門に分配する。生産者はたとえば指定券を受け取って、それと引き換えに、社会的消費用備蓄の中から、彼らの労働時間に相応する量を引き出すことになってもよい。この指定券は貨幣ではないし、流通しない。」(2巻、423頁)
 ここでは貨幣資本と貨幣について興味深い問題提起がありますが、それはともかく資本主義経済を超えた「社会的生産」ソーシャルエコノミーでも、固定設備の更新のために「指定券」を準備し、それに相当する更新のための新たな固定設備に一定の労働や生活手段、生産手段を充当して準備しなければならない点を指摘している。上述の労働力商品の特殊性に基づく可変資本の回転とともに、固定資本の特殊性に伴う回転と経済原則の緊張関係がここでも重要です。こうした重要性を無視して「生産性革命」や「人づくり革命」を政府が強調しても、資本主義の法則性や「社会的生産」の原則を無視した強権主義のファッショ的支配に行き着くだけだろうと思います。

 「論点」固定資本の償却・更新と技術革新
 旧ソ連の「社会的生産」の下で、固定設備の償却や更新、さらに関連した施設の整備などが看過され、結果的にチェルノブイリ原発事故などを招いたことが、ソ連崩壊の大きな原因にも繋がったように思われます。 ソ連をはじめ旧東欧諸国では、固定設備の償却・更新が無視され、老朽設備を使い続け、環境汚染などが深刻になっていた。しかし、社会主義の下で「環境汚染などありえない」といった神話が支配していた。「レーニン共産主義記念チェルノブイリ原子力発電所」事故を引き起こした生産力主義の神話でしょう。レーニンの「共産主義は労兵ソヴィェトと全国の電化である」といった教条が、ソ連自己崩壊の原因と見るわけです。
 しかしマルクス『資本論』では、上述の通り特に第2巻「資本の流通過程」では、前項の「可変資本の回転」でもそうですが、資本主義経済を超えた「社会的生産」の下でも、固定資本の償却や更新の特殊性について、いろいろ示唆に富んだ指摘があった。「経済原則」と「経済法則」の緊張関係に触れ、マルクスが「社会的生産」についても、特別に配慮していたことが分かります。にもかかわらず旧ソ連や東欧など、固定資本の償却を無視した工場公害による環境破壊が、眼を覆うばかりの惨状を呈していた。またチェルノブイリの原発事故を引き起こし、自壊に近い形でソ連型社会主義体制が崩壊したのはなぜか?ここで考えてみる必要があるでしょう。
 まず考えられる点は、確かに『資本論』第2巻では、資本の循環・回転を論じ、固定資本について、その償却や更新の特殊性を詳細に論じていました。ポスト資本主義の「社会的生産」の下での特別の配慮も指摘していました。しかし、それは第2巻の話で、マルクスはそれを原稿のままエンゲルスに預けて、第1巻の刊行を急いだ。すでにみたように、第2巻の「補足」が必要であることを示唆しながら、しかしマルクスは第1巻の第7篇では資本蓄積・再生産過程を論じたのです。とくに固定資本の循環・回転による資本蓄積・再生産過程の制約については、第2巻の「補足」が不可欠だったが、それが欠落したまま第1巻は執筆され刊行されたのです。そのために固定資本の回転の特殊性を無視し、不断の「生産性向上」や生産力主義のドグマによって、資本蓄積に伴う「貧困の蓄積」だけが誇大に主張され、悪名高い「窮乏化革命論」のイデオロギーが前面に出てしまったのです。
 そこで次に第1巻第7篇の資本蓄積・再生産過程論を先取りしますが、そこでは資本の有機的構成を提起し①構成不変の蓄積と②構成高度化の蓄積の2つの様式を挙げ、①と②の循環的交代の資本蓄積を論じて、後述しますが景気循環の必然性にも触れていた。周期的恐慌の必然性もまた、そこから提起されるのですが、マルクスの説明は必ずしも明確ではない。その最大の理由は、他でもない固定資本の循環・回転が欠落しているため、①の蓄積・再生産の必然性が十分説かれずに、②の構成高度化の蓄積が不断に進み、相対的過剰人口も不断に増加させる。つまり、固定資本の償却や更新についての制約が無視され、欠落したまま技術革新や設備更新がすすめられる。ここで不断の相対的過剰人口が累積されて失業が増大すれば、資本蓄積は「貧困の蓄積」であり、窮乏化の進行と革命です。
 もう一つ、『資本論』第1巻7篇は、資本蓄積・再生産過程を論じながら、全体的に「所有法則」を基礎に、初期マルクス・エンゲルス以来の「所有法則の転変」で「最後の鐘」を鳴らそうとした。その結果が上記「窮乏化革命論」のイデオロギー的主張でしょうが、こうしたイデオロギー的主張が、『資本論』第2巻による理論的「補足」、とくに固定資本の循環・回転に伴う経済原則と経済法則の緊張に伴う歯止めを無視してしまう。第1巻の刊行を急いだマルクスの心情は分かりますが、純粋資本主義の抽象による『資本論』の科学の意義を十分踏まえておく必要があるでしょう。そのため「経済原則」と「経済法則」の関連、とくに固定資本の回転と技術革新についても、ここで指摘して置くべき重要な論点だと思います。
 

[PR]
by morristokenji | 2017-12-31 16:09
 『資本論』第2巻の「資本の流通過程」にとり一番重要なことは、「貨幣の資本への転化」に立ち戻って、マルクスが「資本の一般的形式」としてG-W-G'、つまり商品、貨幣とともに、流通形態として「資本」を定義したことです。流通形態だから産業資本もG-W--P--W'-G'の流通形態とすることになったし、資本の流通過程の分析もまた、G'-W--P--W'-G'の姿態変換(メタモルフォーゼ)から回転に入ることになったのです。W'の実現、生産された剰余価値の実現など、上述の「実現問題」も、資本の姿態変換の一環に組み込まれて処理されることになるのです。とくに商品資本の循環=姿態変換形式W'-G'-W--P--W'により、W'のG'への実現は、資本家の所得の支出、貨幣の流通速度のアップなど、十分に可能であり、循環が進むことができます。
 資本の流通過程にとっての中心課題は、流通形態としての運動にとっての時間的経過、つまり「期間」であり、その期間に伴う資本の回転です。資本の価値増殖は、より多くの剰余価値を、「より早く」獲得することです。期間として資本の流通過程を捉えれば、流通期間と生産期間に大別されますが、そこでの資本の構成要素の機能と運動が、資本の回転を左右することになる。とくに、労働力商品に投資され、労働者へ賃金として支給される可変資本の循環は、資本の生産過程での労働による剰余価値の生産とは別の意味で、ここでも「労働力商品の特殊性」が資本の回転に特有な問題を提起し、可変資本の回転として論じられることになります。

 労働力商品の特殊性は、資本の生産過程では、必要労働により労働力商品の価値を形成し、それを労働者は賃金により生活資料として買い戻す。さらに労働者は、剰余労働により剰余価値を生産し、資本の価値増殖の手段に利用される。労働力の使用価値である人間労働は、必要労働だけでなく剰余労働を含み、マルクスも言及していますが、B・フランクリンの「道具を作る動物」として人間社会を支えます。その人間労働を、資本は価値増殖の手段として利用するのです。①長時間労働などの労働強化による絶対的剰余価値生産、②必要労働の賃金を実質的に切り下げるための技術革新と生産性向上による相対的剰余価値生産の2つの方法です。この生産過程の剰余価値生産をより早く回転させる、それが資本の流通過程の課題です。
 資本の流通過程は、G-W-G'の一般的形式を前提にして、貨幣資本の循環、生産資本の循環、商品資本の循環の姿態変換(メタモルホーゼ)を繰り返しますが、労働者が労働力を資本に販売して生活資料を買い戻すA-G-W'の過程は、資本の循環形式ではない。言うまでもなく形式はW-G-Wの単純流通です。労働の生産物ではない、資本の生産物でもない労働力商品Aは、土地自然エネルギーと共に、商品流通に参加していますが、そして資本の流通過程に組み込まれますが、しかし資本の流通形式ではない単純流通の形式としての参加です。ここに労働力商品の特殊性が発現します。

 『資本論』では、「可変資本の回転」ついては、もっぱら「剰余価値率の年率」について説明しています。5週間で回転する資本と、回転に1年間かかる資本の2つを挙げ、剰余価値率100%は同じでも、その年率は前者が1000%、後者が100%に過ぎない両者の相違が生ずる。資本の回転の効率からいえば、前者の効率が良いわけで、資本はとりわけ可変資本について、その年率を考慮し回転期間の短い投資を選択しようとする。また、回転期間を短くするよう努力することにもなる。さらに個別資本の立場からの回転から、その社会的な関連について考えると、上記の労働力商品の特殊性が、可変資本の回転に大きな影響を与えることが判ります。
 労働者の立場からみれば、上記の通りA-G-Wは資本の流通過程から独立した単純流通です。それも、資本による生産と個人的消費をつなぐ役割を担っている。すなわち、労働者が労働力を売るA-Gは、資本からはG-W(A)--P--であり、労働者は生産過程--P--に従事する。剰余価値とともに価値を形成し生産する。同時に、労働力の価値部分を、労働者はG-Wで消費財Wを購入し買い戻す。そして、家計の消費活動に入り、労働力の再生産を図る。この家計の消費活動は、言うまでもなく毎日行われなければならず、消費財も毎日の労働者の消費に充当されるように配分されなければならない。だから、上記の一年間も回転期間がかかり、剰余価値年率の低い投資は、生産が毎日行われ剰余価値も生産され、賃金も支払わなければならないのに、貨幣資本としては回収できない。賃金支払いだけは続けざるをえないから、賃金ファンドは5週間の資本と比べるなら、10倍以上も必要になってしまう。

 さらにG-W(A)として投資された可変資本は、労働力が人間の労働能力であるから、G-W(Pm)の原材料の不変資本のように、必要なくなったら商品として他の資本に転売することもできない。そこが労働力商品の賃労働と、モノ同然の奴隷との差異になる。また、賃金は日給にせよ、週給にせよ、月給にせよ、消費生活に合わせて支払はねばならないし、それも原材料と異なり、手形ではなく現金で規則的に支給されねばならない。こうして労働者の人権として必要労働の買戻しを保障するとともに、生産の継続と結びついた賃金支払いによる消費生活の維持が経済原則の面からも要請されることになる。
 『資本論』でも、次のように述べているので引用します。「社会が資本主義的ではなく共産主義的なもの」でも、「鉄道建設のように、一年またはそれ以上の比較的長期間にわたって生産手段も生活手段も、また何らの効用も供給しないが、しかし年々の総生産から労働、生産手段、および生活手段を引き上げる事業部門に、社会が、どれだけの労働、生産手段、および生活手段を、何らの損害もなく振り向けうるかを、社会はあらかじめ計算せねばならない。」ここでマルクスは、労働だけでなく生産手段も挙げていますが、根本は労働力商品の特殊性から、賃金ファンドや生活手段の消費財、そして消費生活の維持と保障を指摘していると見ていいでしょう。このように可変資本の回転と「共産主義的な」経済原則との関係で労働力商品の特殊性が重視されなければならないのです。

 このように労働力商品の特殊性は、資本の流通過程に於いても、資本は必要労働
を労働力の価値として、労働者に規則的に引き渡し、それで労働者は労働力の再生産を図る。にもかかわらず生産期間や流通期間が長期にわたれば、労働者に労働力の価値を引き渡してしまうために、賃金支払いのファンドが嵩んでくる。剰余価値年率が悪化して、資本の投資効率が低下する。労働力商品化の矛盾が、経済原則と経済法則の接点として、両者の緊張関係が現出するわけです。こうした矛盾をはらみながら、「生産と消費」のいわゆる経済循環が実現されるのです。短期の価値増殖を目指す資本にとり、鉄道投資や林業など、生産期間や流通期間の長期化せざるを得ない投資が敬遠される矛盾を孕んでいます。労働力商品化の矛盾は、資本の直接的生産過程の剰余価値生産にとどまらず、資本の流通過程にも生ずるわけで、それがさらに後述のごとく資本の再生産過程=蓄積過程での資本主義的人口法則として具体化することになるのです。

 「論点」 労働力の再生産と「経済原則」の関連
 資本の流通過程では、単に資本価値の変態=姿態変換による価値増殖の運動だけでなく、その内部に可変資本の循環として、労働力の再生産が提起されました。労働市場においては、労働力の価格としての賃金が、資本の剰余価値率を左右しますが、労働者にとっては、賃金を通して労働力の再生産をはかる、そのために必要労働の生活資料としての買戻しが必要だったわけです。そして、労働力の再生産のための時間と空間が、消費生活の場になります。労働者は、賃金で買い戻す必要労働による生活資料を、消費生活を通して消費し、自己の労働力を再生産するわけです。そして、再生産される労働力により、資本の直接的生産過程では、繰り返し労働を続けることが出来ます。資本の生産=再生産は、労働力の再生産と表裏の関係になるわけです。
 さらに上記の通り、労働力の再生産は、一方で資本の直接的生産過程で労働し生産に従事する。他方では、必要労働を生活資料として資本から買い戻し、それを消費生活の場で消費する。つまり、可変資本の回転を媒介して、労働者による労働力の再生産は、生産と消費を繋いでいるのです。この生産と消費の社会的結合と循環こそ、一般に「経済循環」と呼ばれていますが、労働力の再生産として経済循環が実現されるわけです。そして経済循環は、どんな社会でも社会生活が成り立つための「経済原則」ですから、ここで労働力の再生産として経済原則が明らかにされるわけです。資本の直接的生産過程では、必要労働と剰余労働に基づいて、剰余価値が生産され、労働者は必要労働を買い戻して、人権が保障される。さらに、資本の流通過程では、可変資本の回転を通して生産と消費が循環し、消費生活により労働力の再生産がはかられるのです。このように可変資本の回転として、資本の流通過程で経済原則が法則的に解明されます。
 ここで労働力の再生産の場としての消費ですが、言うまでもなく経済循環としては、生産の主体である「企業」enterpriseに対する「家計」(household )です。家計は、単数でも複数でもいいのでしょうが、「経済法則」としては必要労働により、労働力の再生産が行われる場に他ならない。労働力が、人間として再生産され、商品として労働市場に登場することが必要です。その限りでは、労働者も経済人(ホモ・エコノミクス)として行動するわけだし、労働力商品の所有者です。しかし、消費主体として経済原則の担い手とすれば、労働力の再生産は子供を産み育てる世代間再生産を含むことだし、消費の場は家族(family)や家庭(home)を意味する。労働力の再生産は、本人が生きて働くためだけではない。夫婦で育児・保育・教育を行い、次世代の労働力も再生産しなければならない。
 また、家族はコミュニティの基礎的単位ともいわれ、地域とも結びついている。商品経済の拡大発展は、上記の経済人を拡大し、家族やコミュニティの結びつきを断ち切る傾向が強いものの、家族は地域との結びつきでコミニュニティを形成しているし、その点では労働力の再生産は、家族の消費生活を通して、地域の場で実現せざるを得ない。労働力の再生産としての消費は、時間的・空間的な場としては、地域コミュニティ=共同体で行われるのであり、ここに経済原則による経済法則への緊張関係が進むことになる。こうして労働力商品の特殊性は、資本の流通過程においては、可変資本の回転として進みますが、経済原則として生産と消費の経済循環、そして地域共同体としての経済循環、いわゆる「地産地消」などによっても、規制されざるを得ないことになるのです。
 こうした家族、地域共同体と企業との関係は、ドイツの社会学者テンニースの集団論として、周知のとおり企業などの利益集団「ゲゼルシャフト」、家族や地域共同体など共益集団「ゲマインシャフト」の二つに概念化されてきました。上記の通り近代化の進展とともに、家族や地域共同体の結びつきが弱まり、ゲゼルシャフト的なエコノミックアニマルの経済人の拡大をもたらしています。しかし、東日本大震災など巨大な自然災害の発生、また巨大企業のガバナンス喪失や海外進出による地域の空洞化など、企業社会の地域社会に対する支配の限界も目立ち始めています。それだけに労働力商品の特殊性に基づく、労働力再生産としての過程や家族、そして生産と消費の地域循環としての共同体、コミュニティの新たな再評価が必要でしょう。そうした点から、初期マルクス・エンゲルス以来の所有論レベルの「コミュニズム」から、共同体社会への発展としての「コミュニタリアニズム」=共同体社会主義への視点が重要になっていますが、さらにその点は後論で詳述しましょう。


[PR]
by morristokenji | 2017-10-28 20:31
 『資本論』第1巻のタイトルが「資本の生産過程」、第2巻が「資本の流通過程」になっている。このタイトルからは、第1巻が「資本の直接的生産過程」であり、資本の生産過程の結果であるG-W---P---W'のW'の実現として、資本の流通過程が位置付けられるようにも見えます。事実、そのような巻別構成の整理もあるし、マルクスも「直接生産過程の諸結果」など、そうした解釈や整理を予想させる時期もあった。少なくとも『資本論』以前の『経済学批判』段階までは、そうした考え方が強かったように思われます。しかし、『資本論』を執筆する段階では、その巻別構成は大きく変化しているし、それが『資本論』の理解にとり、極めて重要なように思われます。
 まず手がかりになるのが、『資本論』第3巻の冒頭にある以下の指摘です。「費用価格と利潤」のタイトルに直ぐ続いて、「第一巻では、それ自体として見られた資本主義的生産過程、すなわち、外的事情の副次的影響は、すべて度外視されて、直接的生産過程としての資本主義的生産過程が提示する諸現象を、研究した。しかし、この直接的生産過程は、資本の生涯の全部ではない。それは現実の世界では、流通過程によって補足されるのである。この流通過程が第二巻の研究の対象をなした。そこでは、とくに第三篇で、社会的再生産過程の媒介としての流通過程の考察に際して、資本主義的生産過程は、全体としてこれを見れば、生産過程と流通過程との統一であることが示された。この第三巻のかかわるところは、この統一について、一般的反省を試みることではありえない。肝要なのは、むしろ、全体として見られた資本の運動過程から生ずる、具体的な諸形態を発見し、説明することである。」として、第3巻は「諸資本」の競争や信用などの具体的諸態様を解明する方向を示しています。

 『資本論』第3巻の篇別は、第1巻と比べてはもちろんのこと、第2巻と比較しても、全体的にエンゲルスがマルクスの原稿を単に整理編成しただけで、体系的にまとめられてはいない。しかも、原稿の執筆の時期が、それぞれ不明な点も多く、前後の連絡がつけにくい部分が沢山ある。上記の冒頭の部分も、「費用価格と利潤」のタイトルの後に、恐らくエンゲルスが原稿の何処からか移動して来たように見えますが、全三巻の巻別編成について重要な指摘がなされている。とくに第3巻については、第1巻と第2巻の統一ではない点が強調され、さらに『経済学批判体系プラン』の「資本一般」の枠組みを否定して、「競争」「信用」「株式資本」(資産)などの具体的諸形態を説く方法論を明確に提示している。その上で「費用価格と利潤」として「諸資本」の競争の具体的形態の説明に入るのです。それとともに、第1巻をここでも「直接的生産過程」としていますが、それは「資本の生産過程」の内部での「直接的生産過程」だとして、第2巻の位置づけが問題でしょう。
 ここで第2巻は、第1巻の全体を受ける形ではなく、第1巻の「資本の生産過程」内部の「直接的生産過程」の「補足」として位置付けられている。「補足」だから「直接的生産過程」を補足して「再生産過程」の媒介をする。「補足」媒介の結果として、第2巻、第3篇「社会的再生産過程」の位置づけとなっている。だとすれば、全体的に①資本の生産過程としての「直接的生産過程」、②それを補足・媒介する第2巻「資本の流通過程」、そして③資本の再生産過程=「資本の蓄積過程」、その最後に第3篇「社会的再生産過程」がくる、こんな編別構成となる。そして、さらに上記の「競争」「信用」「株式資本」(資産)の第3巻の地平が拓かれる。このような「巻別構成」、そして「篇別構成」のスケルトンが浮かび上がるように思われます。

 以上『資本論』第3巻の冒頭の整理からすれば、第2巻の「資本の流通過程」を「資本の直接的生産過程」の結果である上記のW'の実現過程に矮小化することは出来ないでしょう。W'の「実現論」は、生産と消費が流通により切り離されていること、そして生産財と消費財をはじめ産業部門間の不均衡が大きいこと、そこからマルサスやシスモンディの過剰生産論や過少消費説が主張されていた。とくに金融恐慌や景気後退期には、今日の日本資本主義でもそうですが「有効需要」の不足が叫ばれ、とくにマイナス金利など金融の「異次元緩和」も主張され、しかも長期化している。しかし、恐慌や不況は単なるW'の実現問題ではない。実現問題は、流通市場の現象面で提起されるけれども、資本主義経済は「法則がただ無規則性の盲目的に作用する平均法則としてのみ貫かれうるような生産様式」によつて解決される法則的秩序を持っている。市場経済は「無政府性」だけれども、それは「無法則」ではないのです。実現問題は、実現問題なりに法則の実現です。
 すでに貨幣論で明らかなように、W'の実現のためには、貨幣の裏付けを持った「有効需要」が必要です。貨幣の諸機能が重層的に有効需要を形成しますが、「貨幣の資本への転化」論で明らかにしたように、貨幣を前提とする流通形態としての資本は、その「一般的形式G-W-G'」で明らかなように、市場においてG-Wで「需要」し、W-G'で「供給」する運動体である。自らの運動の内部で需要と供給を統合し、とくに労働力商品を前提に雇用労働で生産過程を支配して供給をコントロールすれば、生産過程を基礎とした再生産過程で、需要と供給の統合が可能である。それを前提にして既に述べたように「一物一価の法則」が流通形態で貫徹されるとともに、労働力商品は必要労働により価値規定されて、労働価値説が論証をみるわけです。いずれにしても市場のW'の実現問題は、「貨幣の資本への転化」に基づく産業資本の運動形式により、法則的に解決されるのです。

 そこで第2巻「資本の流通過程」による第1巻「資本の生産過程」、とりわけ「直接的生産過程」の補足の位置づけですが、資本の流通過程が、資本の再生産過程=蓄積過程の前に置かれ、その上で資本の生産過程と流通過程の統合として、資本の再生産過程=蓄積過程が説かれる、そんな編別構成となるでしょう。流通形態としての資本の運動は、直接的生産過程とともに流通過程を内部に組み込み、W'の実現ではなく資本の「姿態変換」としての「循環と回転」、そして「流動資本」と「固定資本」の運動により、資本の再生産過程=蓄積過程の展開につながる。こうした「資本の流通過程」の「補足」・媒介により、資本の再生産=蓄積過程の運動がダイナミックに把握され、そして「資本主義的人口法則」として展開されることになります。とくに資本の蓄積論が、『資本論』では不十分だった周期的恐慌を含む産業循環の基礎として解明される道も拓かれます。
 資本の「直接的生産過程」は、すでに明らかなように剰余価値論として展開されますが、それは絶対的剰余価値の生産、さらに相対的剰余価値の生産が説かれる。資本・賃労働の階級関係が解明されますが、その結果もW'の実現問題ではない。資本による労働力の支配であり、その形態が『資本論』では、第1巻、第6篇「労働賃金」とされているのです。資本は、労働力を商品として購入しながら、剰余価値生産の支配を通して、労働に対して賃金を支払う形式を完成する。いわば生産過程を流通形態で覆い隠す形態でしょうが、そうした流通形態の支配が前提になり、第2巻「資本の流通過程」による補足・媒介を通して、資本の再生産過程=蓄積過程が展開されるのです。また「労働力の価値」の第6篇「労働賃金」への転化の説明で、スミスなど原初的購買貨幣の流通主義の批判も完成をみるのです。

 「論点」 資本の「直接的生産過程」と実現論
 資本の流通過程論を、資本の「直接的生産過程」における剰余価値の生産に対して、剰余価値の「実現論」とする解釈が今でも有力です。剰余価値を実現するための貨幣がどこから来るか、生産された剰余価値の実現を中心に過剰生産恐慌などが説かれます。こうした実現論の背景には、『資本論』全3巻の巻別構成、篇別構成の整理の違いも大きいとみられるので、ここで振り返っておきましょう。この論点でも、冒頭「商品論」の労働価値説の論証が、大きく影響していると思われます。
 既に述べて通り、A・スミスをはじめ古典派労働価値説では、商品経済的な富を労働生産物に還元した。そして、生産過程の労働を「原初的購買貨幣」として、生産過程を流通過程とする流通主義に陥っていた。しかも、分業労働を人間の「交換性向」と結びつけて、それを人間の本能として説明し、超歴史的な流通主義として主張されていたのです。マルクスは、初期マルクスの時代から分業労働を含めて、労働疎外論の立場だった点では、超歴史的な流通主義の誤りは免れていたものの、『資本論』冒頭の商品は労働生産物に還元され、労働価値説を積極的に継承した。そのため古典派価値論批判としての「価値形態論」の見地は混濁し、「絶えざる不均衡の中での無規律性の盲目的に作用する平均法則」として、具体的には「一物一価の法則」としての価値法則の作用を明らかにできなかった。
 「一物一価の法則」は、「価値形態」論を前提に、「貨幣の資本への転化」論、さらに労働生産物とは言えない「労働力の商品化」論により、産業資本の運動として解明される。労働価値説は、単なる等価交換ではなく、労働力商品による労働者の必要労働の買戻しの過程として論証される。産業資本による「価値の形成」、かつ価値増殖の過程は、同時に市場に対する需給の調節による「一物一価の法則」として、「価値の実現」を含んで論証される。価値形成は価値実現として法則的に解明をみるのです。ところが『資本論』では、冒頭「商品」論の労働価値説が同義反復的に主張され、価値形成がドグマ化される。「価値形態」論や「貨幣の資本への転化」論も、ドグマ化された労働価値説に制約されて、市場の需給の調節を通して貫徹される価値法則の解明はできない。労働価値説は「直接的生産過程」に封じ込められたまま、「価値の形成」と「価値の実現」は切断され、そのため「価値の実現」はW'の実現として、「資本の流通過程論」の『資本論』第2巻に追いやられたように思われます。その追いやられた結果が「実現論」であり、「資本の流通過程」論を剰余価値の実現とする方法的見地を産んだものと思われます。
 とくに「実現論」は、上記のとおり恐慌論との関連で、いわゆる商品過剰説として主張され、今日でも有力な見解です。周期的恐慌の原因を、商品の過剰生産に求め、その実現困難として恐慌を説明する「実現論」的恐慌論です。後述するように恐慌論には、この商品過剰説と資本過剰説との対立があり、資本過剰説では商品の過剰を利潤率の低下と利子率の上昇の結果と見る。それに対して商品過剰説は、資本過剰を商品過剰の結果と見る。したがって、景気対策としても、商品過剰を解消するための金融や財政による有効需要の拡大、とくに最近では金融の「異次元緩和」で、ゼロ金利、さらにはマイナス金利を続けることにもなっている。しかし、こうした「実現論」的アプローチでは、恐慌論として周期的恐慌の説明が不十分なだけでなく、政策的にも「出口なき」異次元緩和を続けざるを得なくなっています。そのために既述のように政策的にも「働き方改革」など、資本過剰の前提になっている「生産性革命」や「人づくり革命」といった国家資本主義ともいえる過激な政策に走っている。しかし、思うような資本過剰の解決ができないまま、長期の停滞・低成長を続けざるを得ないのです。

[PR]
by morristokenji | 2017-10-03 20:53
 労働力の商品化を前提にして、同時に土地自然・エネルギーの商品化とともに、「資本の一般的形式」が、産業資本の形式に発展します。『資本論』が明らかにしている通り、そこでは資本が購入し雇用する労働者の労働力の使用価値が、生産過程の労働である。そして資本は購入した労働力を、その使用価値の限度まで使用する。できるだけ長時間にわたり働かせ、生産に従事させる。資本の価値増殖からいって、それは資本に与えられた当然の権利であり、長時間労働は不可避だし、過労死の可能性も十分ある。それが資本の価値増殖であり、資本の剰余価値生産の法則性です。
 この資本の価値増殖は、資本の運動形式の前提にあった貨幣の機能、とくに「蓄蔵貨幣」としての貯蓄手段にあります。貨幣は価値形態により一般的等価物の地位にある。貨幣さえあれば何でも買える、人間の良心も買える、それが一般的等価物であり、商品経済的富を代表します。そこで貨幣は、個々の商品の使用価値の「限界効用」を超えて、何処でも、何時でも、何でも買える「無限界効用」の機能を与えられる。だから貨幣の貯蓄手段による蓄蔵は無限だし、「金持ちの吝嗇」が生まれる。こうした蓄蔵貨幣による無限界効用が前提される以上、G-W-G'の資本による価値増殖も無限に追求されることになる。
 このように資本の無限の価値増殖からすれば、資本が雇用した労働力の使用は、できる限り長時間になるのは当然でしょう。長時間労働は、貨幣の無限界効用に裏付けられているのです。しかし、長時間労働は無制限に延長するわけにはいかない。労働者の労働は、人権を無視して取引され、「人身売買」される奴隷労働ではないからです。奴隷は家畜同様に人権を無視され、死ぬほど働かせることも可能だし、それが奴隷経済の特徴だった。その点で、奴隷経済そのものは人間社会として存立する「経済原則」の根拠をもたないし、市場経済に付随する部分的な経済制度(ウクラード)に過ぎない。『経済学批判』序文の唯物史観のように、古代の奴隷社会を、一つの階級社会として、歴史の発展段階に積極的に位置付けることはできないと思います。
 もう一つ、産業資本に雇用される労働力は、資本の管理のもとで価値増殖の手段に利用されて労働するが、その労働は必要労働と剰余労働に分かれる。もともと人間は、B・フランクリンの言う通りa toolmaking animal(道具をつくる動物)であり、一日働いて一日生活する「必要労働」だけでなく、それ以上の「剰余労働」が可能である。剰余労働で道具をつくり、道具を機械に発展させ、また老人や病人の介護もする。したがって、労働者は資本のもとで労働し、労働生産物は資本の所有に帰するが、必要労働の部分は労働者が賃金を通して買い戻さねばならない(A-G-W)。ここでも労働者の人権を保障し、「経済原則」を充足しなければならないのです。こうした労働者の人権の確保という点で、産業資本は剰余価値による価値増殖をはかりつつ、価値法則とともに「経済原則」を充足して一つの社会として成立する。これが『資本論』の純粋資本主義を抽象した社会である。

 このように産業資本は、一方で「経済原則」を充足しながら、他方「経済法則」としては価値法則に基づき無限の価値増殖を図る。労働時間の延長を中心とした「絶対的剰余価値の生産」であり、労働生産性の向上によって必要労働を短縮する「相対的剰余価値の生産」です。経済原則を前提にしつつも、「経済法則」に基づく長時間労働や労働の強度による労働強化は、絶えず「経済原則」と剰余価値生産の緊張を強め高める。労働生産性の向上もまた、「機械制大工業」に基づく協業や分業の拡大であり、工場制度のもとで機械体系が「組織者」として労働者が支配される。労働者は機械の単なる付属物に過ぎなくなり、チャップリンの『モダン・タイムス』であって、「人間疎外」が確実に進む。ここでも「経済原則」の労働生産性向上と「経済法則」の価値増殖の緊張は高まります。『資本論』には、ロンドンの大英博物館の「図書室」が提供した膨大な資料が、法則の実証に役立っていることが判ります。
 このように産業資本による資本の生産過程では、剰余価値生産による「経済法則」の解明の中で「経済原則」が明らかにされます。A・スミスは、労働生産物を商品経済的富として、「本源的購買貨幣」である労働により、生産過程を自然から生産物を購入する流通過程とした。「生産過程の流通過程化」であり、流通主義による資本主義経済の絶対視だったのです。マルクスは、スミスの労働価値説を継承しながら、「価値形態」を明らかにして、労働生産物ではない労働力の商品化の解明に成功した。価値関係による労働力の商品化の解明ですが、それにより流通過程と生産過程を区別し、スミスの流通主義の誤りから脱却できたのです。人間が自然に働きかける労働は、貨幣で商品を購入するのではない。「経済原則」にもとづく人間の自然に対する超歴史的行為であり、そこに「人権の保障」の基礎があり、人間解放の原点があることをマルクスは提示したのです。「経済原則」を組織的に、主体的に実現する、それにより資本主義を超える新しい社会の地平が拓かれたと言えます。

 経済関係は、言うまでもなく人間が自然に働きかける生産過程、および生産した生産物を消費する消費過程から成り立ちます。いわゆる経済循環です。その生産と消費の関係に基づく経済循環により、生産過程も繰り返され再生産が可能となる。その点で労働力の再生産としての消費過程も、生産過程とともに「経済原則」を構成する。消費過程は、言うまでもなく経済主体としては「家計」(household)と呼ばれ、家庭(home)や家族(family)とともに消費生活が営まれる。その点では、消費過程は経済原則そのものであり、経済法則の支配は家計の面から所得・収入で制約されるだけである。しかし、ここでも個々人の労賃など、所得・収入から消費支出されるのであり、消費市場の経済法則からの影響を免れない。労働力の商品化により、生産と消費が切り離され、家庭や家族と言った共同体的な人間関係が切り崩されて、家族・家庭の崩壊も進む。Atomicなエコノミックアニマル(経済人)が支配する世界です。ここでも経済原則と経済法則の緊張関係が強まり、労働力の再生産が歪められる点を無視できないでしょう。
 消費過程を労働力の再生産とした時、それは教育・研究機関を中心に生産過程の技術水準の発展など、生産性の向上に資する必要がある。経済原則としての生産性の発展による「経済成長力」の上昇を進め、それがまた資本の価値増殖、上記の相対的剰余価値の生産に結び付く。資本による技術の向上、生産性の上昇、経済成長力の確保も、経済原則に基づく経済法則による社会的再生産の発展です。そうした発展を無視して、資本主義の成長が労働者の貧困の蓄積だけだ、と見ることはできない。その点で、いわゆる「窮乏化法則」のドグマに陥ってはならない。必要労働による労働力の再生産も、消費生活による消費財など歴史的、文化的、教育的水準の高度化を前提にする。そこに経済原則を踏まえた資本主義の歴史的発展による「人口法則」の特徴が認められるのです。少子高齢化や「生産性革命」、「働き方改革」など、資本主義に特有な「人口法則」に基づいて検討されなければなりませんが、人口法則については後述します。

「論点」いわゆる「働き方改革」の虚実
 上記の説明の通り、資本により購入された労働者の労働力ですが、その使用価値
は、資本の手に属します。資本は労働力だけではなく、原料など生産手段も、無駄には使わない。できる限り効率よく、無駄なく使用します。この効率的使用は、労働力については、できるだけ長時間、そして厳しい強度の労働時間になります。労働力を購入した資本の当然の権利として絶対的剰余価値生産が行われる、それが労働力の効率的使用だし、経済法則です。とくに雇用が拡大し、労働市場がタイトになれば、ますます長時間労働、厳しい労働強化を進める。ブラック企業、ブラックバイトなどと呼ばれますが、もともと経済法則がブラックだし、労働力不足なら一層ブラックにならざるを得ないのが、資本主義の経済法則です。しかし、経済原則の点では、上記の通り資本主義も人権を保障せざるを得ないから、そこに歯止めがかかる。
 その歯止めのかかり方も、上述の通り相対的剰余価値の生産への転換として、法則的に実現する。実際上は、個別の資本は相互に激しい競争をし、金融機関から信用を利用して投資を拡大しています。いわゆる「競争・信用」による媒介ですが、それを通して相対的剰余価値の生産としては、資本は単なる雇用拡大・能力拡大型の投資から、いわゆる合理化型投資に転換する。後に詳述しますが、投資の量から質への転換です。ここで技術革新による生産性の向上を利用し、いわゆる「生産性」革命が経済法則として実現されます。生産性向上により、相対的な過剰人口が創出され、「出産や育児」などを政策的に行政が強制するわけではなく、経済法則として「人づくり」革命が行われるのです。この点は、さらに資本主義の人口法則として後述しますが、絶対的剰余価値生産から相対的剰余価値生産への転換に他ならない。技術革新・生産性向上と労働力不足の解決が、ここで経済原則の法則的実現となるわけです。
 このように「生産性革命」とか「人づくり革命」とか言われている内容は、純粋資本主義の経済法則として実現される。そして、技術革新による生産性の向上、労働力人口の確保が進み、投資の拡大による資本蓄積と共に「経済成長」も実現する。経済法則を通して、人間生活の向上と経済成長の経済原則も実現されるのが、純粋資本主義の法則性でしょう。しかし、それはあくまでも純粋資本主義の経済法則の世界であり、抽象的な原理論の話です。資本主義の歴史的な発展や各国資本主義の実情は、経済原則と経済法則の緊張関係を強め、最近ますます資本主義経済の歴史的限界を露呈しています。
 先進資本主義の各国が、金融資本の時代を迎え、さらに第2次大戦の後、東西冷戦の時代には、原子力開発の競争が激化しました。熱戦のための原水爆実験、冷戦のいわゆる「平和利用」としての原子力発電、総じて自然・エネルギーが原子力時代を迎えました。国策として原子力利用が推進され、「オール電化」が進みました。しかし、ポスト冷戦を迎え、さらに東日本大震災など度重なる原発事故を経験し、自然エネルギーの「大転換」が始まっています。原子力産業に主導された技術開発、生産性向上、そして経済成長も大きな曲がり角を迎えたのです。先進資本主義各国の経済成長の低下が顕著になっています。とくに、米国に次ぐGNP大国だった日本経済のバブル崩壊後の「冬の時代」の長期停滞が目立ちます。「失われた10年」、そして20年と続いた国内の低成長・停滞を見捨てて対外投資に向かい、一方では対外発展による「グローバル化」が進み、他方では国内経済、特に地方経済の空洞化が深刻化している。
 そうした現実に対して、対内的には財政や金融の「異次元緩和」の政策により、マイナス金利を導入しても、それでも成長力の回復は見込めない。すでに日本資本主義は、経済法則として自立的にGNP成長を実現できなくなってしまった。文字通り経済原則との厳しい緊張が続いている。そこで国家としては、政策的に「生産性革命」とか「人づくり革命」とか、過激な革命的な言辞を弄するスローガンを掲げ、上からの権力的な政策を打ち出そうとしています。さらに「働き方改革」と称して、労使関係を超えて国家権力が労働力の使用価値を決めることまで介入しようとしている。単なる労働時間の規制を超えた権力介入、権力行使であり、そうなれば「国家資本主義」として、総動員体制を敷く以外に無くなってくるでしょう。国家資本主義として「経済原則」が実現されるような事態は、異常極まりない資本主義の危機ではないでしょうか?

[PR]
by morristokenji | 2017-09-07 20:38