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by morristokenji

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④貨幣の資本への転化

『資本論』第2章の「貨幣または商品流通」では、「貨幣論」と言っても、貨幣の機能だけが論じられ、信用論や金融論との関連は立ち入ってはいません。しかも、貨幣の価値尺度の機能は、その購買手段としては、流通手段の機能と結びついている。流通手段は、とくに通貨の流通量の調節のために、さらに貯蓄手段である「貨幣蓄蔵」が必要であり、さらに手形流通との関連で支払手段を説くことになっている。最後が「世界貨幣」ですが、ここで「世界市場」が登場し、世界市場の価格差を利用して、「貨幣の資本への転化」を説く解説も可能かと思われます。
 流通市場には、確かに国内市場と世界市場の区別があり、商品の価格差としては、複数の国内市場にまたがる世界市場の価格差が大きい。その価格差を利用して商社などが巨利を獲得している。市場がグローバル化し、資本の商業的活動は、世界市場の価格差に根差している現実が判り易いと思います。しかし、『資本論』の純粋資本主義の世界では、流通市場も一般的に説かれるのであり、世界市場も国内市場も区別されない「市場一般」が、抽象されて理論化されなければならない。事実、世界市場だけでなく、国内市場でも価格差は不断に生じているし、資本はそれを利用して利殖を続けているのです。資本は、世界市場、国内市場を問わず、不断に形成される「無規律性の盲目的に作用する平均法則」が実現される場として、市場経済の価格差を利用し商業的活動が展開されるのです。生産過程を基礎とする産業資本についても、資本としては内部に生産過程を包摂しながら、G-W--P--W'-G'として形態的にはG-W-G'の形式で自己増殖しています。

 『資本論』第2篇「貨幣の資本への転化」でマルクスは、資本の一般的形式をG-W-G'としています。商品から出発し、関係概念としての商品価値を価値形態とする。貨幣形態から貨幣の諸機能を展開したマルクスは、商品・貨幣の流通形態として資本も流通形態としてG-W-G'を、「資本の一般的形式」としたのです。具体的には、商品・貨幣の流通市場に絶えず生ずる価格差を利用し、GをG'に価値増殖する運動体としての資本です。ここでマルクスは、労働手段など物的な資材(Stock)を「資本」としてきたスミスなど古典派経済学の資本概念を根本的に批判して、関係概念としての資本の新たな定式化に成功したのです。資本も商品、貨幣とともに、関係概念として資本家と労働者などの階級関係も解明されることになります。マルクスにとって資本概念こそ、資本主義経済の根底をなすものだし、だから『経済学批判』の続編ではなく、本のタイトルを新たに『資本論』と銘打って、自説を世に問うことにしたのでしょう。
 しかしマルクスは、ここでも冒頭の商品論をスミスと同じ労働生産物として、労働価値説を説いてきた。貨幣の価値尺度でも、労働実体による内在的尺度を前提とする貨幣機能だった。そのため流通市場における価格差、いわゆる物価変動が、「無規律性の盲目的に作用する平均法則」として、価格の基準を形成する価値尺度の意義を十分に明確にできなかった。また流通市場における貨幣の諸機能を前提としながら、流通形態としての資本の運動が、商品の価格差を利用しながら、貨幣の諸機能とともに、具体的には「価値尺度」としての購買手段の機能が「一物一価の法則」を実現する。こうした価値法則が実現されるメカニズムの解明も不明確なまま、資本の労働者の剰余労働の搾取による階級支配が強調されるだけに終わってしまっている。以下、その点を検討しましょう。

 「貨幣の資本への転化」では、マルクスは第一節で「資本の一般的形式」を説き、単純な商品流通W-G-Wと対比しながら、資本の価値増殖のためには商品Wの価格差を利用し、G-Wで安く購入し、W-G'で高く販売しなければならない。自己増殖する価値の運動体としての資本の説明です。ところがマルクスは、労働価値説の前提をここでも持ち出し、第二節「一般的形式の矛盾」では、労働価値説にもとづく等価交換からは「こういうことは分かった、すなわち、剰余価値は流通からは発生しえない、したがって、その形成には、何か流通そのものの中で見えないあることが、その背後に行われているに相違ないということである」として、こう述べる。「資本は流通からは発生しえない。そして同時に流通から発生しえないというわけでもない。資本は同時に、流通の中で発生せざるをえないが、その中で発生すべきものでもない」として、有名な「Hic Rhodus,hic salta!(ここがロドスだ、さあ飛べ)」として、第三節「労働力の買いと売り」に飛躍してしまうのです。
 しかし、こうした説明では、そもそも何のために「資本の一般的形式」G-W-G'を説いたのか?初めから労働力商品の売買を説明し、産業資本形式を説いてもよいのではないか?資本の一般的形式G-W-G'を持ち出しても、それを等価交換の法則で否定するために持ち出しただけではないか?そのため資本の一般的形式は、「前大洪水時代の姿である商業資本や高利貸資本」の存在に結び付けたり、先に述べた「世界貨幣」から世界市場の価格差を説明することになって、理論的な「貨幣の資本への転化」の説明にはならないのではないか?いずれにしても『資本論』の説明では、理論的説明にはならず、そのために歴史的な単純商品社会の想定や世界資本主義論の歴史観などを産むことになってしまうように思われます。そして、その原因は『資本論』冒頭からの労働価値説による等価交換の法則のドグマにあるように思われるのです。

 流通市場には、時間的にも空間的にも、不断の価格差が存在する。その価格差を流通形態としての資本は、上記のようにWを安く購入G-Wし、それを高く販売W-G'して、GをGに'価値増殖する。この場合、とくに注意しなければならないのは、安く購入するG-Wは、それが活発に行われれば行われるほど、価格を上昇させ需要を減退させる。逆に、高く販売するW-G'は、供給の増大により価格を引き下げる傾向をもつ。つまり、価格差があればあるほど、資本の運動は活発になるが、結果的には価格が上昇して需要が低下し、逆に供給は増大して価格が引き下げられる。つまり、価格差を消滅させるのが、自ら需要し供給する資本の運動に他ならない。まさに「一般的形式の矛盾」ではないか?流通形態としての資本の一般形式G-W-G'は、価値増殖の運動体として需要と供給を統合しながら、安い価格を引き上げ、高い価格を引き下げる。結果的に需要と供給を統合しながら、価格差を解消し「一物一価の法則」を実現するのです。
 貨幣論では、もっぱら貨幣の機能によりG-Wの需要、購買力の裏付けのある有効需要のサイドから、価格差を解消する機能を説明してきた。それに対し、資本の一般的形式では、商業的機能G-W-G'に加えて、さらに金融的機能G➛G-W-G"➛G'により機能が補足される。その上で需要サイドだけでなく、供給W-G'の供給サイドからも価格差を解消する。すでに資本主義経済の商品形態は、労働生産物や資本の生産物だけではない。商品経済的富の根源である労働力や土地・自然エネルギーも価値形態を与えられて商品です。資本は供給サイドから、第三節「労働力の売買」を通じて、生産過程Pを通してW-G'を進める。資本の産業資本形式G-W---P---W'-G'の登場ですが、ここで初めて価値関係が生産過程の労働=価値実体と具体的に結びつくことになる。価値法則が「一物一価の法則」として、労働価値説の論証が可能になるのです。

 ここでは、『資本論』の「労働力の売買」の説明で、ほぼ十分だと思われます。産業資本はG-Wで労働力商品Aを購入し、労働者を雇用する。資本の購入した労働力商品の使用価値は労働であり、生産過程の労働は、人間労働として経済原則からも必要労働だけでなく、剰余労働を行う能力を持ち、したがって剰余価値を生産する。人間は「道具をつくる動物」として、必要労働+剰余労働を行う。しかも資本主義経済の労働力は、単純な労働力として「何でも生産」し供給できる。資本は有効需要のサイドだけでなく、産業資本として供給サイドからも全面的に供給を調節して、需要と供給の統合を図り、結果的に価格基準を「一物一価の法則」として実現する。しかも、それは必要労働+剰余労働として、労働の関係に基づき価格基準が形成される以上、たんなる購買手段としての外在的尺度にとどまらず、貨幣の価値尺度機能もまた、内在的に尺度されることになるのです。
 ただ、ここで問題になるのは、『資本論』のように冒頭から労働生産物を商品として、労働価値説を論証してきた。さらにマルクスの労働価値説の論証を批判して、「資本の生産物」に商品を限定した宇野理論にしても、ここで「ロドス島」に飛躍して労働力商品Aを外部から導入しなければならなくなってしまう。歴史的には労働力は、人間の能力であり、土地・自然エネルギーとともに、いわゆる「資本の本源的蓄積」により、中世封建主義の制度的崩壊により初めて商品化した。しかし、ここ『資本論』は純粋資本主義の世界であり、「歴史的・論理的」に世界市場の発展とエンクロージャー・ムーブメント(土地囲い込み運動)など、資本主義生成の歴史的過程を持ち出すわけにはいかない筈です。そのためにマルクスは、上述のように「資本の一般的形式」G-W-G'の矛盾をいきなり設定し、しかも「ロドス島」に命がけの飛躍を試みて、労働力商品を導入したのです。しかし、後に改めて取り上げますが、『資本論』では第7篇「資本の蓄積過程」第24章「いわゆる本源的蓄積」を説き、「貨幣の資本への転化」論を補足する。さらに「資本蓄積の歴史的傾向」として、単純商品生産史観ともいうべき「所有法則の転変」の歴史観を述べているのです。「ロドス島」での命がけの飛躍の代償は大きいのです。

 「論点」世界資本主義論の「虚妄」
 貨幣論の最後を、「貴金属」としての金ではなく、「世界貨幣」にしたこともあるでしょうが、「貨幣の資本への転化」を歴史的に世界市場の前期的な商人資本の運動に求める見解が有力です。マルクスは、『資本論』では流通形態としての商品、貨幣に続いて、資本も「一般的形式」を流通形式G-W-G'としていました。しかし、純粋資本主義の対象で流通形式を具体的に展開できずに、労働価値説に還元して「命がけの飛躍」に身を投げてしまいました。
 『資本論』の労働価値説の論証に疑問を提起した宇野理論ですが、ここ「貨幣の資本への転化」論では、商品、貨幣を流通形態として価値形態論を重視する立場から、『資本論』の資本の「一般的形式」を高く評価します。にもかかわらず、ここでは純粋資本主義の抽象を否定するかのように、前期的な商人資本を突然持ち出し、「G-W-G'の形式は、具体的には資本主義に先だつ諸社会においても、商品経済の展開と共に、あるいはむしろその展開を促進するものとして現れる商人の資本に見られるのであるが、それは商品を安く買って高く売るということにその価値増殖の根拠を有するものである。多くの場合、場所的な、あるいは時間的な価格の相違を利用するか、あるいはまた相手の窮状乃至無知を悪用するか、いずれにしろかかる条件を前提とする商人の資本家的活動によるものであって、資本自身がその価値を増殖するものとはいえない。」(『経済原論』40-41頁)
 ここでは、「具体的には」と限定していますが、前期的な商人資本によって資本の「一般的形式」を説明しています。しかも、一方で「場所的な、あるいは時間的な価格の相違」を利用し「安く買って高く売る」ことに価値増殖の根拠を求める点を認める。しかし他方、それは「相手に窮状乃至無知を悪用するか、いずれにしろかかる条件を前提とする商人の資本家的活動によるものであって、資本自身がその価値を増殖するものとはいえない」として、さらに「資本に対する資本」としてのG---G'前期的な高利貸資本を持ち出し、「かかる形式をとる限り資本は、その価値増殖の基礎をなす相手を、いいかえれば自己の前提を自ら破壊することになる」と主張し、マルクスとは違った意味でしょうが、ここで「資本の生産物ではない」労働力商品を前提とする産業資本形式に「命がけの飛躍」をします。『資本論』は労働生産物ではないために、宇野理論は資本の生産物ではないために、冒頭商品から土地自然と共に労働力を排除していた。そのため価値形態論を基礎に資本を流通形態としながら、ここで「命がけの飛躍」ならぬ「身投げ」を余儀なくされてのではないか?
 しかし、とくに宇野理論は、純粋資本主義からの抽象により、流通形態の資本を説く以上、ここで前期的な商人資本や高利貸資本を「具体的にも」説明するわけにはいかない筈です。場所的、時間的な価格差は、純粋資本主義でも絶えず生じている。安く買って高く売るのは、産業資本も同じであり歴史的な商人や高利貸に登場してもらう必要はない。「無規律性の盲目的に作用する平均法則」としての価値法則は、不断の価格差の形成と「資本の一般的形式」を成立させながら、しかしそうした貨幣の機能や資本の運動を通して「一物一価」の法則が実現される。そこに価値法則の形態的特徴があるのであって、それを無視して世界市場での前期的資本を想定することは、「貨幣の資本への転化」の必然性を曖昧にしてしまう。ここで「命がけの飛躍」を避けようとすれば、純粋資本主義の抽象を否定して、より大きな価格差を求めながら世界市場の拡大による「世界資本主義」の拡大発展、さらに「グローバル資本主義」の想定に進み、「世界国家」なきグローバル化などに巻き込まれ、電脳化などを妄想するだけになるでしょう。


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by morristokenji | 2017-08-29 20:53
 『資本論』では、商品論に続いて第3章で「貨幣または商品流通」を論じています。その最初が「価値尺度」ですが、たんに一般的な価値表現、つまり価格形態の表現材料の貨幣機能ならば、すでに価値形態論の最後で明らかにされている。とすれば、貨幣論としては、貨幣商品による商品の購買機能として、価値尺度を論ずることになる筈です。しかし、ここでも労働価値説が前提されているために、マルクスは一方で、商品の労働生産物として価値実体が、貨幣による価値によって内在的に尺度される。すなわち、「価値尺度としての貨幣は、商品の内在的な価値尺度である労働時間の必然的な現象形態である。」「貨幣は、人間労働の社会的化身として、価値の尺度である」と述べています。
 しかし、他方で一般的等価物としての貨幣は、まず商品の価値を価格として表現し、「確定した金属重量としては、価格の尺度標準である。」ここではまだ価格形態であり、貨幣は観念的形態にとどまっている。また尺度標準は、「不変の価値尺度」ではなく、「変化する尺度」で「変化する価値」を尺度せざるを得ない。その上での尺度機能になりますが、貨幣が一般的等価として商品を購買し、価格を実現することによって、外在的に尺度することになる。そこでマルクスは、「価格と価値の大きさとの量的不一致の可能性、すなわち価値の大きさに対する価格偏差の可能性は、かくて価格形態そのものの中にある。このことは少しもこの形態の欠陥ではなく、逆にこれを一つの生産様式によく当てはまる形態にするのである。この生産様式では、法則は、もっぱら無法則性の盲目的に作用する平均法則としてのみ貫かれうるのである」と述べています。

 マルクスが、ここで価値形態を前提にして、資本主義経済の法則性の特徴を、「法則は、もっぱら無法則性の盲目的に作用する平均法則としてのみ貫かれうる」と定式化した点は、極めて重要です。マルクスの価値法則は、たんなる等価交換の法則ではないし、たんなる平均法則でもない。「無法則性の盲目的に作用する平均法則」であり、無政府的ではあるけれども「無法則」ではない。「盲目的に作用する平均法則」、それが価値形態論から展開された「価値法則」の特徴であり、さらにマルクスは価値と価格の量的乖離の必然性にとどまらず、ここでは「質的乖離の必然性」にも説き及んでいる。「何ら価値をもたない未耕地の価格のような想像的な価格形態も、現実的な価値関係、またそれから派生した結びつきを隠していることがある。」否、「隠していることがある」のではないのです。そもそも商品形態は、古典派経済学やマルクスのように、たんなる「労働生産物」や「資本の生産物」だけではなく、富の根源となる労働力や土地・自然・エネルギーをも商品形態、したがって価値形態を与えているし、労働力も土地・自然も市場で貨幣が購買し価値尺度するのです。
 こうした価値尺度機能からすれば、貨幣が商品を購買し「盲目的に作用する平均法則」が、どのように具体化するのか?マルクスは、貨幣の外在的な尺度機能については、「価値の観念的な尺度の中に、硬い貨幣が待ち伏せている」として第2節「流通手段」の機能に移行しています。確かに貨幣の購買手段の機能も、貨幣が各種の商品を購買し商品流通を形成する中で具体化する。しかし、価値形態を前提に、価値の観念的な尺度が現実に具体化するさい、商品の需要と供給と価格の変化が生じ、そこに上記の「盲目的に作用する平均法則」が示される。その解明こそが、貨幣の外在的な価値尺度になるはずです。その点では、マルクスの説明は中途半端に終わっているし、ここで補足的説明が不可欠でしょう。

 貨幣が商品の価値を購買によって尺度するにあたり、まず前提されるのは、価値形態の貨幣形態ですが、貨幣形態は相対的価値形態の商品が、等価形態である一般的等価物を観念的に表示する。具体的に商品取引の場を想定すれば、商品が自己の価値表示として、例えば「一金○○円」という正札を下げる状態に他ならない。色々な商品が正札をぶら下げながら、貨幣所有者である顧客の購買を期待して待機する市場の状態に他なりません。労働力商品なら、差し詰め「就活」でしょうか!
 その上で、商品の側から積極的に、押し売りは出来ない。商品は、価値表現については積極的だが、販売は受け身で、貨幣に買って貰うしかない。言い換えれば、貨幣が積極的に購買手段として購買する。その際、取引に当たり、購買者と販売者は「値切り小切り」の商談をするが、最終的に価格は貨幣の購買手段の機能で決定されます。この際、商品の販売者は実現されつつある価格を見ながら、価格が上昇するなら供給を増加させる。いわゆる供給曲線は右肩上がりの傾向を示します。また、商品の種類により違いが出てきますが、需要する側は反対に、価格が上昇するなら、購買を差し控えるから、右肩下がりの曲線になる。したがって、通常の状態であれば、右肩上がりの供給曲線と右肩下がりの需要曲線の交点で価格が均衡する傾向がみられることになる。
 このように価格は、需要と供給の相互の関係で決まりますが、しかし価格の決定は貨幣の側にあり、貨幣の購買手段が価格を決め、価格が均衡し価格の基準が形成されます。価格基準の形成は、一般に「一物一価の法則」と呼ばれていますが、マルクスの「価値尺度」は、購買手段が商品の購買を繰り返し、価格変動になかで価格基準が形成され、「一物一価の法則」が実現されることを指すと見ていいでしょう。マルクスが、上述のように「盲目的に作用する平均法則」もまた、貨幣の価値尺度機能が商品の購買を繰り返しながら、価格基準が形成される、そうした無政府的な傾向の中で、それを通して法則が実現される特徴を説明したものと思われます。

 資本家的商品経済の「価値法則」は、マルクスが『資本論』冒頭の労働価値説による等労働量の交換の法則ではないのです。したがってまた、単純商品生産社会の商品生産者の「自己の労働に基づく商品生産」の所有法則でもない。価値尺度による「無政府的」で「盲目的に作用する平均法則」としての「一物一価の法則」として実現されます。しかし、言うまでもなく貨幣の購買機能は、貨幣が商品市場でマルクスも事実上、流通手段の機能として説明していますが、商品流通を形成する流通手段の機能、さらに「貨幣としての貨幣」の蓄蔵貨幣=貯蓄手段の機能、さらに支払い手段の機能による仕組みの中で、購買手段の機能も具体化する。さらに言えば、商品の供給を調節する点では、「貨幣の資本への転化」による産業資本の運動が、価値尺度の機能を支える機構的裏付けにならざるを得ないのです。
 「価値法則」は、形態的には価格変動の基準が形成され、「一物一価の法則」として実現される。しかし、価値法則の実体そのものは、「貨幣の資本への転化」を通して、産業資本の運動形式、とくに「労働生産物」ではない、しかし資本家的商品経済的富の根源にある労働力商品の価値規定により、「商品の再生産に必要な労働量」によって決定されることになる。そこで、貨幣論の諸機能については、『資本論』の多くの研究に譲り、ここでは問題の焦点になる「貨幣の資本への転化」について、とくに『資本論』の純粋資本主義の抽象による論理によって解明することにしましょう。

「論点」限界効用逓減の法則の位置づけ
 マルクスの等労働量交換の法則が「同義反復」として退けられたのに反し、労働価値説に対して限界効用理論が主張されてきました。商品の使用価値に対する人間の欲望が限界的に逓減する傾向を持つ。それにより価格変動を説明する効用価値説が主張されました。とくに近代経済学のミクロ理論として、上記の需要曲線、供給曲線を利用して、価格変動が説明されています。その際、限界効用逓減の法則が採用されているようです。ここでミクロ経済学の解説はできませんが、商品種類によって、また取引の状況により差があるにしても、商品の使用価値に対する限界効用が逓減する傾向は、ごく常識的に容認できると思います。
 商品の価値形態ですが、すでに説明したとおり相対的価値形態の商品の価値が、等価形態に立つ商品の使用価値の量によって表現される。商品の2要因が、相対的価値形態の商品の積極的な価値の表現、等価形態の商品は使用価値が価値の消極的な表現材料の提供に分化する。X量・商品A⇒Y量・商品Bですが、商品Aの所有者はAを商品として市場に供給しつつ、商品Bの使用価値を需要する形態で、AとBの価値関係が形成される。したがって、Aの所有者のBの使用価値に対する欲望がが重要だし、欲望を充足する使用価値の量が重要です。例えば、『資本論』に出てくる「20エレのリンネル=半着の上着」などは、Aの所有者の上着の使用価値への欲望を無視したナンセンスな表現形式です。半着の上着は上着でもないし、使用価値もない。
 マルクスの価値形態論は、簡単な価値形態、拡大された価値形態、一般的価値形態と展開されていますが、それは上記の商品AとBによる供給と需要の対立関係を明らかにするものと思います。一般的価値形態では、等価形態としては「一般的等価物」が出てくる。価値物としてBは直接交換可能性、つまり「購買力」与えられる。その代り相対的価値形態のAは、使用価値として供給できる。貨幣形態では、一般的等価物のBの地位が独占的に固定され、逆にAは使用価値の単位量、貨幣商品が金だとすれば1着の上着⇒2オンスの金。1トンの鉄⇒4オンスの金など、相対的価値形態として供給される商品は、その使用価値の単位量が、逆に等価形態の貨幣商品・金は、量的に分割・合成が可能なので、2オンス、4オンスなど価値量の貨幣表現、つまり価格表現になります。
 このように価値形態論で、市場に登場する商品の需給関係が説明されるとすれば、貨幣は直接交換可能性としての購買力が与えられる以上、いわゆる「有効需要」の担い手になる。逆に、一般商品は供給しやすいように、単位量の使用価値として「正札」を付けて市場に出る。そして上記のように、価値の貨幣表現である価格に対しては、右肩上がりの供給曲線、逆に需要の方は、価格に対し右肩下がりの需要曲線となり、多くの商品は「限界効用」が低下することになるでしょう。価格は、需要曲線と供給曲線の交点になるでしょうが、購買の決定は購買力による有効需要の担い手としての貨幣の側にある。いずれにせよ、いわゆる「限界革命」により限界効用が主張されましたが、価値形態論により需要・供給の関係が説明されれば、理論的にはマルクス価値論の全面排撃にはならない筈です。むしろ価値形態論の枠組みの中に収められるように思います。
 

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by morristokenji | 2017-08-13 15:43
②価値形態論と「交換過程」論
 マルクスは、価値形態論を説明した後、「商品の物神的性格とその秘密」の中で、こんな注記をしています。「古典派経済学に、商品の、とくに商品価値の分析から、まさに価値を交換価値たらしめる形態を見つけ出すことが達成されなかったということは、この学派の根本的欠陥の一つである。A・スミスやリカードのような、この学派の最良の代表者においてさえ、価値形態は、何か全くどうでもいいものとして、あるいは商品自身の性質に縁遠いものとして取り扱われている。その理由は、価値の大きさの分析が、その注意を吸いつくしているということにあるだけではない。それはもっと深いところにある。労働生産物の価値形態は、ブルジョア的生産様式の最も抽象的な、だがまたもっとも一般的な形態であって、その生産様式は、これによって社会的生産の特別なる種として特徴づけられ、したがって同時に歴史的に特徴づけられているのである。したがって、もし人あって、これを社会的生産の永久的な自然形態と見誤るならば、必然的に価値形態の、したがってまた商品形態の、さらに発展して、貨幣形態、資本形態等の特殊性をも看過する。」
 少し長い引用ですが、スミスが本源的購買貨幣とした労働で、自然から労働生産物を購買して、生産過程を流通過程とした素朴な流通主義の誤り、それが価値形態、貨幣形態、さらに資本形態、そして労働力の商品化をも看過した根本的誤謬と見ている。とすれば、マルクスの方も、商品形態をたんなる労働生産物に還元しないで、労働力や土地・自然を含む商品形態、そして形態規定から価値形態を展開しなければならなかったのではないか?その点が不明確なために、マルクスの価値形態論もまた、理論的に多くの不十分な点を残しています。とくに労働生産物が商品交換で等置されれば、等量の労働により相互の等価交換が行われる。そのため価値形態論で提起される相対的価値形態と等価形態の役割の違い、つまり相対的価値形態の商品の側の「一方的価値表現」といった形態的特徴が不明確になってしまう。古典派経済学と同様、商品交換は商品のたんなる相互交換であり、したがってまた貨幣も、商品交換の便宜的媒介物に過ぎなくなってしまうのです。
 
 マルクスは一方で「蒸留法」で労働価値説を論証し、古典派経済学の価値実体を継承しますが、同時に他方で商品価値を価値関係として、価値形態を明らかにしました。すでに価値形態として貨幣形態を導き、貨幣の必然性を論証しています。にもかかわらず第2章として「交換過程」を説明し、第1章を補足するのです。そのため第1章と第2章の関係、第2章で何を補足しようとしているのか?色々議論が出ることになる。その論争には立ち入りませんが、マルクスが第2章「交換過程」を論じた理由を、ここでは改めて探って見ることにしましょう。
 「商品は、自分自身で市場に行くことができず、また自分自身で交換されることもできない。」とマルクスは述べ、まず「商品所有者」を登場させます。しかし、価値形態を論ずるときも、商品所有者はいたはずであり、商品所有者の商品関係、価値関係、それが価値形態だったはずです。それなのに、ここで交換過程を論ずる段になって、わざわざ商品所有者を登場させるのは何故か?商品所有者の法的関係、「私有財産所有者」としての認知が必要としているのでしょう。その認知の上で、交換に当たり「商品はそれが使用価値として実現される前に、価値として実現されねばならない」、と同時に「他方において、商品は、それが価値として実現される前に、使用価値であることを立証しなければならない」と述べ、古典派経済学と同様に商品交換の矛盾を提起します。

 しかし、この交換の矛盾は、すでに価値形態論で明らかにされている筈です。しかしマルクスは、ここでさらに「直接的な生産物交換」=物々交換を持ち出し、その拡大の中で「交換の絶えざる反復は、それを一つの規則的な社会的過程とする。」そして、一般的等価となる「第三の商品」が便宜的媒介物として登場し、貨幣商品となる。こうした商品経済の歴史的説明に関連してですが、「商品交換は、共同体の終わるところに、すなわち、共同体が他の共同体または他の共同体の成員と接触する点に始まる」とか、「金と銀はほんらい貨幣ではないが、貨幣はほんらい金と銀である」といった、まことに興味深い示唆に富んだ名言も出てきます。
 このように物々交換から商品の交換過程の歴史的な拡大と発展を通して、マルクスは貨幣商品の歴史的形成を説明し、価値形態論の論理を歴史により裏付けようとしているのでしょう。しかし、この歴史的・論理的説明も、出発点が労働生産物の「商品所有者」であり、商品所有の歴史的根拠を求めることになってしまう。労働価値説が前提になっている以上、貨幣物神の説明も次のようになります。「土地の内奥から取り出されてきたままの金と銀とは、同時にすべての人間労働の直接的な化身である。このようにして貨幣の魔術が生まれる。人間がその社会的生産過程で、たんに原子的な行動を採っているにすぎぬということ、したがって、彼らの規制と彼らの意識した個人的行為とから独立した彼ら自身の生産諸関係の物財的な姿は、まず、彼らの労働生産物が一般的に商品形態をとるということの中に現れる。したがって、貨幣物神の謎は、商品物神の目に見えるようになった、幻惑的な謎に過ぎない。」

 ここでは、貨幣商品もまた金や銀の労働生産物に還元され、貨幣物神も「労働生産物が一般的に商品形態をとるということの中に現れる」として、価値形態論を通して解明された「貨幣物神」は、たんなる「商品物神」論に解消されてしまうのでしょう。古典派経済学は、スミスのように生産過程を流通過程化して、労働を「本源的購買貨幣」として流通主義に陥った。マルクスは、価値形態論を展開し、上記のように貨幣形態、資本形態、そして労働力の商品化を説明しようとしているはずです。しかし、マルクスの第2章「交換過程」論は、価値形態の論理を商品所有者による商品所有の法的根拠を問いながら、交換過程と貨幣の歴史的発生に踏み込んでいる。価値形態論の論理と歴史の統一を図ろうとしたのでしょうが、それは古典派の流通主義への逆転だったように思います。
 さらに言えば、マルクスがここで商品所有者による商品所有の根拠を問いながら、商品を労働生産物に還元している。ここでの商品所有者は、労働生産物の所有である以上、商品所有者はいわゆる「単純商品生産者」であり、単純商品生産者の社会の「交換過程」であり、『資本論』が抽象した純粋資本主義の世界ではない。しかし、周知のように歴史的に単純商品生産社会は存在しなかったし、その交換過程も存在しなかった。スミスは「初期未開の社会」から出発し、事実上、単純商品生産社会で労働価値説を展開した。マルクスもここで労働価値説を継承し、単純商品生産社会で「自己の労働にもとづく個人的所有」の「所有法則の転変」を論ずることになりますが、そうした「単純商品生産史観」については、いわゆる「所有法則の転変」の問題として後述しましょう。

 「論点」労働価値説と私的所有
 ここ「交換過程」論で、マルクスが商品の「所有者」を持ち出す有力な理由は、労働価値説と商品所有者の私的所有権の法的な認知が必要だったからだと思われます。マルクスは労働価値説をA・スミスなど古典派経済学から継承しましたが、労働価値説そのものは、さらに古くW・ぺティの『租税降納論』(1662)などにも見られます。さらに自然法との関連で労働価値説により私的所有権を根拠づけたのは、J・ロック(1632~1704)の労働価値説だと言われます。ロックは「イギリス経験論の父」と呼ばれた哲学者、非常に多才であり政治学、法律学、経済学などの著作があります。労働価値説の源泉と言われる彼の労働価値の考え方ですが、労働する当人の果実として、自然界の共有物から切り離され、当人の私的所有が認知される。必要の限度を超えた財産の私有も、貯蔵が可能な貨幣の価値を承認する社会契約により根拠づけられる。
 こうした個人的労働による私的所有権の認知こそ、すでに述べたとおりA・スミスの場合、本源的購買貨幣としての労働による自然からの購入として根拠づけられる。スミスの『国富論』では、商品交換を分業により説明しますが、分業労働により私的所有も認知された。初期マルクスも、エンゲルスとともに「経・哲草稿」「ドイツ・イデオロギー」で、スミスなど古典派経済学の批判的継承を進めました。とくにヘーゲル左派の立場から、すでに疎外論が前提されていますが、例えばスミスなど「国民経済学」の場合、「私的所有は、人間が[主体であると]同時に自己に対して対象的となり、同時にむしろ疎遠な非人間的な対象としての自己になるということ、人間の生命の発現がその生命の外化であり、人間の現実化がその現実性剥奪、すなわち一つの疎遠な現実性であることの感性的表現に過ぎないが、---」(『経済学・哲学草稿』岩波文庫訳136頁)と述べられている。
 ここでは、疎外の意味が必ずしも明確ではないが、人間が労働という主体的活動を通して「対象的」となること、しかも対象化された労働に他ならない生産物が疎遠な形で処理される事実にそくして、疎外が主張されています。「疎外された労働」の概念整理に従えば①労働が生産物として対象化されている事実、しかも②分業労働により交換を通じて、生産者から生産物が手放されている事実、それらを指しているように思われます。こうした個人的労働と個人的所有の関係から、さらに分業労働と個人的所有を単純商品生産社会の生産関係とする。その発展の上で資本主義生産では工場制度など、生産の社会化が進む。生産の社会化に対して、所有の個人的性格の矛盾が深まり、「否定の否定」から社会的生産に対する社会的所有が提起される『資本論』の「所有法則の転変」のトリアーデが導かれることになる。その検討は『資本論』第1巻、第6篇の資本蓄積論で立ち入って検討しましょう。

 いずれにしても、ここ「交換過程論」における商品所有者の登場、そして個人的的労働による個人的所有の認知は、労働価値説に基づくマルクスの歴史認識として極めて重要です。初期マルクスとエンゲルスの労働疎外論が、マルクスの唯物史観として『資本論』の世界に大きく影響していますが、こうした労働価値説の受容が、古典派労働価値説の批判的継承としての「価値形態論」、さらに「労働力商品化論」など、流通形態としての商品、貨幣、資本の理論的展開といかなる関係を持つか?『資本論』最大の論点として、ここで提起されていると思われます。なお、私的所有と商品経済については、『国富論』だけでなくスミス『グラスゴー大学講義』、初期マルクス・エンゲルスについても、「草稿」とともに「ドイツ・イデオロギー」などの検討も必要です。それについては、旧稿に属するが拙稿「私的所有と商品経済―スミスとマルクス―」)(東北大学教養部紀要第2号所収)を参照のこと。


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by morristokenji | 2017-08-11 13:57
① 冒頭「商品論」について
『資本論』第1巻第1章の冒頭「商品」については、その2要因である使用価値と価値の中、とくに価値について、労働価値説の論証が問題になってきました。マルクスは近代社会の資本主義経済の富について、それは「巨大なる商品集積」として現れ、その富の細胞ともいうべき「成素形態」を商品としたのです。
 
 商品の使用価値は、売られるから「他人のための使用価値」ですが、その属性により人間の欲望を満たす、いわゆる商品の用途に過ぎない。用途として役だっかどうかを確かめれば、それで足りるのです。安全性については、検査すればいいでしょう。
 しかし価値の方は、「交換価値」として現れますが、その交換力は使用価値のように確かめられない。検査もできない。価値は、商品の物それ自身、つまり物的対象ではないからです。
 
 経済学を体系化した「古典派経済学」の代表者A・スミスは、資本主義の発生期の重金主義や重商主義の学説が、金や「貨幣的富」を重視したのを批判した。商品はその所有者が自然から労働によって買ってきたと考え、労働をoriginal purchasing money「本源的購買貨幣」とした。ここから価値を労働によって規定する「労働価値説」が主張されることになったのです。
 しかし、このスミスの説明は明らかに間違っている。商品所有者が労働によって自然から買うのではなく、生産するのです。スミスは生産を、流通にしてしまっている、素朴な流通主義の主張に過ぎない。モノの生産と流通とは明確に区別しなければならないのに両者を混同し、商品経済そして資本主義経済を絶対視したのです。
 
 さらに素朴な流通主義からすれば、本源的購買貨幣の労働で生産=購入する商品は、すべて労働生産物に限定されざるを得ない。スミスの『国富論』(1776年刊)の富は、労働生産物としての富であり、労働生産物ではない土地・自然、エネルギーや人間の労働力は商品として扱われない。それゆえ不動産市場で取引される土地・自然や労働市場で売買される労働力を対象から除外してしまう商品論であり、価値論です。ここから素朴な労働価値説が主張されたのです。

 マルクスの『資本論』(1867年刊)は、その副題が「経済学批判」であり、スミスなど古典派経済学批判として書かれました。約7年前の1859年に刊行された『経済学批判』では、まだ曖昧だった「価値形態」とともに、『資本論』では、労働力の商品化も明確になり、価値と生産価格の違いも理論的に解明された。とくに労働力の商品化により、生産と流通との差異が明確化され、スミスなどの素朴な流通主義を克服して、資本の価値増殖を剰余価値の生産として理論化することに成功したのです。

 ところが、マルクスは純粋資本主義を抽象して『資本論』を書き、資本主義経済の富である商品集積について、「ブルジョア社会にとっては、労働生産物の商品形態または商品の価値形態は、経済の細胞形態である」と述べています。一方で商品形態、価値形態を強調しながら、ここで彼もまた、商品経済的な富をスミスなど古典派経済学と同じ「労働生産物」としてしまっている。このように商品を労働生産物に還元したうえで、いわゆる「蒸留法」で労働価値説を展開するのです。「いま、商品体の使用価値を無視するとすれば、それになお残る属性は、労働生産物ということのみである。」しかも、ここで使用価値を捨象する以上、「その中に現されている労働の有用な性質も消失する」から、「それは同じ人間労働、抽象的人間労働に通約される」。それが「社会的実体の結晶としての価値」であるとして、労働価値説が定式化されることになったのです。
 
 しかし、この「蒸留法」と呼ばれるマルクスの論法は、明らかに形式論理としても、たんなる同義反復・トートロギ―に過ぎない。古典派と同様に、あらかじめ労働生産物だけを取り出しておいて、共通なものは労働だというのは明らかに同義反復にすぎず、論証にはなっていない、というマルクス批判を呼び起こしたのです。労働生産物に限定し、労働価値説が主張されれば、労働生産物ではない労働力や土地・自然は、商品論の対象には含まれないことになる。不動産市場も労働市場も無視され、商品経済的富ではなくなってしまう。

 労働力や土地・自然、エネルギーも、たんなる労働生産物ではないが、言うまでもなく富の根源であり「成素形態」です。土地・自然も労働力も、労働生産物とともに商品として、日々大量に取引されている。労働力は労働市場で取引され、土地・自然は「不動産市場」で頻繁に取引されるのが資本主義経済です。とくに労働力商品は、無産労働者にとっては、自分で使うことができない100%「他人のための使用価値」です。資本主義経済の商品経済的富は、労働生産物だけでなく、富の根底をなす労働力や土地・自然を含み、したがって労働価値説を超えた、新たな商品価値論が必要だった。そこにまた『資本論』の古典派経済学批判の意義もあった筈です。
 
 マルクスの商品論、その価値論は、純粋資本主義が対象である以上、単ある労働生産物だけではない。労働力や土地・自然、エネルギー(特に石油などの化石燃料)までも、商品として大量取引される、そして生産をめぐる人間関係=生産関係が形成される、その関係概念として価値関係が提起されているはずではないか?だからマルクスも、一方で上記のように労働生産物としながら、同時に他方では、交換価値をたんなる交換比率としてではなく、関係概念として価値形態としたのです。そこに「経済学批判」の意味があったはずです。マルクスの価値形態論こそ、労働生産物を包み込みながら、さらに労働生産物ではない労働力や土地・自然・エネルギーをめぐる近代社会の価値関係を明らかにしているのです。

「論点」労働価値説の論証を巡って
 マルクスの労働価値説については、その論証がトートロギーに過ぎないという批判をはじめ、価値と生産価格の矛盾など、多くの批判が集中して来ました。代表的な批判は、ドイツ・オーストリア学派のベーム・バウェルク『マルクス学説体系の終焉』(昭6年、日本評論社「社会文庫」)によるものであり、とくに戦前はマルクス批判と反批判が価値論論争として激しく闘われました。戦後も論争は引き継がれましたが、その中でマルクス擁護の立場ながら、価値形態論の見地を提起した宇野弘蔵の主張、戦前・仙台の東北大で生まれた「宇野理論」が登場しました。
 『資本論』の価値論は、古典派労働価値説を継承しながらも、その単ある継承ではない。商品形態、価値形態を重視する立場からの継承であり、批判的継承である。とくに『資本論』冒頭の商品は、たんなる労働生産物ではなく、流通形態としての「商品的富」である点から、宇野は価値形態論から貨幣、資本を流通形態として展開しました。そして、流通形態の資本(その一般形式がG-W-G')であり、そこで流通形態としての労働力の商品化と結びついて、その特殊性から労働・生産過程による価値形成・増殖過程で価値が労働実体と結びつく。ここで価値形態が価値実体と結びついて、労働価値説が独自の形ながら論証されると主張しました。
 この宇野による労働価値説の論証については、別項でまた取り上げますが、冒頭商品を流通形態、価値形態を重視して、古典派労働価値説を厳しく批判しながら、労働力商品、そして土地・自然・エネルギーの商品は排除されている。冒頭商品は、たんなる労働生産物ではないが、「資本の生産物」に限定される。その理由は不確かですが、とくに労働力については、その特殊性が強調されています。労働力は、資本の生産物ではないし「本来商品として生産されたものではない」とまで言い切っている。そして、「資本」に対する「賃労働」として、「土地所有」とともに取り扱われ、三者が対立する構図(「資本・土地所有・賃労働」のトリアーデ)が前提されているように見受けられます。この構図は、マルクス『資本論』以前の『経済学批判』の経済学批判体系の「プラン」に属するものです。
 純粋資本主義が抽象された『資本論』の世界では、一方で労働生産物に限定した古典派労働価値説を批判し、価値形態を重視して流通形態としての商品的富を提起すれば、商品形態として労働力、土地・自然・エネルギーが労働市場、不動産市場とともに対象に入る。労働力商品の特殊性は、土地などと同様に、その「特殊性」は重要だとしても、冒頭商品から排除する必要性は全く存在しない。特殊性の強調は、それを冒頭商品論から排除する理由にはならないと思われます。ここで排除したために、価値形態論と表裏の関係ともいえる労働力商品化論を、後述しますが「貨幣の資本への転化」論で「いわゆる本源的蓄積」など歴史過程、資本主義の発生過程として取り込むことになっているのです。歴史と論理の混濁ではないか?損アロン手を提起しておきます。

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by morristokenji | 2017-08-03 19:36