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森のミュージアムの最新情報<研究ノート>を分離


by morristokenji

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 ソ連崩壊は、言うまでもなく絶対的権威を保持していた「マルクス・レーニン主義」の根本的再検討を迫っている。とくにレーニンがロシア革命の渦中に書いたと言われる『国家と革命』は、「マルクス・レーニン主義」の代表的著作として、「不羈の聖典」とも言える地位を与えられてきた。しかし、革命の渦中の作品として十分推敲されていない点もさることながら、とくに70年代以降の「晩期マルクス」のマルクス主義のコミュニタリアニズムへの接近などから考えると、一方でエンゲルスの「プロレタリア独裁」のテーゼへの偏執など、多くの再検討が必要なように思われる。すでに紹介したがマルクスは、「プロレタリア独裁」については、あからさまな否定はしないものの、ある程度距離を置いていたように見える。また晩期マルクスは、70年代のコミュニティ・共同体研究ブームとの関係で、自らも『マルクス「古代社会」ノート』づくりを進めていた。そうした研究を踏まえて、レーニンとは対立する立場にあったナロードニキでメンシェビキのザスリッチによる『資本論』の「所有法則の転変」への疑問に対しても、肯定的な返書を書いていた。それだけにレーニンとしては、エンゲルスのプロレタリア独裁を巡り、マルクス主義の整理が必要だったのではないか?とくにマルクスの見解を、エンゲルスと同様な「プロレタリア独裁」の主張に、改めて仕立て上げる必要があったように思われる。そのために『国家と革命』は、革命の渦中に書かれることになったのであろう。
by morristokenji | 2019-08-19 10:28
 すでに「異次元緩和」と言われた超低金利の政策的限界が現れ、それを補強し、代位するかのように財政面での「異次元緩和」論、言い換えると超赤字財政膨張論のMMT(現代貨幣理論)が登場してきた。とくに世界最大とも言えるの財政赤字国・日本のアベノミクスが先行モデルとして賞揚されている。また過日の参院選でも、ポピュリズム的な政治利用も話題になっている。金融論の専門でもないので、細かい論点には立ち入らないが、米ドルを基軸通貨(キーカレンシー)とする戦後体制が崩壊し、その再編成の行方が不透明な中で、MMTの提起された意味と限界について考えてみたい。
 すでに紹介されているが、MMTについては「政府が財政赤字を悪化させても、自国通貨建て借金ならば債務不履行には陥らない」というもので、だから赤字財政膨張についても、財政収支バランスなど無視して「異次元緩和」が可能であり、福祉でも、教育でも、安保・防衛でも、遠慮なく財政支出を拡大せよ!ポピュリズムでなくても、政治家にとっては「こんな有り難い」理論はない、と大歓迎だろう。特に消費税の税率アップで四苦八苦の向きには「天の恵み」かも知らない。アベノミクスについては、その行き詰まりが批判され続けているだけに、その提唱者から「MMTの債務に関する予測が正しいことの証明」とお墨付きをもらったら、表向きはともかく胸中はMMTこそ「救いの神」とほくそ笑んでいるのではないか?「MMTさまさま」だろう。
 戦後体制が、東西対立の冷戦構造だったことは、改めて指摘するまでもない。東のソ連を中心とする体制は、これまた言うまでもなく超中央集権的・指令型計画経済であり、ソ連の通貨ルーブルを基軸とした計画化であり、中央のモスクワ・クレムリンから地域末端の東ベルリン地区まで、指令型計画経済でコントロールされていた。そのためには西側の自由経済の市場経済から物理的に東側の経済を隔絶する必要があり、そのために築かれたのが1990年末に破壊された「ベルリンの壁」だったのだ。その壁の崩壊が、ソ連型計画経済の崩壊であり、とりもなおさずソ連体制の崩壊であり、東西冷戦の戦後体制の崩壊だった。ルーブルを基軸とする通貨体制が崩壊して、ドルをはじめとする西側通貨との自由な交換が行われるようになった。当時の個人的体験に過ぎないが、ウラル山脈の向こう側のヨーロッパは米ドル、こちら側の東のアジアは日本円が喜ばれた。
 そこで米ドルだが、戦後体制がスタートするに当たり、国際通貨体制をどうするか、色々議論があった。戦前に戻って金本位制への復帰も主張された。また、イギリスの代表ケインズなど、現在のSDRに似た共通通貨の主張もあったようだ。しかし、戦勝国の地位を独占したアメリカに世界の金の大半が集中していた。米ドルだけが、世界貨幣=金の裏付けを持ちうる通貨であり、結局1オンスの金=35ドルの金為替ドル本位制で戦後国際通貨体制はスタートすることになった。もちろん、ソ連を中心とする東の世界は、ワルシャワ条約機構と結びついた「コメコン体制」により自立した。超中央集権・指令型の計画経済の体制であり、ここから東西2つの世界の戦後体制がスタートしたのだ。戦後体制は、まさしく東西2つの通貨体制として形成されたのであり、西側世界は金為替本位制の米ドルが基軸通貨となるドル本位制の世界だったことを確認しておきたい。
 1オンスの金=35ドルの金為替ドルを中心に、西側各国の為替相場が形成された。当時の為替相場は変動相場制ではなく、米ドルにリンクされた固定為替相場であり、アメリカの立場が強く反映された相場形成となった。日本経済の場合、戦後占領下の管理貿易から、自由貿易に復帰するについても、1ドル=360円という超円安=ドル高の交換比率だった。その理由は、必ずしもはっきりしないが、この超円安=ドル高を利用し、対米輸出依存型の戦後経済の発展が進められた。朝鮮特需、ベトナム特需とともに、円安を利用しての日本経済の輸出主導型成長が、対ソ防波堤としての日本経済の自立を助け、西側自由陣営に組み込まれたのである。その点では、日米安保体制とともに、戦後通貨体制の果たした役割は大きかったと思う。その後の日本経済の高度成長も、輸出依存・民間投資主導型の成長パターンそのものが、戦後通貨体制に依存していた点こそ重要だろう。
 戦後冷戦体制の枠組みを守るという点で、「世界貨幣」金の裏付けを持ったドルは、「世界の警察官」として日米安保体制はじめ、西側の巨額な防衛費を米ドルが引き受けることになった。加えて、超円安=ドル高の固定為替相場制である。日本経済をはじめ、西ドイツ経済など、対米輸出を中軸に輸出を拡大し、さらにベトナム特需にも便乗して、敗戦からの復興・再建・成長を実現したのだ。ヨーロッパなどでは、輸出で貯め込んだドルを1オンスの金=35ドルで金との交換を進めた。世界の金の大半を独占していた「世界の警察官」のアメリカからの金流出が進み、アメリカはドル防衛に立たざるを得なくなった。それがドルと金との交換性の停止であり、「ドル・ショック」「ニクソン・ショック」と呼ばれた。ドルの大幅な切り下げとともに、金との交換性を一時停止したが、それでも危機は収まらず、「固定相場制」から「変動相場制」へ転換した。金為替本位制のドルから「管理通貨制」への移行であり、最初のドル危機だった。
 金の裏付けを失ったが、ここでアメリカは金の束縛から離れ、ある意味で自由なドルの発行で「世界の警察官」として振る舞うことができる。また、自由な市場原理による「変動相場制」でドル危機が解消するかに見えた。当時の日本の企画庁長官などは、「人類の英知」としてドルの管理通貨制への移行を歓迎したが、管理通貨制は「管理できない管理通貨制」に過ぎない。中東戦争による2度に及ぶ「石油ショック」が続き、狂乱型インフレで世界経済を翻弄した。そうした中で、福島第一原発事故につながった「原発国家」に東京電力も参加した。東西冷戦は核開発から原発開発へ、レーニン共産主義記念チェルノブイリ原子力発電所が、ソ連崩壊の伏線ともなった。自由な市場原理による世界経済は、「新自由主義」による国際金融の自由化を推進したが、ドル危機の解消にはつながらなかった。第二のドル危機がやって来た。1895年9月の「プラザ合意」である。
 レーガン政権下のアメリカでは、狂乱型インフレ抑制のためもあり、金融引き締め・高金利を実施した。これがドル高をもたらし、貿易収支と財政収支の「双子の赤字」を産み落とした。この第二のドル危機への対応として、G5・先進5カ国による「協調介入」、つまり集団的・組織的「為替操作」が行われたのが、「プラザ合意」に他ならない。ドル防衛のために、貿易黒字国・日本の円を先頭に大幅な切り下げか実施された。日本円の場合、1ドル=260円が一挙に150円まで急上昇、さらに切り上げが続けられたが、その結果が日本のバブル経済であり、その後の「失われた10年・20年」の超長期・慢性不況の低成長経済への急転換だった。念のため指摘するが、この超円高により超割安になった輸入農産物が激増、農村労働力の流出とともに、東北など日本農業の息の根は止められてしまったのだ。
 いまポスト冷戦とともに、第三のドル危機が到来しているのではないか?90年代初頭、まことに呆気なくソ連は崩壊し、ポスト冷戦がやって来た。西側の勝利であり、アメリカ一極の支配体制である。通貨体制でいえば、西側の基軸通貨ドルの一極支配の拡大であろう。こうしたアメリカ一極の専制支配を反映し、「グローバリズム」が登場し、グローバル資本主義、あるいは資本主義のグローバル段階論などが主張された。世界革命のトロツキズムの流れをくむとも言われる「ネオコン」の影響でイラク戦争が仕掛けられたが大失敗に終わった。オバマ大統領は、すでに「世界の警察官」からのリタイヤ―を宣言し、世界戦略を修正した。そもそも資本主義経済には世界市場があり、世界貨幣・金もある。しかし、国家論としては、「世界国家」もなければ、「世界資本主義」もまた妄想に過ぎない。ポスト冷戦により西側の基軸通貨ドルも、近代国民国家である米国の通貨であり、米・ドルに過ぎないのだ。
 その米・ドルが、ポスト冷戦で西側の基軸通貨にのし上がったとはいえ、「世界資本主義」の「世界国家」の信用の裏付けがあるわけではない。そのうえ第一のドル危機によって、すでに世界貨幣・金との交換性も失った米・ドルなのだ。その米・ドルが、ホルムズ海峡の防衛のために米兵を犠牲にして、「日本人がソニーで音楽を楽しむ」そんな安全保障のために支出される必要があるのか?西側だけでも手に余っていた安全保障のための防衛支出、それがポスト冷戦でグローバルな規模に拡大膨張している。戦後、日本をはじめ敗戦国の復興・再建・成長を支え、さらにグローバルな発展で中国・ベトナムなどパックス・アシアナの到来によっても、アメリカは膨大な貿易赤字を抱え込んでいる。財政赤字と貿易赤字の「双子の赤字」の再現である。第2のドル危機の際に一時的に成功した「協調介入」もまた、英・離脱のEUの動向からみても、G5そのものの足並みが揃わない。対ソ冷戦時のような西側の結束はない。冷戦の勝者アメリカが抱え込んでしまった苦悩は大きく、かつ深い。その表現こそ、トランプの「アメリカ第一」主義であり、放言・暴言が続く彼のツィツターではないのか?
 日に日に深刻化する米中対立も、以上のようなトランプ「アメリカ第一」主義から仕掛けられたもので、冷戦時の米ソ対立とは全く異質な対立である。長期の冷戦により拡大してしまった米・産軍複合体制、日米安保など冷戦に巣食った利権層からすれば、米中対立も米ソ冷戦と同じものにして利権を確保し続けたいだろう。しかし、ポスト冷戦により「資本主義市場経済」と「社会主義市場経済」の混合の「世界経済」構造に変わってしまつた。ポスト冷戦の「世界経済」論が必要になったようだが、その国際通貨体制として再び世界貨幣・金の役割が浮上する可能性が高まりを見せている点が気になる。戦後最初のニクソン・ショックの第一のドル危機により、基軸通貨ドルの世界貨幣・金との交換性が失われ、金為替本位制の固定為替相場制から管理通貨制の変動相場制に移行した。「人類の英知により」ドル本位の別世界が形成されるかに見えた。しかし、第一のドル危機は第二のドル危機へ、そして今やポスト冷戦の戦後体制崩壊の中で、「管理できない管理通貨制」の限界が露呈し、世界貨幣・金の復権が動き始めているのではないか?
 今後の動向を見なければならないが、8月7日付日経によれば解説委員が「金復権は通貨への警鐘か」として、「金先物は5日に1オンス1460ドルを超えて6年3か月ぶりの高値をつけ、表舞台に戻ってきた」と報じ、その背景を分析している。詳細な紹介は出来ないが、「世界の中銀と公的機関による金の購入量」が最近急増していること、「金保有の拡大で先頭を走るのはロシア。」トップの米国、ドイツ、イタリア、フランスに次いで世界5位、中国もロシアについで金を保有している。金保有のために米国債の保有額が減り、金準備が増え続ける。結論的に「半世紀を経た金の復権も、通貨制度の揺らぎを示唆している可能性は否定できない。」こうした金復権の動きが、米連邦準備理事会(FRB)の利下げ、ドル安、それに対して中国・元の下落の連鎖反応の中で表面化している。米中の経済対立は、もはや貿易戦争から安保などの覇権争いのレベルにとどまらない。為替切り下げ競争から、世界貨幣・金の復権へとエスカレートしようとしている。ポスト冷戦は、「アメリカ第一」主義とともに、基軸通貨・ドルに変わる世界通貨体制の激変に向かっている。
 今や戦後体制の崩壊は決定的であり、世界通貨体制も激変の時期を迎えた。それだけに財政膨張の異次元緩和ともいえるMMTの提起を慎重に受け止めざるを得ないと思う。初めに紹介したように、財政赤字の悪化も「自国通貨建て借金ならば債務不履行には陥らない」、だから財政も「異次元緩和」して大胆のバラ撒いても心配無用というのであろう。しかし、戦後通貨体制の変遷をたどり、とくに基軸通貨としての米・ドルの地位を見てきたが、すでに明らかだが米ドルも第一、第二、そして第三の「ドル危機」を重ね、今や世界貨幣・金の復権の可能性が急速に高まりを見せている。マルクスではないが「金は生まれながらにして貨幣ではないが、貨幣は生まれながらにして金である」、この金言がまだ生きているのだ。「半世紀を経た金の復権」を、現代の新たな貨幣理論としてMMTは、どう考えているのか?第3のドル危機を前にして、貨幣論の根本前提が問われているのではないか?
 その上で、財政膨張は国家の財政活動だが、すでにみた通りポスト冷戦による「グローバリズム」、グローバル資本主義の台頭によって、世界市場は拡大し、ドルもグローバルな規模で基軸通貨の地位に立たされた。しかし、資本主義には世界資本主義もなければ、世界国家もない。いずれも虚構に過ぎない。存在する近代国家は、言うまでもなく「国民国家」であり、アメリカも最終的にはNation Stateであり、ドルもまたUS$である。トランプ大統領が、ヒステリックなまでに「アメリカ第一」主義を主張しているのも、近代国民国家としてのアメリカの利益を主張するからだろう。その点でMMTの主張する「自国通貨建て借金」とは、どのような国家を前提にしているのか?国家論の裏付けのない財源論では、無責任な空理・空論に終わる可能性がある。グローバリズムに対して、トランプの「アメリカ第一」主義の登場があるだけに、MMTにとって、国家論の具体的提起が不可欠だと思う。
 なお、いまや米中対立は、すでに述べた通り単なる貿易戦争から、為替切り下げ戦争にエスカレートしている。その行方は不透明だが、「半世紀を経た金の復権」も、米中為替戦争と無関係ではないと思う。言うまでもなく為替切り下げ戦争こそ、過去の経験からすれば、最終的には主要各国の通貨ブロックにエスカレートし、そのブロック経済の内部では、MMTが想定する「自国通貨建て借金ならば債務不履行には陥らない。」しかし、こうしたブロック経済の現実は、戦時経済への道であり、第2次大戦の「大東亜共栄圏」の悪夢だった。MMTが戦争経済の布石に利用されることはないと思うが、しかし戦後体制の崩壊に伴う通貨体制の危機、さらに国家論の裏付けが不透明なだけに、危惧の念を抱かざるを得ない点を付け加えたいと思う。

by morristokenji | 2019-08-12 09:17
 宇野三段階論として、とくに問題にしなければならないのは、原理論、段階論に続く第三の現状分析論である。原理論、段階論と進み、各国資本主義の分析と世界経済が残余の領域として遺されるわけで、それが現状分析に他ならない。その限りでは、すでに紹介したとおり「世界経済論は各国資本主義の現状分析の集合体として、マルチラテラルな国際経済論」として分析される。最近では、中国の台頭・発展などアジア地域の成長が著しく、「パックス・アシアーナ」の到来も指摘されている。こうした世界経済論が宇野三段階論の現状分析論であり、その点では方法論的に問題はないと思う。しかし宇野は、戦後の「世界経済論の方法と目標』(1950年『世界経済』)において、現状分析論にもう一つ新たな問題領域を設定したのである。すでに紹介したが『農業問題序論』(1947年『著作集』第8巻)で提起された「世界農業問題」であり、それがロシア革命以来、そして戦後冷戦体制の中で、その地位を固めてきたソ連を中心とする社会主義への過渡期の課題として提起されたのだ。しかし、すでにソ連は崩壊した。マルクス・レーニン主義の支配も終わり、宇野が提起した過渡期の問題は再検討せざるを得ないのは当然だろう。現状分析論としての重要な論点が、あらためて提起されているのである。
 宇野理論にとって、資本主義の基本矛盾は労働力の商品化であり、労働力商品の特殊性である。労働力は人間の能力であり、資本により生産されない。同じように資本により生産されない生産手段に土地・自然(エネルギーを含む)があり、労働力とともに資本にとって基本的な矛盾であろう。労働力も土地・自然も、労働生産物として資本により生産・再生産されないけれども、しかし商品形態・価値形態が与えられる。労働市場や不動産市場を通して取引され、いずれも資本に包摂される。資本主義経済は、労働力商品を基礎に自律的運動法則を展開し、「原理論」の世界が形成される。「原理論」の世界で労働力商品は、いわゆる資本主義的「人口法則」で処理されるが、土地・自然は『資本論』第3巻の地代論で解決・処理され、純粋資本主義の経済法則が貫徹される。しかし、この解決・処理は「原理論」のレベルの話であって、資本主義の歴史的発展としては、労働力もいわゆる「労使関係」とともに、相対的過剰人口の存在など、一定の制約を与えられる。では、土地・自然はどうなのか?
 19世紀中葉、イギリスが資本主義の先進国として確立するについても、産業革命による「世界の工場」としての発展だった。原料の綿花までアメリカなどから輸入する綿工業が基幹産業であり、産業構造として「大陸諸国を農業国とすること」による発展であった。この時点では、工業国と農業国の国際分業が形成され、恐らくそうした発展を念頭に置いて、D・リカードの比較生産費説の提起もあったのであろう。産業資本の蓄積による自由主義段階であったが、それも産業構造の重化学工業化により、19世紀末から金融資本によって、農業問題もまた「世界的に植民地的農業国」から供給され、補充されることになる。こうして産業構造の段階論的変化により、世界農業問題として土地・自然の矛盾を「外部に押しやることによって片づけられてきたのである。」労働力商品化の矛盾は、資本主義の内部矛盾として周期的恐慌を含む景気循環として処理してきたのに対し、土地・自然の矛盾は「その外的矛盾をなす農業問題」として、段階論から現状分析の世界農業問題として処理されてきた。こうした農業問題の世界農業問題としての外部化により、先進国にとっては、農産物の海外からの輸入問題として、農業問題は「食糧問題」に転化したのであろう。宇野の世界農業問題の処理についての説明は含蓄に富み、すこぶる難解だが、およそ以上のように原理論の地代論から、段階論、現状分析論への展開をなしているように思われる。
 すでに紹介したので繰り返さないが、工業を中心とする資本主義の発展が、農業を外部に押し出すような形で解決しょうとしたが、それでは解決にならなかった。農産物の食糧の過剰問題によって、いわゆる農業恐慌を引き起こし、それは「資本主義の矛盾の外的表現」であり、さらに「一般的恐慌と農業恐慌とは、漸次に接近して融合して、世界資本主義の構造問題」「資本主義の矛盾の総合的表現」となった。資本主義のいわゆる「全般的危機」論だろうが、資本主義から社会主義への世界史的転換の課題として提起されることになった。資本主義として解決できなかった問題を、ソ連社会主義が解決する、宇野のイデオロギー的期待だったと思う。しかし、1977年の宇野の死後、わずか10年余で1991年ソ連もまた呆気なく崩壊、宇野のイデオロギー的期待も頓挫して終わった。ソ連崩壊によるポスト冷戦、アメリカの一極支配の構造による世界経済は、リーマンショックの世界金融恐慌を経験しながら、全般的危機の解決はできないまま、「アメリカ第一」のトランプ大統領による戦後体制の崩壊が進んでいる。米・中覇権戦争も、こうした全般的危機の現れであろう。
 全般的危機の深化を前にして、マルクス・レーニン主義の破綻に対し、1870年代の「晩期マルクス」が、初期マルクス・エンゲルスの唯物史観のイデオロギー的仮説を超えて、『資本論』の世界からコミュニタリアニズム・共同体社会主義への接点を求めていたことを確認した。『資本論』の世界から明らかにされる「経済原則」、超歴史的・歴史貫通的な経済原則として、労働力商品化の止揚と並んで、「太古からの」農村共同体が提起され、ロシアのナロードニキ、メンシェビキの女性理論家ザスリッチへの返書をマルクスは補強していた。70年代の共同体研究の高揚により、次第に「世界農業問題」として提起されようとしている世界経済の構造問題への視座を、マルクスも先取りしようとしたとも言える。いうまでもなく地域共同体こそ、土地・自然と結びつき、農村・農業・農民問題の根底にあるからである。今、戦後体制が崩壊する中で、農業問題・食糧問題が依然として深刻であることは強調するまでもない。また米中覇権戦争でも明らかだが、エネルギー問題とも関連し、地球温暖化による自然・環境破壊問題としても拡大・発展している点が重要だろう。宇野が現状分析として提起した「世界農業問題」は、食糧問題とともに、さらに地球レベルの環境問題として、改めてコミュニタリアニズムに厳しく提起されているのである。


by morristokenji | 2019-08-07 20:01
 純粋資本主義の抽象による原理論の位置づけから生ずることだが、宇野・三段階論としては、原理論の次に資本主義の世界史的発展段階の解明が必要である。宇野三段階論の「段階論」であり、「原理論」が資本主義経済の自律的な運動法則の解明だったのに対し、段階論は歴史的な段階的変化を解明する。とくに宇野「段階論」は、戦前の東北大での担当講座が「経済政策論」だったことから、広く経済政策全体の歴史的・段階的変化として解明されることになった。普通、大学の講座編成としては、工業政策、農業政策(農政学)、商業政策、社会政策など、分野ごとに講座が分かれている。しかし、すでに述べたが法文学部だったこと、また東北大が全体として「理科大学」で文科系が弱かったことなど、東北大の特殊事情として、経済政策論にまとめられたらしい。講座編成の是非は別にして、宇野「段階論」の形成にとっては、むしろ好都合だったように思われる。なぜなら。経済政策を全体的・総括的に取りまとめ、資本主義の歴史的段階的変化を追うことが出来るからである。いずれにせよ段階論は、宇野の大学の講座担当から生まれたと言っていい。
 原理論の純粋資本論お抽象が明確になれば、その原理論と現状分析との間に、論理と歴史の関係から言っても、中間的な歴史の発展段階が必要になる。論理と歴史の統一のドグマのもとに、純粋資本主義の抽象を否定したり、曖昧にすれば別問題だが、純粋資本主義の原理論の抽象が明確であれば、方法的に「段階論」の次元が不可欠になる。宇野が担当講座の「経済政策論」とともに、終始『資本論』研究を引き離さずに、それを純粋資本主義の原理論としてまとめ、わずか1年間だが「経済原論」を代購し、原理論を取りまとめていた。表の「経済政策論」が段階論、裏の「経済原論」が原理論として、三段階論の方法が戦前の東北・仙台で構築されたといえるだろう。その点で、宇野の『資本論』研究、、純粋資本主義の抽象の意義は重要だし、それを否定すれば宇野理論の三段階の方法は崩れてしまう。さらに宇野の『資本論』研究は、戦前のドイツ留学に遡るが、ベルリンでのレーニン『帝国主義論』の読解とも関連していた。その点では、一方の『資本論』、他方の『帝国主義論』が、原理論と段階論の方法構築の大きな動機だったように思われる。
 ここでレーニン『帝国主義論』に立ち入ることは出来ないが、宇野による『帝国主義論』に対する評価はかなり高い。マルクス・レーニン主義のイデオロギー的容認ともつながるだろうが、しかし宇野といえども『帝国主義論』の方法的見地まで、レーニンを容認していたわけではない。レーニンの『帝国主義論』も、『資本論』の資本蓄積論の直接的な延長として、資本蓄積が資本の自由競争から寡占・独占を生み、それが信用の拡大とともに金融の組織化、そして金融資本の発展をもたらすとしていた。その点でヒルファディングの『金融資本論』は、『資本論』の貨幣や資本の流通過程から金融資本を説くという点で、レーニンの方法とアプローチの違いはあるものの、『資本論』の論理の直接的延長として金融資本を説く方法は両者全く同じである。『資本論』を純粋資本主義の抽象による自律的運動法則として、方法的に前提しない限りレーニンもヒルファ―ディングも同じ「マルクス・レーニン主義」のドグマの虜であり、レーニンだけを評価できないだろう。
 しかし宇野の場合、『帝国主義論』の方法論はともかく、独占体の分析などを中心に、金融資本の組織性の具体的分析については、それを高く評価する。方法は否定するが、金融資本の具体的分析は評価する。その点でレーニンのイデオロギー的評価にもつながるのだが、それはロシア革命とソ連型社会主義のイデオロギー的擁護にも通ずるだろう。しかしポスト冷戦の今日、すでにソ連の崩壊は決定的だし、マルクス・レーニン主義の教条の時代も終わった。あらためてレーニンの客観的評価、特に『帝国主義論』の批判的評価が必要ではないか。レーニンとともに、ドイツ型金融資本を積極的に重視することによって、例えばアメリカ金融資本の評価など、段階論研究の混乱を無視できないと思う。とくに両大戦の戦間期、および戦後期におけるアメリカ金融資本の役割、ドルを基軸とした金融市場の動向など、段階論として軽視できないだろう。
 宇野・段階論も、「経済政策」を中心に、資本主義の世界史的発展を段階的に追跡する。産業資本段階の発展を代表した先進国イギリスに対して、確かに19世紀末から後進国ドイツの金融資本の発展が顕著であり、そこに資本主義の発展の「歴史の逆転」を見る。そこにまた純粋資本主義の抽象による「原理論」と「段階論」を区別する歴史的根拠もあるだろう。しかし「段階論」は、先進国と後進国の競争論、移行論ではないし、世界市場における競争論は、国際間の組織的な政策など、「現状分析論」として具体的に分析されるのではないか?そうした先進国と後進国の組織的競争を配慮して、宇野の「段階論」は、発展段階を代表する「経済政策」とその資本蓄積の型=タイプを重視する。「移行論」ではなく「型=タイプ論」であり、その点から言えば「産業組織論」として、①基礎的エネルギーに基づく支配的な産業構造、②基軸となる資本の蓄積様式と下請け・サプライチェーンなどを含む金融資本の産業組織、③労働力の質的変化を含む労使関係の変化、等であろう。こうした型=タイプを基準にして、国際競争における先進国と後進国の競争や国際関係の変化など、現状分析として解明される。
 もちろん、レーニン『帝国主義論』の段階論としての意義は小さくない。経済政策としての「帝国主義」的発展、金融資本としての独占体の役割など、ヒルファディング『金湯資本論』と並んで、レーニンの実証分析の意義を高く評価すべきだと思う。その点で、宇野『経済政策論』の段階論の果たした役割も大きかった。しかし、上記の通り『資本論』との関連では、その直線的上向として独占体による金融資本を展開しているのであり、そうした方法論による歴史的移行論への偏り、金融資本の「型=タイプ」の評価の偏りなどが生じ、そのため段階論として意見の対立が続いている。その点では、段階論としてもマルクス・レーニン主義のドグマに囚われず、レーニン『帝国主義論』の批判的継承の徹底化が必要だろう。

by morristokenji | 2019-08-04 20:05
 1870年代、晩期マルクスの思想遍歴の中で、すでにみた通りパリ・コンミュンや共同体研究の高まりなどにより、マルクス主義とコミュニタリアニズム・共同体社会主義との接点が浮かび上がってきていた。一方、パリ・コンミュンを通して、とくにエンゲルスは「プロレタリア独裁」の見地を提起し、さらにロシア革命の成功によって、マルクス・レーニン主義の思想的ヘゲモニーが確立した。しかし、ソ連崩壊によって、プロレタリア独裁など、マルクス・レーニン主義の教条は呆気なく喪失してしまった。こうした『資本論』以後のマルクス主義をめぐっての情況変化は、中国による「社会主義市場経済」の今後の動向いかんにより、さらに大きく変動する可能性もある。習近平が文豪・魯迅の言葉で解説したといわれる「中国の特色ある社会主義」とマルクス主義の関連が厳しく問われるだろう。今ここで、その可能性について立ちることは出来ない。
 ここで補足的に整理しておきたいのは、宇野理論の三段階論と晩期マルクスのコミュニタリアニズムとの関連である。宇野理論としては、とくにコミュニタリアニズムについて立ち入った検討がなされているわけではない。さらに言えば、宇野氏自身の研究の経過を振り返っても、『社会主義』のタイトルで刊行され、当時すでに宮澤賢治はじめ多くの読者を得ていたW・モリスなどの理論や思想については、特別の検討は見当たらない。ただ、同じ労農派であり、かつ大原社会問題研究所の関係で親交の厚かった森戸辰男氏との関係では、少なからぬ関心を寄せていたことは間違いないだろう。しかし、とくに具体的な研究業績は見当たらないし、関連した講演なども聞かない。したがって、宇野の『資本論』研究との関連の中から、コミュニタリアニズムへのアプローチを探る他ないが、その点で手掛かりにしなければならないのは、いうまでもなく三段階論のうちの「原理論」であり、宇野の『資本論』研究そのものである。とくに初期マルクス・エンゲルスの唯物史観と『資本論』との関連であって、純粋資本主義の歴史的・現実的抽象による資本主義の自律的運動法則の原理論と歴史的な「所有法則の転変」との関連に他ならない。
 すでに繰り返し述べたように、初期マルクス・エンゲルスの唯物史観は、後の『資本論』研究からみればイデオロギー的作業仮設であり、「導きの糸」に過ぎない。科学的理論研究により「論証」されず、イデオロギー的仮設のまま主張され続ければ、それは「科学的社会主義」ではなく、それとは似て非なる「社会主義的科学」のイデオロギーに過ぎなくなる。宇野は「社会主義的科学」にとどまった『経済学批判』などに対し、『資本論』の価値形態論をはじめ、商品・貨幣・資本を流通過程として純化し、とくに商品を単なる労働生産物に還元して、流通主義イデオロギーに陥ったA・スミスなどの労働価値説とともに、『資本論』冒頭の労働価値説を批判した。さらに、労働価値説に結びついていた単純商品生産社会の所有論的アプローチにも批判の矢を向けた。自己の私的労働に基づく私的・個人的所有、その否定である社会的労働に基づく私的・ブルジョア的所有、さらにその否定である社会的労働に基づく社会的・公共的所有の「所有法則の転変」を、宇野「原理論」は厳しく批判したのである。こうした批判は、後期マルクスの『資本論』そのものにも向けられ「科学的社会主義」の基礎づけとなった。宇野理論の真髄は、単なる価値形態や労働力の商品化の強調だけではない。唯物史観のイデオロギーに他ならぬ「所有法則の転変」の全面的否定だった。
 とすれば、W・モリスがバックスとともに、価値形態論や労働力商品化論を強調する『資本論』の紹介にとどまらず、共著『社会主義』において、遠慮がちな注記に過ぎない形にせよ、「所有法則の転変」の否定に踏み込んだ点は、まさに宇野理論の「科学的社会主義」の根拠を共有したことになろう。また、単なる所有論的アプローチを抜け出た点でも、宇野「原理論」はコミュニタリアニズムに大きく接近したといえる。ただ、宇野は唯物史観の残滓とも言える「所有法則の転変」を否定し、いわゆる「窮乏化法則」などのドグマを排除したが、モリスなどに特に関節しなかったことにもよるだろうが、共同体の位置づけなど、コミュニタリアニズムについて積極的に踏み込んではいない。価値形態論を強調し、労働力の商品化の矛盾を、資本主義経済の「基本矛盾」として設定した上で、社会主義の目標についても、宇野は「労働力商品化の止揚」を強調している。しかし、それがコミュニタリアニズムに結びつく点には一切触れることなく、超然と「南無阿弥陀仏」としているのであり、そうしたイデオロギー的禁欲を続けたままだった。そこにはソ連体制の擁護、「マルクス・レーニン主義」へのイデオロギー的な支持の念があったかも知れない。
 しかし、宇野の「原理論」では、純粋資本主義の抽象による資本主義の運動法則について、「経済法則」とともに、それを裏付ける超歴史的・歴史貫通的な「経済原則」が明示されている。価値法則にしても、市場原理に基づく価格変動を通して実現され、商品・貨幣・資本の流通形態こそ「経済法則」の実現形態である。しかし、価格変動が一定の基準をもち、「絶えざる変動の平均法則」として実現されるのは、法則の「形態」に対して労働「実体」が機能し、労働の社会的配分を充足しなければならない。資本主義経済が自律的運動法則を実現する、その根拠となるのは社会的労働配分であり、「経済原則」である。宇野は<『資本論』と社会主義>に関連して、「経済法則」に対する「経済原則」の主体的・目的意識的、そして組織的実現が社会主義の目標であり、そこに「労働力の商品化」の止揚となる「南無阿弥陀仏」の具現化を語っている。さらに労働について言えば、モリス「Art is man's expression of his joy in labor」、賢治「芸術をもてあの灰色の労働を燃せ」が目的意識化の労働実体となるはずである。
 さらに「労働力の再生産」についても、直接的生産過程の剰余価値生産の法則性を前提にして、「経済原則」の点では、『資本論』第2巻「資本の流通過程」の「可変資本の回転」に関連する。つまり、資本の回転に対して「労働力Aー貨幣賃金G―生活資料W」の単純流通が導かれる。この単純流通こそ、労働力が自己の再生産に必要な生活資料を資本から買戻す形式に他ならない。そこにまた、労働価値説の根拠もある。労働力による「生産」と家計による「消費」のいわゆる経済循環であるが、「経済原則」としては労働力の再生産は、家庭で家族と共に生活し再生産される。そこにはatomicな「経済人」ではなく、ゲマインシャフトの集団である家庭・家族があり、そこに共同体の基礎が置かれるし、地域共同体の形成にもつながる。こうした労働力の社会的再生産により、資本主義経済の自律的再生産が基礎づけられるとすれば、ここに歴史貫通的な「経済原則」を見ることができるだろう。マルクスも1870年代に入って『資本論』第2巻の原稿を書いたため説明は不十分だし、宇野の『資本論』研究もまた、晩期マルクスまで十分に踏み込んでいないし、「経済原則」もそこまでは触れていない。しかし「原理論」としては、労働力の再生産は不可欠な内容だし、そこにまた共同体に基づくコミュニタリアニズムとの接点を見ることができると思う。そこに踏み込んだこそ、宇野「原理論」も完成するだろう。

by morristokenji | 2019-08-02 09:15
 晩期マルクスとコミュニタリアニズムの関連について見てきたが、すでに明らかなようにW・モリスの思想など、戦前の日本においても、幸徳秋水の『社会主義神髄』をはじめ、マルクス・エンゲルスの古典とともに広く紹介されてきた。とくにモリスの社会主義の思想は、むろんB・バックスとともに、主としていわゆる「労農派思想」として導入されてきた。その点では、労農派思想を代表する堺利彦の役割が大きかったし、抄訳とはいえ『理想郷』(平民文庫五銭本)の影響がとくに大きかったように思う。幸徳秋水の大逆事件により、一時期は窒息状態に陥った日本の社会主義の思想や運動が、大正デモクラシーとともに復活を遂げたのも、堺利彦たちの「売文社」の活動など「労農派思想」の地道な支えが続いたからだろう。
 戦前日本の社会主義の思想や運動としては、大正デモクラシーとともに、もう一つ1917年(大6)のロシア革命の影響がまことに大きかった。ロシア革命の成功が無ければ、マルクス・エンゲルスの思想も、広く社会主義の思想も、20世紀の歴史を左右することはなかったし、戦後史も変わったものになっただろう。戦前・戦後を語るとき、ロシア革命とソ連邦の成立を抜きにはできないし、とくに戦後体制は、東西二つの世界の冷戦構造だった点で、そう言わざるを得ない。社会主義の思想も運動も、マルクス・エンゲルスからロシア革命のレーニンを加えた「マルクス・レーニン主義」へ転変し、マルクス・レーニン主義こそがマルクス・エンゲルスの正統的地位を占取し、全面支配することになった。マルクス主義も、それは何よりもまずマルクス・レーニン主義でなければならなかった。そうした中で社会主義も、マルクス・レーニン主義として思想的覇権を確立したのである。
 こうした思想的潮流の変化の中で、少なくとも戦前期、日本の土着社会主義を継承して来た労農派社会主義はどうなったのか?大正デモクラシーの中で、例えばモリスの著作の翻訳など、多数に上った。主要著作はほとんど訳出されたし、例えば『ユートピア便り』(News from nowhere)などは、『無何有郷だより』のタイトルでも訳出され、当時はモリスの名前も専門のデザイン関連の作品よりも、むしろ社会主義思想として評判になっていた。東北・花巻に住む宮澤賢治が、モリスの著作を読んで、それを『農民芸術概論綱要』のベースに置いたのも、当時の労農派思想の影響として極めて自然だったと思う。また、すでに述べたが日本で最初の共産党(第一次共産党)のトップに堺利彦が推挙されたのも(モスクワに逃れた片山潜の反対は強かったようだが)、当時の労農派社会主義の思想的ヘゲモニーを示すものだったと言えよう。しかし、影響はその頃までであり、革命後ソ連の体制が定着し、とくにマルクス・レーニン主義にもとづく世界革命、そして国際組織コミンテルンの指揮下に入るに及んで、各国共産党と地下組織の影響が強まり、さらに国内的にも、治安維持法などによる弾圧体制の強化で、共産党とともに労農派思想も、「暗い谷間」に追い込まれることになった。
 「労農派」の呼称は、すでに述べたがコミンテルンの1932年テーゼに関連した日本資本主義論争、つまり『日本資本主義発達史講座』の講座派との論争から生まれた学者グループの通称に過ぎない。したがって講座派も『講座』参画のグループで、両派の論争も経済学を中心に日本資本主義の研究・分析としての意義は大きかったものの、社会主義の思想や運動としては、1933年に堺利彦も他界した後の話に過ぎなかった。その堺を中心とする労農派社会主義の運動は、言うまでもなく戦時体制の暗い谷間に深く逼塞せざるを得なかった。問題は、戦後の新たなデモクラシーの到来とともに復活した社会主義の思想と運動の軌跡の中で、労農派社会主義の思想や運動が辿った足跡である。端的に結論してしまえば、東西冷戦の戦後体制の中で、マルクス・レーニン主義の思想的ヘゲモニーが確立し、戦前の土着社会主義の継承としての労農派社会主義の思想と運動は消失の運命を辿った。戦前、上記の日本社会主義論争に参加した向坂逸郎など、意見の対立を残しながらも、ソ連型社会主義の発展とマルクス・レーニン主義に対抗する労農派社会主義の思想や運動は見られなかった。特異な存在だった三段階論の宇野弘蔵も、一方でスターリン論文を厳しく批判しながら、他方、親ソ派としてマルクス・レーニン主義を墨守していた。すでに述べた通り現状分析論も、ソ連を社会主義への過渡期とする歴史認識によりものだった。
 ただし、戦後の日本社会党の左派のイデオロギーとして、戦前の労農派社会主義の思想的継承が紹介される例も多い。確かにそうした側面を否定できないが、向坂逸郎をはじめとして、戦前の山川均の論文のように、マルクス・レーニン主義の思想と運動に対決し、独自の思想として対抗したわけではない。むしろ「日本における社会主義の道」など、戦前からの労農派社会主義の思想潮流は、戦後ソ連型社会主義のマルクス・レーニン主義の思想に完全に吸収されてしまったと見るべきだろう。右派社会党の流れとして、戦前W・モリス研究を進め大原社会問題研究所を支えていた森戸辰男にしても、戦後は文相として教育基本法に尽力したものの、「森戸・稲村論争」が記録される程度で思想的な影響力は残らなかった。むしろマルクス・レーニン主義のヘゲモニーの下で、社会民主主義の国際組織・社会主義インターに所属し続ける日本社会党の奇怪な姿が目立ち、中国の毛沢東主席をして「まことに不思議な党だ」と言わしめたのであろう。(上山春平『日本の思想』第5章土着の社会主義)こうした社会民主主義のインターに入ったマルクス・レーニン主義の日本社会党も、遅ればせながらマルクス・レーニン主義の「日本における社会主義の道」を見直し、「新宣言」路線に踏み切った。しかし、「新宣言」はあまりにも遅かった。その出発の時点で、1991年のソ連崩壊、そしてマルクス・レーニン主義の破綻の日がやって来たのだ。歴史の皮肉と呼ぶほかないだろう。
 日本では、とくに「社会主義」の呼称はソ連型であり、マルクス・レーニン主義だった。ソ連崩壊とともに社会主義もまた「死語」と化した。しかし西欧では、ソ連型社会主義は「ボルシェビズム」であり、「共産主義・コミュニズム」と呼ばれて「社会主義・ソーシャリズム」とは区別するのが常識である。ソ連崩壊、マルクス・レーニン主義の破綻は、西欧ではボルシェビズムの破綻であり、対抗して来た社会民主主義としての「社会主義」の勝利であり、日本のように社会主義が死語にはならなかった。ただ、注意しなければならないのは、ソ連崩壊が西欧社会民主主義にとって、元気な勝利ではなかったことだ。ここでは立ち入る余裕がないが、ボルシェビズムは「軍労ソヴィエト」による上からの権力奪取であり、「プロレタリア独裁」による集権・指令型計画経済であった。西欧社民も市場経済を前提し、「プロレタリア独裁」は否定されるものの、上からの組織的「参加・介入」路線に過ぎない。だから財政・金融の支配によるケインズ主義的有効需要の拡大・制御を主軸とした政策であり、その限界が大きい。ボルシェビズムという敵を失った社会民主主義は、移民・出稼ぎ労働力の急増などによるポピュリズムの台頭、左派リベラルの停滞・沈下など、思想的ヘゲモニーを喪失した。
 日本の場合、上記の通り「週遅れ」の新宣言の採択、そして土井社会党ブームにもかかわらず、日本社会党は消滅した。自社対立の55年体制は崩壊し、野党の群立が続いたまま、「失われた10年、20年」さらにアベノミクスによる「慢性的不安・相対的安定期」が持続している。また、ソ連崩壊によるアメリカ一極支配の「グローバリズム」は、トロツキズムの流れを引くとも伝えられる「世界資本主義論」の世界革命を目指した「ネオコン」などの幻想に過ぎなかった。そもそも近代国民国家を超えた「世界国家」など、全くの観念的な虚構に過ぎない。世界市場のグローバルな拡大にもかかわらず、ネオコンのグローバリズムはトランプ米大統領の「アメリカ第一」主義に取って代わられている。今や国際関係は、アメリカ覇権のグローバリズムとは逆に、むしろ1930年代を思わせるマルチラテラルな多極化に向かっている。その中で、中国の経済発展については別稿を準備しなければならないが、新しい「社会主義市場経済」による「マルクス主義」の展望を射程に据えなければならないだろう。
 要するに、ソ連崩壊によるポスト冷戦の中で、いまやマルクス・レーニン主義の破綻は明らかであり、その復権はあり得ないだろう。すでにみたようにロシア革命それ自身が、帝政ロシアの敗戦の混乱から生じた一種の軍事的クーデターであり、そうした権力が第2次世界大戦の「熱戦」時代から、戦後の混乱、そして「冷戦」体制という異常な時代に移行したのだ。熱戦から冷戦への異常極まりない世界史の激変の中で、異常な時代の、異常な体制の、そして異常な思想状況の産物が、他ならぬ異常なマルクス・レーニン主義のヘゲモニーだった。そうした異常なマルクス・レーニン主義の破綻から決別するとすれば、回帰すべき「時空「」として示針されるのは、晩期マルクスが求めたものであり、さらに労農派社会主義の求めた共同体社会主義・コミュニタリアニズムの再生・復権ではないかと思う。

by morristokenji | 2019-07-26 18:50
 70年代は、その幕開けから、独仏戦争によるパリ・コンミューンだった。ドイツ・オーストリアは、この戦争の勝利により、政治的にドイツは統一し、ブルジョア革命を達成した。ナポレオン3世の仏・第3共和国は敗北し、パリ・コンミュンをはじめ、各地コンミューンの市民革命も敗退した。ここでパリ・コンミュンには立ち入らないが、「史上初の労働者政権」「プロレタリア独裁政権」と紹介されている。しかし、コンミュンの名の通り、都市の職人層(クラフッマン)の参加が多かったし、政権もアナーキストも含む多様だったし、広く市民による都市防衛の抵抗闘争だった。エンゲルスは、パリ・コンミュンの経験から「プロレタリ独裁」を提起し、それがマルクス・レーニン主義の教条になり、上記の紹介になっていると思う。しかし、『フランスの内乱』を書いたマルクスは、エンゲルスのように「プロレタリア独裁」を提起していないし、むしろコンミュンとの関連で「協同組合」の役割に注目している。「もし協同組合の連合体が一つの共同計画にもとづいて全国の生産を調整し、こうしてそれを自分の統制のもとにおき、資本主義的生産の宿命である不断の無政府状態と周期的痙攣とを終わらせるべきものとすれば―諸君、それこそは共産主義、<可能な>共産主義でなくて何であろうか」(17巻319-20頁)と述べている。さらに第一インター(国際労働者協会)も、協同組合主義者、アナーキスト、ブランキストなど、多種多様な潮流の対立が激化し、組織的混乱を重ねた末に1776年に解散した。『共産党宣言』以来の政治活動の終わりであり、マルクス・エンゲルスにとっては政治的敗北だったと思う。
 パリ・コンミュンによっても触発されたのであろう、70年代は共同体・コミュニティ研究のブームとなった。それまでは原始共同体など、共同体の実証分析はほとんどないままに、例えば唯物史観の階級闘争史観もイデオロギー的に主張されてきた。それに対し、例えばアメリカの文化人類学者L・Hモルガン『古代社会』(1877 )に代表される歴史的実証分析が発表された。強気ではあるが誠実なマルクスは、ここでも「経哲草稿」(唯物史観)、『経済学批判要綱』(『経済学批判』)、さらに『剰余価値説史』(『資本論』)に続いて、丹念な『マルクス古代社会ノート』(クレーダー編、1780‐81年)を作成した。それと同時に、この時点でロシアのナロード二キで、後にボルシェビキのレーニンと対立したメンシェビキの女性理論家ザスーリッチへのマルクスの返書(81年)で「所有法則の転変」の事実上の改変が行われた。すでに紹介したが、「自己の労働を基礎にした私的所有」が「資本主義的私的所有」に転変するイギリスなど「西方の運動」は、ロシアには当てはまらない。「ロシアの農民にあっては、彼らの共同体所有がロシアの社会的再生の支点」(拙著『W・モリスのマルクス主義』76頁参照)だと述べ、さらに1882年の『共産党宣言』の序文では「ひどく分解してはいるが、太古からの土地所有の一形態であるロシアの農民共同体は、---共産主義的発展の出発点として役立つことができる」と補強している。
 こうしたお膳立ての上で、B・バックス「現代思潮のリーダー達・第23回カール・マルクス」『現代思潮』81年12月が発表され、マルクスは「僕の経済学の原理の説明や翻訳には、間違いや混乱が多々あるが、しかしそうしたすべてのことにもかかわらず、ロンドンのウェストエンドの壁に、ビラにより大文字で告知された論説の発表は、一大センセーションを生んだ」と述べ、さらにバックスについて「現代の社会主義に対して真正な関心を示している最初のイギリスの批評家」(ゾルゲへの書簡)と最大級の賛辞を述べている。また、マルクスは余ほど嬉しかったのであろう、論説のコピーを沢山つくり関係者に送っている。バックスは、イギリス生まれだが、パリ・コンミュンの支援活動にも参加し、その後ドイツ留学でヘーゲル哲学を学び、『資本論』を読んでの上記を「論説」だった。しかも、当時のイギリスで最初の、そして唯一といえる社会主義者の組織だった「民主連盟」(1881年)から「社会民主連盟」、そしてW・モリスとともに「社会主義者同盟」を組織した。その機関誌Commonwealにモリスの『ユートピア便り』が連載され、さらにモリスとバックスの共著「社会主義―その根源から」も連載された。その意味では、まだ『資本論』の英訳が出ていない段階でのマルクス主義の「イギリス上陸」という大きな役割を果たしたのが上記「論説」だったし、それだけにマルクスの評価が高かったし、喜びも大きかったのであろう。
 「晩期マルクス」は1883年の死去により終ったが、マルクスから高い評価を受けたこともあり、バックスはモリスと一緒に『資本論』を熟読し、ファンタジック・ロマンの傑作『ユートピア便り』の理論的基礎ともいえる協同労作、上記「社会主義―その根源から」を連載した。それを出版したのが『社会主義―その成長と帰結』1893年である。ここでは内容に立ち入らないが、「晩期マルクス」の共同体への関心に関連して、初期マルクス・エンゲルスの唯物史観のイデオロギー的仮設の止揚、そして「所有法則の転変」の事実上の放棄について触れておこう。すなわち、「所有者の労働に基づいた個人的な私的所有」の個所に、わざわざ注記して、次のように述べる。「ここで使われているような語句を、誤って理解しないことが重要である。中世期における労働は、メカニカルな場合でも、個々別々に行われていたのだが、精神的な面から見れば、連合・アソシエーションの原理によって、かなり明確に支配されていたのだ。つまり、我々が見たとおり、その時代の親方・マスターは、単なるギルドの代表に過ぎなかったのである。」
 モリスたちは、ここで『資本論』を直接批判してはいない。誤解されるのを心配しての注意書きだが、内容的には、単純な小商品生産者を事実上想定して、その労働による商品生産物の自己所有である私的・個人的所有という「唯物史観」の定式を真っ向から批判している。物理的にみて個人労働でも、その労働は、共同体の内部、ギルド組織の下での「精神的な面から見れば、かなり明確に連合・アソシエーションの原理」に基づいている。つまり、資本家的生産様式に先行するのは、私的・個人的労働に基づく私的・個人的所有ではない。村落的・ギルド的組織の労働であり、生産物もその所有であって、そうした共同体の組織が前提となって、商品市場の流通取引も、共同体と共同体の間に成立した。そう考えれば、ここでの注記は、「所有法則の転変」の「否定の否定」にも関連して、それを否認することになる。モリスとバックスの二人は、『資本論』を熟読の末に、「所有法則の転変」を事実上否定した上で、共同体的な労働と生産手段御共有を前提とする、「共同体」の新たな復権を提起したと見るべきだろう。そして、新たな共同体研究を前提に、原始的共同体の「根源から」、その根源に遡って点検しつつ、『資本論』を基礎に「科学的社会主義」を主張しようとした。「共同体社会主義」コミュニタリアニズムの主張として『社会主義』を体系化したといえると思う。
 70年代「晩期マルクス」を振り返ったが、考えてみれば1867年『資本論』第一巻の刊行から1883年のマルクスの死去にいたるまで、16年間の長い歳月が流れている。マルクスの超人的とも言える思考力が、その間停止したとはとても考えられない。『資本論』についても、資本の本源的蓄積の位置づけを含む編別構成の改変など、自らフランス語版の改訂の筆を執っている。英語版が大幅に遅れたため、フランス語版をバックス・モリスが読み、上記の「所有法則の転変」に異論を述べた。マルクスが同時に、『資本論』第3巻、そして第2巻の原稿を書いたのも、70年代に入ってからだった̪し、そこで新たな知見が提起されたことを見逃してはならない。すでに述べた通り、同時に70年の「晩期マルクス」にとって、パリ・コンミュンが起こり、第一インターの組織分裂が進み、さらに共同体・コミュニティ研究の新たなブームが到来した。唯物史観の再検討は避けられなかった。それどころか、独語版に続いた『資本論』ロシア語版の影響も大きく、ザスーリッチからの手紙も来た。こうした新たな対応が、マルクスの並外れた思考力を刺激し、初期マルクス・エンゲルスの唯物史観の仮説の枠組みを再検討することになったとしても、大いにありうることではないか。
 E・B・バックス「現代思潮の指導者たち、第23回―カール・マルクス」(月刊評論誌『モダーン・ソート』)、そしてそれをめぐるマルクスの書簡を読めば、さらにモリスとの共著『社会主義:その成長と帰結』とともに、マルクスが最晩年に向かって、初期の所有論的アプローチによる唯物史観に対し、歴史貫通的な共同体・コミュニティの存在を重視し、共同体社会主義・コミュニタリアニズムを受容する方向だったことを痛感せざるを得ない。バックスの論稿は、マルクスの妻イエニーの死の床に届き(1881年12月)、それを読んで妻は、マルクスの研究に生涯を捧げた喜びをもって旅立っことができた。マルクスもまた、1883年3月、妻を追うように他界した。マルクスが『資本論』研究を通して、最後に求めようとしたのは何だったのか。「マルクスの求めるものを求める」立場からすれば、それは初期マルクス・エンゲルスの唯物史観のドグマではないと思う。それは他でもない、晩期マルクスの1870年が提起した共同体社会主義・コミュニタリアニズムだったのではなかろうか?

by morristokenji | 2019-07-18 19:12
 初期マルクスは、エンゲルスとともに唯物史観を構築し、とくに有名な『共産党宣言』を政治的綱領文書として、マルクス主義は出発した。初期マルクス・エンゲルスの唯物史観である。その後マルクスは、エンゲルスの協力を得ながら、歴史的な大著『資本論』を書いた。『資本論』は第1巻のみマルクスの手で刊行されたが、第2巻、第3巻はエンゲルスの手で編集されて出版された。マルクスはエンゲルスとともに、『資本論』全3巻の巨大な思想の世界を築き上げることができた。初期マルクス・エンゲルスから後期の『資本論』刊行により、2人の事業はほぼ終わったとされてきたし、その評価もけっして誤りではない。しかし、よく考えてみると『資本論』第1巻の刊行が1867年であり、83年にマルクスが他界するまで、16年の歳月が流れている。それも1870年代はパリ・コンミュンをはじめ、西欧世界は激動を重ねていた。マルクスの超人的ともいえる強靭極まりない思考力が、その間停止したままだったとは到底思えない。『資本論』とともに、70年代のポスト『資本論』の世界をも視野に入れながら、ソ連崩壊後の今日、マルクス主義を再検討してみる必要があるだろう。
 まず『資本論』を軸に、マルクスの経済学研究の展開の道筋を、時系列的に段階区分してみたい。初期マルクス・エンゲルスの二人は、ブルジョア革命だったが1848年革命に深く関わりながら、協力して唯物史観の構築に努力した。経済学研究としては、マルクスよりもエンゲルスの実際的経済活動の経験もあり、『国民経済学批判大綱』など、「経・哲草稿」のマルクスをリードした。しかし、A・スミスなど古典経済学批判は不徹底で、唯物史観はその後の研究のための「導きの糸」であり、たんなるイデオロギー的作業仮設に止まつた。革命情勢の高揚から書いた政治的綱領文書『共産党宣言』も、二人の連名による共著である。しかし、独・仏など大陸の革命情勢はイギリスには広がらず、マルクスは1849年にロンドンに亡命した。遅れてロンドンに辿り着いたエンゲルスは、父親の工場経営の関係もあり、マンチェスターに離れた。エンゲルスは、マルクスに対する経済的支援の立場になり、マルクスは独りロンドンの大英博物館など、経済学研究を本格的に開始した。こうした経緯から、1840年代が初期マルクス・エンゲルスの唯物史観の時代と看做すことができる。
 1850年代に、マルクスの古典経済学批判が本格化した。しかし、40年代の唯物史観の作業仮設はそのまま生きていたし、むしろ唯物史観の枠組の内部で、マルクスは古典派経済学などの経済学研究を進めたのであった。そうした事情とともに、マルクスは1859年に『経済学批判』第1分冊を刊行して、唯物史観を定式化し、経済学批判体系の「プラン」も序文に収めた。事前にマルクスは、『経済学批判要綱』を準備したが、それも『経済学批判』の要綱であり、『資本論』のための要綱ではない点をくれぐれも注意する必要がある。要綱では、資本の生産過程や利子や信用までマルクスはノートづくりを進めていた。しかし、『経済学批判』は第1分冊の商品、貨幣のみにとどまり、マルクスは「貨幣の資本への転化」、つまり流通形態としての資本を前にして、完成稿の執筆を断念せざるを得なかった。唯物史観の仮説の枠組みを越えなければならない。流通形態として、価値形態としての商品論、貨幣論を書き直さなければならない。そして、賃労働の前提となる労働力の商品化を明確にする必要がある。そのためには第1分冊の『経済学批判』の執筆を断念し、新たな著作として再挑戦をはかる他なかった。いわゆる「プラン問題」である。
 「プラン問題」は、たんなるプラン変更問題ではない。プラン廃棄の問題であり、マルクスはその後プランには殆ど触れなかったし、あらたに『剰余価値学説史』を準備して『資本論』を準備したのだ。1860年代「後期マルクス」の新たな時代である。この「後期マルクス」により、価値形態論による商品論、貨幣論、そして労働力商品化論を前提にした「貨幣から資本への転化」が説かれ、「経済学批判」は単なるサブタイトルに、新著のタイトルは『資本論』となった。大著『資本論』の生誕であり、1867年に第1巻が刊行され、そのまま引き続いて第2巻、第3巻の原稿が執筆され、刊行はエンゲルスに託された。マルクスとエンゲルスの関係だが、初期マルクス・エンゲルスの時代は、沢山の共著を残し、1840年代で終わった。エンゲルスはマンチェスターに去り、事業活動を中心に、マルクスへの経済的援助での協力に変わった。その点から1850年代は「中期マルクス」の『経済学批判』、そして60年代「後期マルクス」の『資本論』として時期区分するのが適当だろう。
 もう1点付け加えたい。「初期マルクス・エンゲルス」の唯物史観は、マルクス自身が単なる「導きの糸」と述べているように、経済学研究などの作業仮設であり、それも労働に基づく私的所有を中心とするイデオロギー的作業仮設である。イデオロギー的な所有論的アプローチが強く、それが『共産党宣言』の特徴にもなった。しかし作業仮設は、理論研究、実証研究には不可欠であり、それなしに研究は進まない。けれども理論研究による論証、実証研究による実証がなければ、イデオロギー的作業仮設は単なるドグマになってしまう。「科学的社会主義」ではなく「社会主義的科学」イデオロギーに他ならない。事実、19世紀イギリスを中心に資本主義は確立発展し、周期的恐慌は「恐慌・革命テーゼ」どころか、新たな資本蓄積による「成長と発展」の槓桿となった。そうした歴史的現実から、マルクスは『資本論』において、純粋資本主義を抽象し、資本主義の自律的運動法則を解明するのに成功した。この純粋資本主義の自律的運動法則から、それを基礎に資本主義の原始的蓄積など、歴史的発生発展を捉えかえそうとして『資本論』全三巻の大著を書いた。その結果、「後期マルクス」の『資本論』は、「初期マルクス・エンゲルス」の唯物史観をドグマとしない、新たな歴史観を「科学的社会主義」として提起することになるはずだと思う。
 しかし、作業仮設の唯物史観からの脱却は、容易なことではなかった。『資本論』でも冒頭「商品論」の労働価値説の論証はじめ、単純商品生産社会の想定など、とくに資本の本源的蓄積に関連した「所有法則の転変」では、すでに指摘したとおり①自己の労働にもとづく私的所有、②社会的生産の下での資本家的私的所有、③社会的生産の発展による社会主義的所有のトリアーデが披露され、資本主義から社会主義への「最後の鐘が鳴る」歴史的転換も主張された。」一方で、純粋資本主義の抽象による資本主義経済の自律的運動法則と並んで、他方、『資本論』の法則展開の枠組みに唯物史観の所有法則が残されているのである。しかし、それでは純粋資本主義の自律的運動法則により、その上で社会主義への歴史的転換をどのように展望するか?そこに東北の「農村経済」が提起した宇野弘蔵の三段階論の方法の意義もあった。しかし、歴史の現実は、すでに冷戦構造の戦後体制とともに、ソ連型社会主義は呆気なく崩壊を遂げ、マルクス・レーニン主義もドグマと化した。ポスト冷戦を迎え、米中の覇権争奪戦が日に日に激化する中で、中国に特有な新しい社会主義の現代化はどこに行くのか、「社会主義市場経済」「新しいマルクス主義」はどこへ向かうのか、世界史の重大な試練だろう。

by morristokenji | 2019-07-16 20:06
 戦後、宇野弘蔵は東北大学へは復帰せず、1947年に東京大学の社会科学研究所で社会科学の総合的な調査研究を目指すことになった。その事情には立ち入らないが、戦後独立した東北大学の経済学部でも、「農業政策論」はじめ集中講義などで協力している。戦前の法文学部の経験からすれば、社会科学や人文科学などの総合的・学際的な調査・研究に魅力を感じたし、現状分析を進めたかったように聞いている。その点では、戦時中および戦争直後に日本貿易研究所や三菱経済研究所で、実際的な調査研究に従事した経験が大きかったように思われるし、それを継続する意味もあった。両研究所では、1945年から食糧問題など、日本経済の情勢分析(概観)を執筆しているが、同時に「資本主義の組織化と民主主義」『世界』1946年5月号を筆頭に、「生産再開の論理」『評論』、「経済安定の概念」『評論』、「経済民主化と産業民主化」『新生』など、時論的な論稿が矢継ぎ早に発表された。その上で、東大の社会科学研究所に落ち着いた時点から、「所謂経済外強制について」『思想』1947年2月号をはじめ、農業問題を中心とする現状分析とともに、「労働力なる商品の特殊性について」『唯物史観』1948年など『資本論』研究、『経済政策論』1954年の上梓による段階論、同時に経済学の方法論についての論稿が発表され、三段階論の方法のフレッシュアップの作業が続けられた。
 とくに『農業問題序論』(1947年改造社)において、あらためて二重の意味での後進国・日本資本主義の農業問題の政治的重要性とともに、第一次大戦後の世界における慢性的農産物のの過剰化とそれに続く29年世界大恐慌が、農業問題を資本主義にとって解決困難な世界的問題として顕在化した点に注目する。したがって日本資本主義の農業問題も、世界的問題として、世界経済論として論じなければならない点が、とくに強調されたのである。こうした世界経済の問題から切り離して、たんに日本農業の特殊性から、農村の封建遺制や土地所有、小作料などの特殊性を想定し、それを固定化してしまう非科学的見地を批判している。一国の農業問題も、一国だけでなく「原理論」を基礎に、資本主義の世界史的段階規定を媒介に、しかもそれを世界農業問題として具体的に分析する方法的見地が提起されたのである。まさに三段階の方法であるが、その点を戦後体制の具体的現実において分析を試みたのが「世界経済論の方法と目標」(1950年『世界経済』)に他ならない。ここで農業問題が世界経済論として、それゆえに三段階論の方法では現状分析論として位置づけられることになった。しかも、たんに資本主義の農業問題だけでなく、新たに東西冷戦の戦後体制の中で、社会主義の問題として提起された点が注目される。
 純粋資本主義として抽象された『資本論』の世界では、自律的な資本主義の運動法則が解明されるだけで、「共同体と共同体との間に行われる商品交換の関係は勿論のこと、実際的には資本主義社会の成立の前提条件をなす国際的な商品交換をもその対象となすことは出来ない。---外国貿易を付随的な問題としてしか取扱っていないのは、そのためであるが」、さらに実際の資本主義の発展を取り巻く商品経済の発展も「資本主義の世界史的発展の歴史的規定が与えられないと、かかる関係の具体的分析をなすことは出来ないのである。」(346-7頁)世界経済論についても、原理論と段階論が前提され、各国資本主義の現状分析として位置付けられる。その限りでは、世界経済論は各国資本主義の現状分析の集合体として、マルチラテラルな国際経済論として分析されることになろう。しかし、問題になるのは「前大戦後の農業問題は、19世紀末の西欧諸国の農業問題とも、さらに遡って18世紀末のイギリスの農業問題とも異って世界経済の問題となってきている」(355頁)と主張し、第一次大戦後の世界史的発展段階に伴う性格変化を提起した点である。
 こうした農業問題の性格変化については、ここで深く立ちいらないが、宇野が戦時下に三菱経済研究所で従事した世界糖業の調査分析の経験が大きかった。もともと世界の砂糖産業は、19世紀以来の植民地型プランテーション農業(キューバ、ジャワ、オーストラリア、ハワイ等)だったが、1920年代に大きな構造変化が起こる。1つには、旧来の蔗糖生産の規模拡大であり、第2にはヨーロッパ諸国での甜菜糖生産が勃興し、国家的保護措置による急速なシェア拡大である。その結果、世界的な砂糖供給の過剰、価格の急低下、過剰在庫などの糖業危機をもたらした。それに対し、ドイツなど国内甜菜業の国家統制、さらに国際協定による世界市場の組織化で対応しょうとした。要するに、かってイギリスのごとく外部に押し出される傾向をもった農業が、第一次大戦後再び国内自給を上昇させる方向へ逆転すること、国際的な農産物過剰と農業の国内保護が密接に関連すること、世界的農業恐慌が植民地体制を大きく揺るがせていること、などの構造変化が砂糖産業の調査分析から明らかにされたのである。こうした調査分析から、世界経済論の問題として提起され、それが戦後三段階論の方法、とくに「世界経済論の焦点としての世界農業問題」として提起されることになった。
 戦後、国際経済関係が極めて複雑で、かつ緊密になったが、「世界経済の分析が一国の資本主義の分析と異なった実践的要求に基づいていることからも、それは当然に予想されることである。そこで世界経済の問題は二つの観点を区別することを要請することになる。例えば先の国際連盟やコミンテルンの実践的要求に基づく世界経済の分析のように、世界的政治活動の物質的基礎を明らかにするという目的に役立つ分析と、一国の経済が国際経済から受ける影響に主眼を置いて、その分析をなす場合とである。」(350-51頁)二つのうち、「後者は寧ろ一国の資本主義分析に付随的なるものに過ぎない」が、両者の区別がとくに重要であり、「前大戦後の大恐慌以後、いわゆる経済構造論が問題とせられ、---私は大体こういう見地から世界構造論も、その焦点を明らかにしなければならぬものと考えるのである。そしてそれは世界農業問題にあるのではないかと考えるのである。」(351頁)この重要な設問に対する回答はすこぶる難解だが、以下のように説明されている。
 農業は元来、工業のようには資本主義的生産に適合できない分野であり、資本主義は一時的、部分的にはともかく、これを外部に押し出す形で解決しょうとするが、それは根本的解決ではなかった。押し出された農業が、食糧問題として世界的関連のもとで農産物の過剰問題を引き起こし、いわゆる農業恐慌として、各国に反作用をもたらすからである。こうした農業恐慌は、資本主義の矛盾の外的表現であり、世界資本主義の構造問題である。「前大戦後の世界農業問題は、各国におけるかかる現実的解決の根本的解決でないことを示すものにほかならない。それと同時に資本主義に必然的なる一般的恐慌現象と農業恐慌とは、漸次に接近し融合して、世界資本主義の構造問題として、資本主義の矛盾の総合的表現をなすに至ったのであった。」(353頁)一般的恐慌現象は、労働力商品化の矛盾を基礎として、資本主義経済自身の内部矛盾として必然化するのに対し、「農業恐慌は資本主義的生産方法が農業を資本主義的に処理し得ないという外部的な原因に基づくものである。」(同頁)両者が結合する点に、世界経済論としての世界農業問題の提起があったといえよう。
 「かくして世界経済論は社会主義にとっても重要な課題となって来る。それは一方では資本主義の内部矛盾をなす階級対立を、他方ではその外的矛盾をなす農業問題を、ともに解決し得るのでなければ、新たなる社会を担当し得るものとはならないからである。」(同頁)「世界経済論における農業問題は、なおその解決を個々の国々の社会主義的解決にゆだねた形になっているといってもよいであろう」として、世界農業問題がたんなる「世界貿易問題」のレベルにとどまり、世界経済論の焦点にならないまま、「逆に国家主義的な傾向を強化して来た点を考えるとき、それが決して容易に国民経済として一体化してきた資本主義社会のような統一体をなすものでないことは明らかである。」(354頁)世界農業問題の解決を、階級対立の解決とともに、資本主義から社会主義への世界史的転換の課題として提起したのだが、こうした問題意識の前提には、前大戦以降とくにロシア革命によるソ連邦への前向きな評価が前提されている。
 「第一次大戦後の資本主義の発展は、それによって資本主義の段階論的規定を与えられるものとしてではなく、社会主義に対する資本主義として、いいかえれば世界経済論としての現状分析の対象をなすものとしなければならない」(7-248頁)この指摘は、上記の戦後『経済政策論』が1954年に上梓されたが、その改訂版(71年)に加筆された部分である。戦前の上巻にレーニン『帝国主義論』の積極的評価に基づき、帝国主義段階の金融資本の蓄積を加えて『経済政策論』を完結させたが、その改訂版に「補記―第一次世界大戦後の資本主義の発展について―」として、ロシア革命によるソ連邦の成立、そして東西冷戦の戦後体制を踏まえて、資本主義から社会主義への過渡期が明記されたのである。こうした『経済政策論』の処理については、いうまでもなく1950年に「世界経済論の方法と目標」を書き、その後の戦後体制の定着を見定めての判断といえるだろう。しかしながら、1987年の「レーニン共産主義記念チェルノブイリ原子力発電所」の事故などもあり、「労兵ソヴィエトと全国の電化」をスローガンとしたロシア革命によるソ連型社会主義は、1991年にまことに呆気なく全面的に崩壊してしまった。
 このソ連崩壊は、東西冷戦構造の戦後体制の崩壊であり、ロシア革命によるソ連型社会主義の破綻であり、さらにドグマと化したマルクス・レーニン主義の歴史的否定だったが、それだけではない。戦後1950年「世界経済論の方法と目標」を書き、わざわざ『経済政策論』の改定版に「補記―第一次世界大戦後の資本主義の発展についてー」を加えて、戦後体制を資本主義から社会主義への世界史的転換の過渡期とする、その意味で世界経済論、世界農業問題を三段階論の現状分析として位置付けた、宇野・三段階論の経済学方法論の再検討が提起されたことにもなる。宇野弘蔵は、いうまでもなく『資本論』、『帝国主義論』への様々な疑問とともに、スターリン論文への大胆、かつ厳しい批判を加えていた。にもかかわらずソ連社会主義そのものに対しては、それを肯定し擁護すら惜しまなかったと思う。向坂逸郎などとともに、世代的とも言えるイデオロギー的シンパシーの念を抱きながら、1977年2月22日79歳で他界した。ソ連の歴史的崩壊を待たずに、そして三段階の方法的再検討の課題を残したまゝの死去であった。 
by morristokenji | 2019-07-12 19:45
 宮澤賢治が花巻農学校を辞職し、「新しい農村の建設に努力する」として、羅須地人協会を発足させた際、1925年(大15)4月1日の『岩手日報』は次のように報じた。「花巻川口町宮沢政治郎氏長男賢治(28)氏は、今回県立花巻農学校の教諭を辞職し、花巻川口町下根子に同士二十余名と新しき農村の建設に努力することになった昨日、宮沢氏を訪ねると<現代の農村はたしかに経済的にも種々行きつまっているように考えられます。そこで少し東京と仙台の大学あたりで自分の不足であった『農村経済』について少し研究したいと思っています。そして半年ぐらいは、この花巻で耕作にも従事し、生活即ち芸術の生きがいを送りたいものです>」と述べ、幻燈会やレコードコンサートなどの「集会」開催や「農作物の物々交換」を行うことを話している。ここでは「本物の百姓」とか「小作人たれ」などの発言は一切なく、むしろ『農民芸術概論綱要』での農民芸術の生活化を強調している。すでに花巻農学校などでは、当局により農民芸術の上演や演奏などの教育実践が不可能になり、賢治としては自由学校の「羅須地人協会」で実践しようとしていたのであろう。
 さらに記事の中で気になるのは、「東京と仙台の大学あたりで自分の不足であった『農村経済』」の研究である。すでに述べたが盛岡高等農林時代からの親友・高橋秀松が、水戸の農学校を早々に辞めて河上肇が当時学部長の京都大学の経済学部に入学していたことも、賢治の花巻農学校の辞職、羅須地人協会の発足の一因だったと推測される。さらにここで「仙台の大学」となれば東北大であろうし、東北大であれば「経済政策論」として農業政策・農政学を担当していた宇野弘蔵の名前が「労農派のシンパ」の宮澤賢治の念頭に浮かばなかった筈はない。秀松と賢治が東北の農村問題の解決を目指し、秀松が品種改良、賢治が土壌改良、この二人の生涯の約束のためにも『農村経済』の研究が急務になっていた。宇野弘蔵もまた、後進資本主義のドイツ留学から帰国、直ちに赴任することになった東北大学で待ち受けていた講座担当が「経済政策論」であり、理科大学で小所帯の法文学部だったこともあり、経済政策の中で農業政策・農政学も重要な研究・教育の課題だった。とくに宇野が経済学の方法と体系化を図るに際し、経済学原理の「原論」、経済政策の「段階論」、それらから区別して「現状分析」の三段階論を提起した。こうしたユニークな体系化は、秀松そして賢治の東北『農村経済』があったと思う。
 戦後、国際的にも有名になった「宇野・三段階論」の方法だが、先ず①原理論は、資本主義の発展とともに経済学は重商主義、重農主義からA・スミスなど古典派経済学となった。その批判としてマルクスの『資本論』が登場、古典派の市場原理主義=流通主義を批判して価値形態、労働力商品化などを明示したが、宇野もすでに1936年和田佐一郎教授の代講として『経済学原論』を講義、そのプリントが残されている。それを見ると純粋資本主義の抽象、流通論、生産論、分配論の篇別構成など、「今日の宇野理論における経済原論の骨格が、明確にこの1936年の講義に示されていた。」(587頁)ドイツ留学以来、レーニン『帝国主義論』とともに熟読してきた『資本論』研究の成果である。②の段階論は、講座担当としての「経済政策論」の講義から生まれたことは言うまでもないが、それも先進国イギリスへの後進国ドイツの対抗的な競争政策ではない。ロシア革命後の現実からも、『資本論』とともにレーニン『帝国主義論』を念頭に、国家論を前提とする重商主義、自由主義、そして帝国主義の金融資本による資本蓄積の「型」、つまり政策の移行論ではなく、歴史的転換の型=タイプ論だった。これもすでに1936年『経済政策論』上巻として刊行されていた。こうした①、②を前提として、さらに東北の『農村経済』としての③現状分析が位置づけられ、三段階論の方法となった点が重要だろう。
 経済学の目的が、世界経済とともに各国経済の現状分析にあることは言うまでもない。マルクス経済学なら、『資本論』を前提にして、日本経済の歴史的現状分析になり、戦前から戦後の「日本資本主義論争」でも、講座派が半封建的な絶対主義的な政策からコミンテルンの32年テーゼにもとずき前近代的性格を重視した。労農派は対抗的に日本資本主義の後進性は容認するが、それは時間的な後進性に過ぎず、いずれは『資本論』の世界に接近するものとした。論争の課題も寄生地主制、高率小作料など農業問題だった。こうした日本資本主義論争に対して、上述の理由から労農派を自認していた宇野弘蔵だが、「東京を中心とした論争」を東北の地域から距離を置きながら見ていた。しかし「農業問題は、イギリスに後れて資本主義化した国々、ことに我が国のごとき後進国にとっては、政治活動に極めて重要な、基本的な関係を有するものになっている。いかなる政党もこの問題に対する一応の見識をもつことなくしては、その政治活動を展開することは出来ない。しかも農村自身を基礎とする独自の政党活動は、原則としてその根拠を有さないという事情と相俟って、農村はあらゆる政党の争奪の目標とならざるを得ない。」(8-9頁)すでに1929年世界金融恐慌のもと、宮澤賢治たちの東北の『農村経済』は、「東北救済」「東北振興」が国家目標となっていた。そうした問題意識のもと「中央公論」1935年11月号に「資本主義の成立と農村分解の過程」が掲載された。
 宇野弘蔵の場合、戦前は『資本論』研究を前提にして、主としてドイツの経済政策をめぐる論文はあるが、東北の『農村経済』など、日本経済の具体的な現状分析について直接に書いたものはない。その点で、上記「中央公論」の論稿が始めてだし、日本資本主義論争についても「これらの見解の対立を検討し理解するに必要と考えられる予備的理論を明確にしておきたいと思うのである」(22頁)と冒頭で断っている。という点で、むしろ現状分析の方法が提起されているし、それが日本経済においても「農村分解の過程」の特徴に他ならない。宇野の現状分析論は、農業問題と極めて密接だし、日本資本主義論争をはじめとして、農業問題こそが現状分析の方法を、つまり原理論や段階論から区別された現状分析の三段階論の方法を生み出したというべきだろう。ただ論文が、日本資本主義論争に対する独自の方法を提起するための「予備的理論」にすぎないために、現状分析として実証的内容が極めて不十分であることは止む得ない。そうした点を補う作業は、戦後の『農業問題序論』などで果たされることになるが、以下方法的特徴だけを紹介したい。
 先ず先進国イギリスの資本主義の発生と農村分解の過程は、『資本論』の資本の原始的蓄積過程の分析で明らかにされている。初期の羊毛工業、確立期の木綿工業にしても、輸入品の拡大を通じて羊毛工業のエンクロージャーが行われたし、綿花の輸入による木綿工業の産業革命だった。1861年「国勢調査」からも農業労働者約100万、繊維工業従業者64万に対し潜在的過剰人口の僕婢が120万もいて、それも婦女子の労働力が拡大していた。農業労働者は、いわゆる被救じつ血民として旧農奴の地位に堕ちた。「機械的大工業と近代的農業とを両極とする典型的資本主義は、近代的プロレタリアを完成すると同時に他方では多数の僕婢と家内工業労働者とを包括するのであるが、それは種々なる形態の相対的過剰人口を基礎として成立するものであった。」(33頁)その上での純粋資本主義の抽象による原理論の経済法則の解明だった。
 後進国ドイツも、たんに先進国を追う移行ではない。「一般に資本家的経営における労働者の吸収能力は前述のごとくその資本の構成のいかんによって決定される。---19世紀の代表的産業たる綿工業は、それ自身その資本の構成が非常に高度であるというのではないが、---婦人少年を使用することができ、---さらにまた後進諸国はこれらの産業の機械化に際して、しばしば従来ほとんど独立の工業化していなかった部面に発展したのであって、---従来の需要量の生産に対して極めて少数の労働者をもって充分なのであって---農村の分解の不徹底はその制限として作用し、これらの産業の発展はかくして直ちに外国市場を必要とすることとなる。そして外国市場における競争能力は、むしろ結局その発展の程度に従ってまた労働者の吸収能力を制限するのである。」(36-37頁)先進国イギリスにしても上記の羊毛工業により「農地が牧場に変わり」、確立期の産業革命の木綿工業は輸入綿花による輸出産業として発展した。後進国ドイツも、石炭・鉄鋼の重化学工業が基幹産業だった。こうしたエネルギー資源を基礎とする産業構造の質的転換、それによる産業組織の変化、さらに労働力の質的変化による労使関係の形成が、経済政策の段階的発展だった。まさに段階的発展は、産業構造、産業組織、そして労使関係の型=タイプの歴史的転換であり、そうした型=タイプによる受け身の「農村分解」が生じたのである。「かくしてわが国のごとき後進国の資本主義の発展が、その出発点においては原始的蓄積の、その発展過程においては産業革命の過程を著しく異った形態において経過するという事実は、まさに上述のごとき後進国に特有なる形態の極端なる表現に外ならないのである。それは一方においては資本主義の顕著なる発展を見ながら、他方においては旧社会形態の分解を比較的緩慢に実現してゆくことの必然性を示すのである。」では、後進ドイツよりさらに遅れた、二重の意味での後進日本資本主義の「特有なる形態の極端なる形態」の「農村分解」とは、どんなものか?
 宇野弘蔵の説明は、まだ「予備的理論」であり、方向性を示すだけで抽象的である。しかし「後進諸国が資本家的生産方法を採用した方法は、保護政策の背後に行われた株式制度を利用する資本の集中によってイギリス資本主義に追付くことにあった。この方法がもたらした資本主義は、しかしたちまちにして資本の形態そのものを変質せしめることになった。いわゆる金融資本は、産業的にはむしろこれらの後進国にとって、その資本主義確立の最も有力なる手段となったのであるが、---この新たなる資本形態は各国の資本主義勢力の各々の集中によって政治的には国民国家に新たなる中心点を形成するのであった。国家主義が新たなる内容をもって主張されねばならなかった。」(39頁)ここでは、後進ドイツの株式資本を利用した金融資本の発展を踏まえながら、二重の後進性の日本資本主義の発展が念頭にあると見るべきだろう。明治維新以来の国家主義的な資本蓄積、1929年世界金融恐慌、治安維持法下の3・15事件、天皇制国家の軍事演習など、宮澤賢治の語った東北の『農村経済』の新たな現実が、宇野弘蔵の念頭にも強く意識されていたと思う。結論的には「かくて後進国の資本主義の成立は、その必然的前提となるべき農村の分解を、一部的にはむしろその発展の結果として、種々なる形を通して、政策によってあるいは促進的に、あるいは停滞的に、一般的には慢性的過程として実現してゆく。勿論それぞれ特殊の国において、この過程自身は特殊の形態をとるのであるが、しかしそれは資本主義そのものが、おのおの特殊の法則によって発展するという意味にとってはならない。資本主義はイギリスにおいても、ロシア、ドイツにおいても、また日本においても同様なる発展の法則をもって発達するのであって、それが阻害され歪曲されるところに各国の特殊性があるに過ぎない。」(41頁)
 繰り返すが、論稿の目的は日本資本主義論争に対する方法的な「予備的理論」の考察に過ぎない。しかし、すでに①『資本論』から純粋資本主義の「原理論」をまとめ「日本においても同様なる発展の法則」を否定できないこと、②後進国ドイツについても、金融資本の蓄積による農業問題の特殊性を強調して「段階論」の方法が提起されている。その上で③同じ後進国とはいえ、金融資本の段階でスタートした日本資本主義の農業問題が提起され、国家主義的な「東北救済」「東北振興」による統合の視点が強調されたのである。その限りでは、方法的「予備的理論」であるだけに、むしろ「原理論」「段階論」から区別された「現状分析」としての宇野・三段階の方法が事実上提示され、新たな東北の『農村経済』への射程が切り拓かれたといえるだろう。こうした三段階論の方法により、二重の意味での後進性を刻印された日本資本主義の東北『農村経済』の現実が分析され、いかに「貧しさからの解放」の道が提示されるのか?しかし、「本当の幸せ」を求めつづけた賢治は1933年9月に亡くなり、宇野弘蔵も1938年の労農派「教授グループ」事件に連座して検挙され、その後は東北大を辞職した。東北『農村経済』の現状分析は、戦後に残されることになってしまった。

by morristokenji | 2019-07-05 15:57