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by morristokenji

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 『資本論』の中には、「商品経済の物神性」など、物神性(フェティシズム)の説明が沢山出てきます。物神性の現象形態、その根拠など、多様な説明です。人間と人間の関係がモノとモノの関係になり、そのモノが魔力をもって人間の意識や行動を支配する。『資本論』で最初に登場するのが「貨幣物神」で、「カネに目が眩む」金権腐敗の政治などでしょう。
 
 『資本論』第1巻、最初の「商品」の章の最後の第4節は、「商品の物神的性格とその秘密」ですが、ここで「商品の物神性」と「貨幣の物神性」がまず取り上げられます。ただ、貨幣の物神性も商品との関係で生じていますから、「商品の物神性」とも言えますが、物神性そのものは商品ではなく「貨幣の物神性」です。商品と商品の関係が、なぜ貨幣との関係となり、「カネに目がくらむ」貨幣の物神性を産むのか、その必然性の解明が「価値形態論」にあった。だからマルクスも、順序として第3節「価値形態または交換価値」の説明の後の第4節で「貨幣物神」を説明したのでしょう。
 そこでマルクスの説明ですが、「商品を使用価値として見る限り、商品はその属性によって人間の欲望を充足させるものだとか、あるいは人間労働の生産物として得るものではない」として、商品の使用価値とか、価値規定の内容・労働からではなく、物神性が「商品の形態的性格」、つまり価値形態から生ずる、と明確に言い切っています。A・スミスのように価値規定の内容・労働を「本源的購買貨幣」としたのでは、商品は労働生産物として貨幣であり、商品は相互に交換・購買し合い、価値形態には思いも到らない流通主義の誤りに陥ったのです。マルクスはそこを批判して、商品物神を貨幣物神として、価値形態から説明しているのです。
 
 商品の価値形態ですが、すでに説明の通り相対的価値形態の商品の価値が、等価形態の商品の使用価値で表現される。商品の2要因が、相対的価値形態の積極的な価値の表現、等価形態の使用価値が価値の消極的な表現材料の提供として分化する。x量・商品A⇒y量・商品Bですが、商品Aの所有者はAを供給し、商品Bの使用価値を需要する形態で、AとBの価値関係が形成されている。したがって、Aの所有者のBの使用価値に対する欲望が重要だし、欲望を充足する使用価値の量になる。だから、例えば「20エレのリンネル=半着の上着」などは、Aの上着の使用価値への欲望を無視したナンセンスな表現形式になるのです。
 マルクスの価値形態論は、「簡単な価値形態」「拡大された価値形態」「一般的価値形態」と展開されますが、上記のAとBとの需要と供給の対立関係を明らかにするものです。「一般的価値形態」では、等価形態としては「一般的等価物」が出てくる。価値物としてBは直接的交換可能性、つまり「購買力」を与えられ、その代わり相対的価値形態のAは、使用価値として供給できることになる。その上で、貨幣形態は一般的等価物としてのBの地位が独占的に固定され、逆にAは使用価値の単位量を前提に供給されることになる。例えば貨幣商品が金だとして、1着の上着⇒2オンスの金、1トンの鉄⇒4オンスの金、10ポンドのコーヒー⇒0.5オンスの金というように、相対的価値形態として供給される商品は、それぞれ商品供給の単位量が、それに対する等価形態の貨幣は、量的に分割・合成が可能なので4オンスとか、0.5オンスなど価値量の貨幣表現、つまり価格表現になります。
 このように価値形態としての貨幣の地位が独占的に固定すれば、直接的交換可能性としての購買力が付与される以上、貨幣が何でも購入できる「有効需要」の担い手になる。逆に相対的価値形態の一般商品は、供給しやすいように単位量の使用価値として市場に出る。価値の貨幣表現である価格に対しては、右肩上がりの供給曲線、逆に需要の方は、価格に対して右肩下がりとなり、商品によっては「限界効用」が低下することが含まれるでしょう。価格は需要曲線と供給曲線の交点になるでしょうが、購買の決定は購買力による有効需要の担い手としての貨幣の側にある。「金は生まれながらにして貨幣ではないが、貨幣は生まれながらにして金である」貨幣物神が生まれるのです。金本位制が長く定着し、その後も基軸通貨ドルは金との交換性が保証される金為替本位制だったし、その崩壊後の管理通貨制も「管理できない管理通貨制」だし、為替相場の急変時には、先ずは金を購入する動きが出るのは、他でもない「貨幣物神」のなせる業ではないか?

 物神性の根拠については、資本の生産過程で明らかにされます。流通形態としての資本の「一般的形式」は、すでに説明の通りG-W-G'ですが、労働力の商品化を前提にして、産業資本の形式G-W---P---W'-G'において、商品関係が人間関係の形成と結びつくからです。価値形成・増殖過程で、人と人の関係がモノとモノの関係が階級関係となる必然性が解明されます。A・スミスのように価値形態を看過し、労働力の商品化を解明できないまま、人間労働を本源的購買貨幣としてしまえば、人と人の関係がモノとモノの関係に媒介される人間疎外は眼中に入らない。物神性の根拠が問われないまま、商品経済が絶対視されるのです。マルクスは、『資本論』の価値形態論により労働力の商品化を明らかにし、人間疎外の根底から物神性を明らかにしたのです。
 そのマルクスですが、『資本論』第3巻の第5篇「利子生み資本」において、貨幣の物神性を前提にして、さらに「資本の物神性」を提起します。第24章の冒頭ですが「利子生み資本において、資本関係は、その最も外的な最も物神的な形態に達する」と述べています。ここで「利子生み資本」ですが、マルクスは一方において「貨幣資本家」、他方では「機能資本家」を持ち出し、貨幣資本家は「資本として投じ得る貨幣を持ちながら、自らは資本として投じない」資本家、逆に機能資本家は「資本として投じ得る貨幣をもたない資本家」としています。貨幣資本家は、貨幣の機能として「資本として機能する使用価値」があり、それを機能資本家に貸し付けて利子をとり「利子生み資本」として価値増殖を図るというものです。
 
 しかし、この「利子生み資本」には多くの疑問が寄せられています。すでに資本の生産過程や流通過程、再生産過程が明らかにされている段階で、そもそも「資本として投じ得る貨幣を持ちながら」投資しない資本家がいるのか?貨幣の使用価値に、貨幣機能のほかに「資本として機能する使用価値」などあるのか?機能資本家にも、利子の根拠が説明されないのに、利子支払いの根拠があるのか?さらに貸し付けられる資本を返済する根拠があるのか?要するに、本来は資本の流通過程を根拠に説明される「信用論」を抜きに、貨幣資本家も機能資本家も説明できない。資金を融通する貨幣・資金市場と株式資本などの資本市場が混同されているのではないか?『資本論』第3巻は、マルクスの草稿を、エンゲルスがアレンジしたものですが、著しく不合理な整理のように見えます。
 商業資本論によって、商業資本には2面があり、①産業資本からの商品の買い入れ代金、②商品販売の店舗など「純粋な流通費用」の2つだが、①は流通過程での遊休貨幣資本を商業資本が代位する。そこに遊休化の代位として、遊休化による「マイナスをプラス」に変え、利子支払いの根拠が与えられる。②については、「流通費用のマイナス」=空費を商業資本が専業化してマイナスする、「マイナスのマイナス」で企業者利得の根拠が与えられる。ここから商業資本の利潤には「利子と企業者利得」の分化が生じ、その利子収入の面を「利子生み資本」として「資本の物神性」の説明とする見解もあります。しかし、商業資本の利潤が、利子と企業者利得に分化する説明はともかくとして、なぜそれを「資本の物神性」にしなければならないのか?そもそも「資本の物神性」とは何か?

 「資本の物神性」の説明は別にして、貨幣市場が成立し、利子率が確定すると、すべての収益について、それを利子率で資本還元する。それを「資産」と呼び、動産と不動産、金融資産と実物資産、とくに株式資本を中心に「擬制資本」として、資本市場も成立してきました。こうした「資産」価値からの収益は、「資産」価値が利子率による資本還元である以上、収益は利子と見なされ、そこに物神崇拝的な性格を見ることは可能かも知れません。しかし、資本と資産の違いもあるので、それを「資本物神」と呼ぶのは如何なものか。昔から有産者(ブルジョア)と無産者(プロレタリア)の区別があり、今日では超低金利による異次元金融緩和の政策が、所得の格差より資産格差を拡大し、両者の対立が階級対立と見なされる傾向もある。その点では「資産」の物神性が特に重要かも知れません。

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by morristokenji | 2018-02-26 09:17