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by morristokenji

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 労働力の商品化を前提にして、同時に土地自然・エネルギーの商品化とともに、「資本の一般的形式」が、産業資本の形式に発展します。『資本論』が明らかにしている通り、そこでは資本が購入し雇用する労働者の労働力の使用価値が、生産過程の労働である。そして資本は購入した労働力を、その使用価値の限度まで使用する。できるだけ長時間にわたり働かせ、生産に従事させる。資本の価値増殖からいって、それは資本に与えられた当然の権利であり、長時間労働は不可避だし、過労死の可能性も十分ある。それが資本の価値増殖であり、資本の剰余価値生産の法則性です。
 この資本の価値増殖は、資本の運動形式の前提にあった貨幣の機能、とくに「蓄蔵貨幣」としての貯蓄手段にあります。貨幣は価値形態により一般的等価物の地位にある。貨幣さえあれば何でも買える、人間の良心も買える、それが一般的等価物であり、商品経済的富を代表します。そこで貨幣は、個々の商品の使用価値の「限界効用」を超えて、何処でも、何時でも、何でも買える「無限界効用」の機能を与えられる。だから貨幣の貯蓄手段による蓄蔵は無限だし、「金持ちの吝嗇」が生まれる。こうした蓄蔵貨幣による無限界効用が前提される以上、G-W-G'の資本による価値増殖も無限に追求されることになる。
 このように資本の無限の価値増殖からすれば、資本が雇用した労働力の使用は、できる限り長時間になるのは当然でしょう。長時間労働は、貨幣の無限界効用に裏付けられているのです。しかし、長時間労働は無制限に延長するわけにはいかない。労働者の労働は、人権を無視して取引され、「人身売買」される奴隷労働ではないからです。奴隷は家畜同様に人権を無視され、死ぬほど働かせることも可能だし、それが奴隷経済の特徴だった。その点で、奴隷経済そのものは人間社会として存立する「経済原則」の根拠をもたないし、市場経済に付随する部分的な経済制度(ウクラード)に過ぎない。『経済学批判』序文の唯物史観のように、古代の奴隷社会を、一つの階級社会として、歴史の発展段階に積極的に位置付けることはできないと思います。
 もう一つ、産業資本に雇用される労働力は、資本の管理のもとで価値増殖の手段に利用されて労働するが、その労働は必要労働と剰余労働に分かれる。もともと人間は、B・フランクリンの言う通りa toolmaking animal(道具をつくる動物)であり、一日働いて一日生活する「必要労働」だけでなく、それ以上の「剰余労働」が可能である。剰余労働で道具をつくり、道具を機械に発展させ、また老人や病人の介護もする。したがって、労働者は資本のもとで労働し、労働生産物は資本の所有に帰するが、必要労働の部分は労働者が賃金を通して買い戻さねばならない(A-G-W)。ここでも労働者の人権を保障し、「経済原則」を充足しなければならないのです。こうした労働者の人権の確保という点で、産業資本は剰余価値による価値増殖をはかりつつ、価値法則とともに「経済原則」を充足して一つの社会として成立する。これが『資本論』の純粋資本主義を抽象した社会である。

 このように産業資本は、一方で「経済原則」を充足しながら、他方「経済法則」としては価値法則に基づき無限の価値増殖を図る。労働時間の延長を中心とした「絶対的剰余価値の生産」であり、労働生産性の向上によって必要労働を短縮する「相対的剰余価値の生産」です。経済原則を前提にしつつも、「経済法則」に基づく長時間労働や労働の強度による労働強化は、絶えず「経済原則」と剰余価値生産の緊張を強め高める。労働生産性の向上もまた、「機械制大工業」に基づく協業や分業の拡大であり、工場制度のもとで機械体系が「組織者」として労働者が支配される。労働者は機械の単なる付属物に過ぎなくなり、チャップリンの『モダン・タイムス』であって、「人間疎外」が確実に進む。ここでも「経済原則」の労働生産性向上と「経済法則」の価値増殖の緊張は高まります。『資本論』には、ロンドンの大英博物館の「図書室」が提供した膨大な資料が、法則の実証に役立っていることが判ります。
 このように産業資本による資本の生産過程では、剰余価値生産による「経済法則」の解明の中で「経済原則」が明らかにされます。A・スミスは、労働生産物を商品経済的富として、「本源的購買貨幣」である労働により、生産過程を自然から生産物を購入する流通過程とした。「生産過程の流通過程化」であり、流通主義による資本主義経済の絶対視だったのです。マルクスは、スミスの労働価値説を継承しながら、「価値形態」を明らかにして、労働生産物ではない労働力の商品化の解明に成功した。価値関係による労働力の商品化の解明ですが、それにより流通過程と生産過程を区別し、スミスの流通主義の誤りから脱却できたのです。人間が自然に働きかける労働は、貨幣で商品を購入するのではない。「経済原則」にもとづく人間の自然に対する超歴史的行為であり、そこに「人権の保障」の基礎があり、人間解放の原点があることをマルクスは提示したのです。「経済原則」を組織的に、主体的に実現する、それにより資本主義を超える新しい社会の地平が拓かれたと言えます。

 経済関係は、言うまでもなく人間が自然に働きかける生産過程、および生産した生産物を消費する消費過程から成り立ちます。いわゆる経済循環です。その生産と消費の関係に基づく経済循環により、生産過程も繰り返され再生産が可能となる。その点で労働力の再生産としての消費過程も、生産過程とともに「経済原則」を構成する。消費過程は、言うまでもなく経済主体としては「家計」(household)と呼ばれ、家庭(home)や家族(family)とともに消費生活が営まれる。その点では、消費過程は経済原則そのものであり、経済法則の支配は家計の面から所得・収入で制約されるだけである。しかし、ここでも個々人の労賃など、所得・収入から消費支出されるのであり、消費市場の経済法則からの影響を免れない。労働力の商品化により、生産と消費が切り離され、家庭や家族と言った共同体的な人間関係が切り崩されて、家族・家庭の崩壊も進む。Atomicなエコノミックアニマル(経済人)が支配する世界です。ここでも経済原則と経済法則の緊張関係が強まり、労働力の再生産が歪められる点を無視できないでしょう。
 消費過程を労働力の再生産とした時、それは教育・研究機関を中心に生産過程の技術水準の発展など、生産性の向上に資する必要がある。経済原則としての生産性の発展による「経済成長力」の上昇を進め、それがまた資本の価値増殖、上記の相対的剰余価値の生産に結び付く。資本による技術の向上、生産性の上昇、経済成長力の確保も、経済原則に基づく経済法則による社会的再生産の発展です。そうした発展を無視して、資本主義の成長が労働者の貧困の蓄積だけだ、と見ることはできない。その点で、いわゆる「窮乏化法則」のドグマに陥ってはならない。必要労働による労働力の再生産も、消費生活による消費財など歴史的、文化的、教育的水準の高度化を前提にする。そこに経済原則を踏まえた資本主義の歴史的発展による「人口法則」の特徴が認められるのです。少子高齢化や「生産性革命」、「働き方改革」など、資本主義に特有な「人口法則」に基づいて検討されなければなりませんが、人口法則については後述します。

「論点」いわゆる「働き方改革」の虚実
 上記の説明の通り、資本により購入された労働者の労働力ですが、その使用価値
は、資本の手に属します。資本は労働力だけではなく、原料など生産手段も、無駄には使わない。できる限り効率よく、無駄なく使用します。この効率的使用は、労働力については、できるだけ長時間、そして厳しい強度の労働時間になります。労働力を購入した資本の当然の権利として絶対的剰余価値生産が行われる、それが労働力の効率的使用だし、経済法則です。とくに雇用が拡大し、労働市場がタイトになれば、ますます長時間労働、厳しい労働強化を進める。ブラック企業、ブラックバイトなどと呼ばれますが、もともと経済法則がブラックだし、労働力不足なら一層ブラックにならざるを得ないのが、資本主義の経済法則です。しかし、経済原則の点では、上記の通り資本主義も人権を保障せざるを得ないから、そこに歯止めがかかる。
 その歯止めのかかり方も、上述の通り相対的剰余価値の生産への転換として、法則的に実現する。実際上は、個別の資本は相互に激しい競争をし、金融機関から信用を利用して投資を拡大しています。いわゆる「競争・信用」による媒介ですが、それを通して相対的剰余価値の生産としては、資本は単なる雇用拡大・能力拡大型の投資から、いわゆる合理化型投資に転換する。後に詳述しますが、投資の量から質への転換です。ここで技術革新による生産性の向上を利用し、いわゆる「生産性」革命が経済法則として実現されます。生産性向上により、相対的な過剰人口が創出され、「出産や育児」などを政策的に行政が強制するわけではなく、経済法則として「人づくり」革命が行われるのです。この点は、さらに資本主義の人口法則として後述しますが、絶対的剰余価値生産から相対的剰余価値生産への転換に他ならない。技術革新・生産性向上と労働力不足の解決が、ここで経済原則の法則的実現となるわけです。
 このように「生産性革命」とか「人づくり革命」とか言われている内容は、純粋資本主義の経済法則として実現される。そして、技術革新による生産性の向上、労働力人口の確保が進み、投資の拡大による資本蓄積と共に「経済成長」も実現する。経済法則を通して、人間生活の向上と経済成長の経済原則も実現されるのが、純粋資本主義の法則性でしょう。しかし、それはあくまでも純粋資本主義の経済法則の世界であり、抽象的な原理論の話です。資本主義の歴史的な発展や各国資本主義の実情は、経済原則と経済法則の緊張関係を強め、最近ますます資本主義経済の歴史的限界を露呈しています。
 先進資本主義の各国が、金融資本の時代を迎え、さらに第2次大戦の後、東西冷戦の時代には、原子力開発の競争が激化しました。熱戦のための原水爆実験、冷戦のいわゆる「平和利用」としての原子力発電、総じて自然・エネルギーが原子力時代を迎えました。国策として原子力利用が推進され、「オール電化」が進みました。しかし、ポスト冷戦を迎え、さらに東日本大震災など度重なる原発事故を経験し、自然エネルギーの「大転換」が始まっています。原子力産業に主導された技術開発、生産性向上、そして経済成長も大きな曲がり角を迎えたのです。先進資本主義各国の経済成長の低下が顕著になっています。とくに、米国に次ぐGNP大国だった日本経済のバブル崩壊後の「冬の時代」の長期停滞が目立ちます。「失われた10年」、そして20年と続いた国内の低成長・停滞を見捨てて対外投資に向かい、一方では対外発展による「グローバル化」が進み、他方では国内経済、特に地方経済の空洞化が深刻化している。
 そうした現実に対して、対内的には財政や金融の「異次元緩和」の政策により、マイナス金利を導入しても、それでも成長力の回復は見込めない。すでに日本資本主義は、経済法則として自立的にGNP成長を実現できなくなってしまった。文字通り経済原則との厳しい緊張が続いている。そこで国家としては、政策的に「生産性革命」とか「人づくり革命」とか、過激な革命的な言辞を弄するスローガンを掲げ、上からの権力的な政策を打ち出そうとしています。さらに「働き方改革」と称して、労使関係を超えて国家権力が労働力の使用価値を決めることまで介入しようとしている。単なる労働時間の規制を超えた権力介入、権力行使であり、そうなれば「国家資本主義」として、総動員体制を敷く以外に無くなってくるでしょう。国家資本主義として「経済原則」が実現されるような事態は、異常極まりない資本主義の危機ではないでしょうか?

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by morristokenji | 2017-09-07 20:38