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by morristokenji

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 『資本論』第2巻の「資本の流通過程」にとり一番重要なことは、「貨幣の資本への転化」に立ち戻って、マルクスが「資本の一般的形式」としてG-W-G'、つまり商品、貨幣とともに、流通形態として「資本」を定義したことです。流通形態だから産業資本もG-W--P--W'-G'の流通形態とすることになったし、資本の流通過程の分析もまた、G'-W--P--W'-G'の姿態変換(メタモルフォーゼ)から回転に入ることになったのです。W'の実現、生産された剰余価値の実現など、上述の「実現問題」も、資本の姿態変換の一環に組み込まれて処理されることになるのです。とくに商品資本の循環=姿態変換形式W'-G'-W--P--W'により、W'のG'への実現は、資本家の所得の支出、貨幣の流通速度のアップなど、十分に可能であり、循環が進むことができます。
 資本の流通過程にとっての中心課題は、流通形態としての運動にとっての時間的経過、つまり「期間」であり、その期間に伴う資本の回転です。資本の価値増殖は、より多くの剰余価値を、「より早く」獲得することです。期間として資本の流通過程を捉えれば、流通期間と生産期間に大別されますが、そこでの資本の構成要素の機能と運動が、資本の回転を左右することになる。とくに、労働力商品に投資され、労働者へ賃金として支給される可変資本の循環は、資本の生産過程での労働による剰余価値の生産とは別の意味で、ここでも「労働力商品の特殊性」が資本の回転に特有な問題を提起し、可変資本の回転として論じられることになります。

 労働力商品の特殊性は、資本の生産過程では、必要労働により労働力商品の価値を形成し、それを労働者は賃金により生活資料として買い戻す。さらに労働者は、剰余労働により剰余価値を生産し、資本の価値増殖の手段に利用される。労働力の使用価値である人間労働は、必要労働だけでなく剰余労働を含み、マルクスも言及していますが、B・フランクリンの「道具を作る動物」として人間社会を支えます。その人間労働を、資本は価値増殖の手段として利用するのです。①長時間労働などの労働強化による絶対的剰余価値生産、②必要労働の賃金を実質的に切り下げるための技術革新と生産性向上による相対的剰余価値生産の2つの方法です。この生産過程の剰余価値生産をより早く回転させる、それが資本の流通過程の課題です。
 資本の流通過程は、G-W-G'の一般的形式を前提にして、貨幣資本の循環、生産資本の循環、商品資本の循環の姿態変換(メタモルホーゼ)を繰り返しますが、労働者が労働力を資本に販売して生活資料を買い戻すA-G-W'の過程は、資本の循環形式ではない。言うまでもなく形式はW-G-Wの単純流通です。労働の生産物ではない、資本の生産物でもない労働力商品Aは、土地自然エネルギーと共に、商品流通に参加していますが、そして資本の流通過程に組み込まれますが、しかし資本の流通形式ではない単純流通の形式としての参加です。ここに労働力商品の特殊性が発現します。

 『資本論』では、「可変資本の回転」ついては、もっぱら「剰余価値率の年率」について説明しています。5週間で回転する資本と、回転に1年間かかる資本の2つを挙げ、剰余価値率100%は同じでも、その年率は前者が1000%、後者が100%に過ぎない両者の相違が生ずる。資本の回転の効率からいえば、前者の効率が良いわけで、資本はとりわけ可変資本について、その年率を考慮し回転期間の短い投資を選択しようとする。また、回転期間を短くするよう努力することにもなる。さらに個別資本の立場からの回転から、その社会的な関連について考えると、上記の労働力商品の特殊性が、可変資本の回転に大きな影響を与えることが判ります。
 労働者の立場からみれば、上記の通りA-G-Wは資本の流通過程から独立した単純流通です。それも、資本による生産と個人的消費をつなぐ役割を担っている。すなわち、労働者が労働力を売るA-Gは、資本からはG-W(A)--P--であり、労働者は生産過程--P--に従事する。剰余価値とともに価値を形成し生産する。同時に、労働力の価値部分を、労働者はG-Wで消費財Wを購入し買い戻す。そして、家計の消費活動に入り、労働力の再生産を図る。この家計の消費活動は、言うまでもなく毎日行われなければならず、消費財も毎日の労働者の消費に充当されるように配分されなければならない。だから、上記の一年間も回転期間がかかり、剰余価値年率の低い投資は、生産が毎日行われ剰余価値も生産され、賃金も支払わなければならないのに、貨幣資本としては回収できない。賃金支払いだけは続けざるをえないから、賃金ファンドは5週間の資本と比べるなら、10倍以上も必要になってしまう。

 さらにG-W(A)として投資された可変資本は、労働力が人間の労働能力であるから、G-W(Pm)の原材料の不変資本のように、必要なくなったら商品として他の資本に転売することもできない。そこが労働力商品の賃労働と、モノ同然の奴隷との差異になる。また、賃金は日給にせよ、週給にせよ、月給にせよ、消費生活に合わせて支払はねばならないし、それも原材料と異なり、手形ではなく現金で規則的に支給されねばならない。こうして労働者の人権として必要労働の買戻しを保障するとともに、生産の継続と結びついた賃金支払いによる消費生活の維持が経済原則の面からも要請されることになる。
 『資本論』でも、次のように述べているので引用します。「社会が資本主義的ではなく共産主義的なもの」でも、「鉄道建設のように、一年またはそれ以上の比較的長期間にわたって生産手段も生活手段も、また何らの効用も供給しないが、しかし年々の総生産から労働、生産手段、および生活手段を引き上げる事業部門に、社会が、どれだけの労働、生産手段、および生活手段を、何らの損害もなく振り向けうるかを、社会はあらかじめ計算せねばならない。」ここでマルクスは、労働だけでなく生産手段も挙げていますが、根本は労働力商品の特殊性から、賃金ファンドや生活手段の消費財、そして消費生活の維持と保障を指摘していると見ていいでしょう。このように可変資本の回転と「共産主義的な」経済原則との関係で労働力商品の特殊性が重視されなければならないのです。

 このように労働力商品の特殊性は、資本の流通過程に於いても、資本は必要労働
を労働力の価値として、労働者に規則的に引き渡し、それで労働者は労働力の再生産を図る。にもかかわらず生産期間や流通期間が長期にわたれば、労働者に労働力の価値を引き渡してしまうために、賃金支払いのファンドが嵩んでくる。剰余価値年率が悪化して、資本の投資効率が低下する。労働力商品化の矛盾が、経済原則と経済法則の接点として、両者の緊張関係が現出するわけです。こうした矛盾をはらみながら、「生産と消費」のいわゆる経済循環が実現されるのです。短期の価値増殖を目指す資本にとり、鉄道投資や林業など、生産期間や流通期間の長期化せざるを得ない投資が敬遠される矛盾を孕んでいます。労働力商品化の矛盾は、資本の直接的生産過程の剰余価値生産にとどまらず、資本の流通過程にも生ずるわけで、それがさらに後述のごとく資本の再生産過程=蓄積過程での資本主義的人口法則として具体化することになるのです。

 「論点」 労働力の再生産と「経済原則」の関連
 資本の流通過程では、単に資本価値の変態=姿態変換による価値増殖の運動だけでなく、その内部に可変資本の循環として、労働力の再生産が提起されました。労働市場においては、労働力の価格としての賃金が、資本の剰余価値率を左右しますが、労働者にとっては、賃金を通して労働力の再生産をはかる、そのために必要労働の生活資料としての買戻しが必要だったわけです。そして、労働力の再生産のための時間と空間が、消費生活の場になります。労働者は、賃金で買い戻す必要労働による生活資料を、消費生活を通して消費し、自己の労働力を再生産するわけです。そして、再生産される労働力により、資本の直接的生産過程では、繰り返し労働を続けることが出来ます。資本の生産=再生産は、労働力の再生産と表裏の関係になるわけです。
 さらに上記の通り、労働力の再生産は、一方で資本の直接的生産過程で労働し生産に従事する。他方では、必要労働を生活資料として資本から買い戻し、それを消費生活の場で消費する。つまり、可変資本の回転を媒介して、労働者による労働力の再生産は、生産と消費を繋いでいるのです。この生産と消費の社会的結合と循環こそ、一般に「経済循環」と呼ばれていますが、労働力の再生産として経済循環が実現されるわけです。そして経済循環は、どんな社会でも社会生活が成り立つための「経済原則」ですから、ここで労働力の再生産として経済原則が明らかにされるわけです。資本の直接的生産過程では、必要労働と剰余労働に基づいて、剰余価値が生産され、労働者は必要労働を買い戻して、人権が保障される。さらに、資本の流通過程では、可変資本の回転を通して生産と消費が循環し、消費生活により労働力の再生産がはかられるのです。このように可変資本の回転として、資本の流通過程で経済原則が法則的に解明されます。
 ここで労働力の再生産の場としての消費ですが、言うまでもなく経済循環としては、生産の主体である「企業」enterpriseに対する「家計」(household )です。家計は、単数でも複数でもいいのでしょうが、「経済法則」としては必要労働により、労働力の再生産が行われる場に他ならない。労働力が、人間として再生産され、商品として労働市場に登場することが必要です。その限りでは、労働者も経済人(ホモ・エコノミクス)として行動するわけだし、労働力商品の所有者です。しかし、消費主体として経済原則の担い手とすれば、労働力の再生産は子供を産み育てる世代間再生産を含むことだし、消費の場は家族(family)や家庭(home)を意味する。労働力の再生産は、本人が生きて働くためだけではない。夫婦で育児・保育・教育を行い、次世代の労働力も再生産しなければならない。
 また、家族はコミュニティの基礎的単位ともいわれ、地域とも結びついている。商品経済の拡大発展は、上記の経済人を拡大し、家族やコミュニティの結びつきを断ち切る傾向が強いものの、家族は地域との結びつきでコミニュニティを形成しているし、その点では労働力の再生産は、家族の消費生活を通して、地域の場で実現せざるを得ない。労働力の再生産としての消費は、時間的・空間的な場としては、地域コミュニティ=共同体で行われるのであり、ここに経済原則による経済法則への緊張関係が進むことになる。こうして労働力商品の特殊性は、資本の流通過程においては、可変資本の回転として進みますが、経済原則として生産と消費の経済循環、そして地域共同体としての経済循環、いわゆる「地産地消」などによっても、規制されざるを得ないことになるのです。
 こうした家族、地域共同体と企業との関係は、ドイツの社会学者テンニースの集団論として、周知のとおり企業などの利益集団「ゲゼルシャフト」、家族や地域共同体など共益集団「ゲマインシャフト」の二つに概念化されてきました。上記の通り近代化の進展とともに、家族や地域共同体の結びつきが弱まり、ゲゼルシャフト的なエコノミックアニマルの経済人の拡大をもたらしています。しかし、東日本大震災など巨大な自然災害の発生、また巨大企業のガバナンス喪失や海外進出による地域の空洞化など、企業社会の地域社会に対する支配の限界も目立ち始めています。それだけに労働力商品の特殊性に基づく、労働力再生産としての過程や家族、そして生産と消費の地域循環としての共同体、コミュニティの新たな再評価が必要でしょう。そうした点から、初期マルクス・エンゲルス以来の所有論レベルの「コミュニズム」から、共同体社会への発展としての「コミュニタリアニズム」=共同体社会主義への視点が重要になっていますが、さらにその点は後論で詳述しましょう。


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by morristokenji | 2017-10-28 20:31
 『資本論』第1巻のタイトルが「資本の生産過程」、第2巻が「資本の流通過程」になっている。このタイトルからは、第1巻が「資本の直接的生産過程」であり、資本の生産過程の結果であるG-W---P---W'のW'の実現として、資本の流通過程が位置付けられるようにも見えます。事実、そのような巻別構成の整理もあるし、マルクスも「直接生産過程の諸結果」など、そうした解釈や整理を予想させる時期もあった。少なくとも『資本論』以前の『経済学批判』段階までは、そうした考え方が強かったように思われます。しかし、『資本論』を執筆する段階では、その巻別構成は大きく変化しているし、それが『資本論』の理解にとり、極めて重要なように思われます。
 まず手がかりになるのが、『資本論』第3巻の冒頭にある以下の指摘です。「費用価格と利潤」のタイトルに直ぐ続いて、「第一巻では、それ自体として見られた資本主義的生産過程、すなわち、外的事情の副次的影響は、すべて度外視されて、直接的生産過程としての資本主義的生産過程が提示する諸現象を、研究した。しかし、この直接的生産過程は、資本の生涯の全部ではない。それは現実の世界では、流通過程によって補足されるのである。この流通過程が第二巻の研究の対象をなした。そこでは、とくに第三篇で、社会的再生産過程の媒介としての流通過程の考察に際して、資本主義的生産過程は、全体としてこれを見れば、生産過程と流通過程との統一であることが示された。この第三巻のかかわるところは、この統一について、一般的反省を試みることではありえない。肝要なのは、むしろ、全体として見られた資本の運動過程から生ずる、具体的な諸形態を発見し、説明することである。」として、第3巻は「諸資本」の競争や信用などの具体的諸態様を解明する方向を示しています。

 『資本論』第3巻の篇別は、第1巻と比べてはもちろんのこと、第2巻と比較しても、全体的にエンゲルスがマルクスの原稿を単に整理編成しただけで、体系的にまとめられてはいない。しかも、原稿の執筆の時期が、それぞれ不明な点も多く、前後の連絡がつけにくい部分が沢山ある。上記の冒頭の部分も、「費用価格と利潤」のタイトルの後に、恐らくエンゲルスが原稿の何処からか移動して来たように見えますが、全三巻の巻別編成について重要な指摘がなされている。とくに第3巻については、第1巻と第2巻の統一ではない点が強調され、さらに『経済学批判体系プラン』の「資本一般」の枠組みを否定して、「競争」「信用」「株式資本」(資産)などの具体的諸形態を説く方法論を明確に提示している。その上で「費用価格と利潤」として「諸資本」の競争の具体的形態の説明に入るのです。それとともに、第1巻をここでも「直接的生産過程」としていますが、それは「資本の生産過程」の内部での「直接的生産過程」だとして、第2巻の位置づけが問題でしょう。
 ここで第2巻は、第1巻の全体を受ける形ではなく、第1巻の「資本の生産過程」内部の「直接的生産過程」の「補足」として位置付けられている。「補足」だから「直接的生産過程」を補足して「再生産過程」の媒介をする。「補足」媒介の結果として、第2巻、第3篇「社会的再生産過程」の位置づけとなっている。だとすれば、全体的に①資本の生産過程としての「直接的生産過程」、②それを補足・媒介する第2巻「資本の流通過程」、そして③資本の再生産過程=「資本の蓄積過程」、その最後に第3篇「社会的再生産過程」がくる、こんな編別構成となる。そして、さらに上記の「競争」「信用」「株式資本」(資産)の第3巻の地平が拓かれる。このような「巻別構成」、そして「篇別構成」のスケルトンが浮かび上がるように思われます。

 以上『資本論』第3巻の冒頭の整理からすれば、第2巻の「資本の流通過程」を「資本の直接的生産過程」の結果である上記のW'の実現過程に矮小化することは出来ないでしょう。W'の「実現論」は、生産と消費が流通により切り離されていること、そして生産財と消費財をはじめ産業部門間の不均衡が大きいこと、そこからマルサスやシスモンディの過剰生産論や過少消費説が主張されていた。とくに金融恐慌や景気後退期には、今日の日本資本主義でもそうですが「有効需要」の不足が叫ばれ、とくにマイナス金利など金融の「異次元緩和」も主張され、しかも長期化している。しかし、恐慌や不況は単なるW'の実現問題ではない。実現問題は、流通市場の現象面で提起されるけれども、資本主義経済は「法則がただ無規則性の盲目的に作用する平均法則としてのみ貫かれうるような生産様式」によつて解決される法則的秩序を持っている。市場経済は「無政府性」だけれども、それは「無法則」ではないのです。実現問題は、実現問題なりに法則の実現です。
 すでに貨幣論で明らかなように、W'の実現のためには、貨幣の裏付けを持った「有効需要」が必要です。貨幣の諸機能が重層的に有効需要を形成しますが、「貨幣の資本への転化」論で明らかにしたように、貨幣を前提とする流通形態としての資本は、その「一般的形式G-W-G'」で明らかなように、市場においてG-Wで「需要」し、W-G'で「供給」する運動体である。自らの運動の内部で需要と供給を統合し、とくに労働力商品を前提に雇用労働で生産過程を支配して供給をコントロールすれば、生産過程を基礎とした再生産過程で、需要と供給の統合が可能である。それを前提にして既に述べたように「一物一価の法則」が流通形態で貫徹されるとともに、労働力商品は必要労働により価値規定されて、労働価値説が論証をみるわけです。いずれにしても市場のW'の実現問題は、「貨幣の資本への転化」に基づく産業資本の運動形式により、法則的に解決されるのです。

 そこで第2巻「資本の流通過程」による第1巻「資本の生産過程」、とりわけ「直接的生産過程」の補足の位置づけですが、資本の流通過程が、資本の再生産過程=蓄積過程の前に置かれ、その上で資本の生産過程と流通過程の統合として、資本の再生産過程=蓄積過程が説かれる、そんな編別構成となるでしょう。流通形態としての資本の運動は、直接的生産過程とともに流通過程を内部に組み込み、W'の実現ではなく資本の「姿態変換」としての「循環と回転」、そして「流動資本」と「固定資本」の運動により、資本の再生産過程=蓄積過程の展開につながる。こうした「資本の流通過程」の「補足」・媒介により、資本の再生産=蓄積過程の運動がダイナミックに把握され、そして「資本主義的人口法則」として展開されることになります。とくに資本の蓄積論が、『資本論』では不十分だった周期的恐慌を含む産業循環の基礎として解明される道も拓かれます。
 資本の「直接的生産過程」は、すでに明らかなように剰余価値論として展開されますが、それは絶対的剰余価値の生産、さらに相対的剰余価値の生産が説かれる。資本・賃労働の階級関係が解明されますが、その結果もW'の実現問題ではない。資本による労働力の支配であり、その形態が『資本論』では、第1巻、第6篇「労働賃金」とされているのです。資本は、労働力を商品として購入しながら、剰余価値生産の支配を通して、労働に対して賃金を支払う形式を完成する。いわば生産過程を流通形態で覆い隠す形態でしょうが、そうした流通形態の支配が前提になり、第2巻「資本の流通過程」による補足・媒介を通して、資本の再生産過程=蓄積過程が展開されるのです。また「労働力の価値」の第6篇「労働賃金」への転化の説明で、スミスなど原初的購買貨幣の流通主義の批判も完成をみるのです。

 「論点」 資本の「直接的生産過程」と実現論
 資本の流通過程論を、資本の「直接的生産過程」における剰余価値の生産に対して、剰余価値の「実現論」とする解釈が今でも有力です。剰余価値を実現するための貨幣がどこから来るか、生産された剰余価値の実現を中心に過剰生産恐慌などが説かれます。こうした実現論の背景には、『資本論』全3巻の巻別構成、篇別構成の整理の違いも大きいとみられるので、ここで振り返っておきましょう。この論点でも、冒頭「商品論」の労働価値説の論証が、大きく影響していると思われます。
 既に述べて通り、A・スミスをはじめ古典派労働価値説では、商品経済的な富を労働生産物に還元した。そして、生産過程の労働を「原初的購買貨幣」として、生産過程を流通過程とする流通主義に陥っていた。しかも、分業労働を人間の「交換性向」と結びつけて、それを人間の本能として説明し、超歴史的な流通主義として主張されていたのです。マルクスは、初期マルクスの時代から分業労働を含めて、労働疎外論の立場だった点では、超歴史的な流通主義の誤りは免れていたものの、『資本論』冒頭の商品は労働生産物に還元され、労働価値説を積極的に継承した。そのため古典派価値論批判としての「価値形態論」の見地は混濁し、「絶えざる不均衡の中での無規律性の盲目的に作用する平均法則」として、具体的には「一物一価の法則」としての価値法則の作用を明らかにできなかった。
 「一物一価の法則」は、「価値形態」論を前提に、「貨幣の資本への転化」論、さらに労働生産物とは言えない「労働力の商品化」論により、産業資本の運動として解明される。労働価値説は、単なる等価交換ではなく、労働力商品による労働者の必要労働の買戻しの過程として論証される。産業資本による「価値の形成」、かつ価値増殖の過程は、同時に市場に対する需給の調節による「一物一価の法則」として、「価値の実現」を含んで論証される。価値形成は価値実現として法則的に解明をみるのです。ところが『資本論』では、冒頭「商品」論の労働価値説が同義反復的に主張され、価値形成がドグマ化される。「価値形態」論や「貨幣の資本への転化」論も、ドグマ化された労働価値説に制約されて、市場の需給の調節を通して貫徹される価値法則の解明はできない。労働価値説は「直接的生産過程」に封じ込められたまま、「価値の形成」と「価値の実現」は切断され、そのため「価値の実現」はW'の実現として、「資本の流通過程論」の『資本論』第2巻に追いやられたように思われます。その追いやられた結果が「実現論」であり、「資本の流通過程」論を剰余価値の実現とする方法的見地を産んだものと思われます。
 とくに「実現論」は、上記のとおり恐慌論との関連で、いわゆる商品過剰説として主張され、今日でも有力な見解です。周期的恐慌の原因を、商品の過剰生産に求め、その実現困難として恐慌を説明する「実現論」的恐慌論です。後述するように恐慌論には、この商品過剰説と資本過剰説との対立があり、資本過剰説では商品の過剰を利潤率の低下と利子率の上昇の結果と見る。それに対して商品過剰説は、資本過剰を商品過剰の結果と見る。したがって、景気対策としても、商品過剰を解消するための金融や財政による有効需要の拡大、とくに最近では金融の「異次元緩和」で、ゼロ金利、さらにはマイナス金利を続けることにもなっている。しかし、こうした「実現論」的アプローチでは、恐慌論として周期的恐慌の説明が不十分なだけでなく、政策的にも「出口なき」異次元緩和を続けざるを得なくなっています。そのために既述のように政策的にも「働き方改革」など、資本過剰の前提になっている「生産性革命」や「人づくり革命」といった国家資本主義ともいえる過激な政策に走っている。しかし、思うような資本過剰の解決ができないまま、長期の停滞・低成長を続けざるを得ないのです。

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by morristokenji | 2017-10-03 20:53