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by morristokenji

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(14)超過利潤と地代

 『資本論』第3巻は、第2巻と比べても、マルクスの原稿が年代的にもバラバラだった事情もあり、エンゲルスの編集による独自性が強いように思われます。とくに地代論は、『経済学批判』の後『剰余価値学説史』のリカード地代論批判を受けて、『資本論』に含められることになった事情もあり、エンゲルスは「競争・信用」の後、第6篇に地代論を置きました。こうした方針には、『批判』時点でのプラン「資本・賃労働・土地所有」のトリアーデにより、「土地所有と地代」を労働力・賃労働と共に、「資本」の外部に置く構想が作用しているかも知れません。しかし、純粋資本主義の自律的運動の内部から利潤の一部が地代として外化される点を考慮すると、「超過利潤と地代」として、資本の超過利潤が地代化する枠組みが適当だと思います。
 そこで超過利潤論ですが、「一物一価の法則」としては、個別資本の競争は、平均利潤と生産価格を基準にして競争を展開します。その際、言うまでもなく企業は、先ず投資部門の内部で超過利潤を目指し、企業間の競争戦を展開する。投資の拡大、技術革新など、いずれもこの競争戦の中で進められ、こうした競争により平均利潤と生産価格も実現します。『資本論』では、資本の直接的生産過程による「再生産表式」も前提されるので、先ず価格基準の平均利潤と生産価格を説明した後、平均利潤を超える超過利潤をめぐる競争として説明しています。第2篇第10章「競争による平均利潤率の均等化。市場価格と市場価値。超過利潤」に他ならない。ここでの競争も、単なる無政府的な無規律な競争ではない。「一物一価の法則」の具現化として、「法則は、もっぱら無法則性の盲目的に作用する平均法則としてのみ貫かれる」、そのメカニズム解明です。そこにまた「市場価格」「市場価値」とする、「市場]メカニズムの意味もあるのです。
 すでに「一物一価の法則」で明らかですが、ここでも貨幣による有効需要の変動に対して、供給条件がどのように対応するか、企業間競争がどのように対応するか?それが問われます。ただ、マルクスは第10章では、突如「一部の生産部門は、そこで充用される資本の中位構成または平均構成を、すなわち完全に、または近似的に、社会的平均資本との構成をもっている」と述べ、さらに続けて「これらの部門にあっては、生産される諸商品の生産価格は、貨幣で表現されたそれらの商品の価値と完全に、または近似的に一致する。他の方法では、数学的限界に達せらられないにしても、この方法では達せられるであろう」、こうした書き出しです。エンゲルスが、マルクスの原稿を探し出して並べたように感じます。さらに生産条件を、わざわざ中位構成、平均構成としているのも、またぞろ労働価値説のドグマとの関連で、数学的処理を考慮したのでしょう。しかし、価値形態を前提に、形態規定として「費用価格と利潤」そして平均利潤と生産価格を説明してきた枠組みでは、中位構成、平均構成、さらに大量構成などの制約条件は、ここでは必要なく説明しなければならない筈です。
 そこで生産条件の差異をめぐる投資競争ですが、ある部門の上位、中位、下位の三条件で説明しましょう。上記ドグマから自由になれば、「一物一価の法則」からいって、有効需要の変動に対応する供給条件、そのための投資競争の選択が問題です。需要は拡大したり不変だったり、また縮小することもあります。いま拡大するとして、それに最も積極的に対応する生産条件が下位ならば、下位の生産条件の投資が市場の変動を調節し、その投資が市場調節的な生産価格となります。マルクスは、労働価値説のドグマから、平均利潤や生産価格を価値・剰余価値に還元しょうとするから、唐突に中位構成、平均構成などを持ち出し、さらに市場価格や市場価値の説明に堕ち込んだのでしょう。しかし、すでに形態規定として平均利潤や生産価格を説明し、「転形問題」も解決した。とすれば、ここでは平均利潤、生産価格を基準とする市場の投資競争です。投資競争は、特定部門の上、中、下の生産条件
の選択でも、それは他の部門との投資の選択と結びついた競争です。したがって市場価値や市場価格ではなく、市場調節的生産価格とすれば足りるでしょう。
 上例では、投資の選択が下位ですから、それにより市場調節的な資産価格が決まれば、当然ながら中位や上位の生産条件には、平均利潤を上回る超過利潤が生じます。この超過利潤を目指して投資競争がが拡大、需要の増加に供給が対応します。需要拡大への対応が、中位や下位の場合もありますが、その時は超過利潤の獲得が少なく、総体的に見ると他部門への投資が拡大し、市場調節的生産価格が変動することになるでしょう。いろいろなケースの生産条件の組み合わせが現実には生じますが、ここでは立ち入りませんが、いずれにせよ部門内部の上、中、下の生産条件の差異、さらに部門間の投資条件の差異、両者の差異がオーバーラップしながら、超過利潤をめぐる市場の投資競争が進行します。そして、この投資競争を通じて、市場調節的な生産価格も変動し、個別資本の競争の基準として、ここでは「一物一価の法則」が平均利潤、生産価格の法則として貫かれるのです。
 上記の通りマルクスは、ここでも生産条件の違いによる資本構成について、「中位構成」とか「平均構成」とか、できるだけ価値と生産価格の数量的乖離の少ない事例を持ち出し、さらにまた市場調節的な生産価格ではなく、「市場価値」そして「市場価格」をタイトルにして、全体的に市場価値論として展開しています。マルクスの原稿が完成稿とも思われませんから、試行錯誤の過程とも推測される内容です。そのため市場価値論では、上記のように資本構成を「中位構成」とか「平均構成」とか、さらには量的に大量な構成として「大量構成」などの主張が、主流を占めてきました。しかし、こうした主張は、古典派労働価値説の継承のドグマへの還元です。しかし、商品、貨幣、そして資本を流通形態として、「費用価格と利潤」から平均利潤と生産価格を説く方法とは矛盾する。だから価値と生産価格の矛盾が、再びマルクス労働価値説批判を招いたことを否定できない。さらに超過利潤としての地代論についても、批判を招来しています。
 ここでは簡単に繰り返しますが、労働力の商品化と共に、土地・自然も、資本の原始的蓄積を通して商品化され、土地所有も近代化した。同時に労働市場も、土地不動産市場も成立した。しかし、それは資本主義の発生の歴史的事情であり、『資本論』の純粋資本主義では、土地も労働力も商品経済的富として、他の商品と共に大量に商品取引される。そこに商品形態、そして価値形態の特徴があり、資本主義経済の法則性の根拠となっている。また、商品取引される土地・不動産は、それを利用する資本により超過利潤が獲得され、土地所有者に地代が支払われます。しかし地代化されるにせよ、土地を利用して形成される超過利潤そのものは、たんに特有な生産条件の差異により形成されます。他の生産条件と同様に、いま土地が優、良、可の三種類だとすれば、上記の例と同様に有効需要の変化に対応するのが、可の条件だとすれば優や良の土地には、土地の優劣に伴う生産条件の差異により超過利潤が形成される。この超過利潤の形成については、何らの特殊性も認められません。地代論を超過利潤論として説く理由も、まさにここにあります。
 ただ、土地の優劣による生産条件の差異は、土地自然によるものであり、資本の競争によって直接変えられない。そこに特殊性がありますが、その差異も肥沃度などは自然条件の固定化が大きいものの、位置の違いなどは流動的です。また肥沃度も、土地改良などもあり、絶対的な差異ではない。ただ、相対的に優、良の条件が限られ、そのため上記の例では下位の可の生産条件の限界的投資により需給の調節が進み、市場調節的な生産価格を形成する。したがつて、優、良の土地の超過利潤が地代化する。ただ、資本家が土地を自己保有すれば、超過利潤は資本に帰属したままだし、土地の借り入れの際だけ地代が具体的に形成される。しかし、土地も労働力と同様商品化され、不動産市場で大量に売買されますから、とくに位置の違いによる超過利潤の固定化も絶対的ではない。土地所有者による土地の独占も、独占地代や絶対地代として過大視するのは疑問です。
 いずれにせよ地代論も、超過利潤論の一種として、土地自然の特殊性が反映される限度内で論じられれば済むでしょう。資本主義の初期の形成期には、本源的蓄積として労働力の商品化と共に土地問題が大きかった。しかし、それは歴史的問題であり、純粋資本主義論としては、地代論は超過利潤論として論ずれば済むはずです。また、地代論では、優、良の土地が制限され、需給の調節がもっぱら可の限界地の限界投資で決まります。しかし、それも土地だけに固有な問題ではない。他の部門の投資でも、上、中の優位条件の利用が制限され、下の劣等条件の投資が市場調節的生産価格のなるケースも多い。その点は、上記のマルクスが労働価値説のドグマに平均利潤や生産価格を還元、平均構成や中位構成で市場価値論を説明しようとしたからではないか?「論点」として、市場価値論の「平均原理」と「限界原理」を取り上げて補足しましょう。

 「論点」 「平均原理」と「限界原理」
 マルクスは、上記の通り『資本論』冒頭の商品論から、古典派労働価値説の残滓ともいえる労働価値説による実体論があり、ここ平均利潤と生産価格でも、「費用価格と利潤」などの形態規定を混濁させている。ここで供給条件である生産条件を、資本の価値構成として「中位構成」「平均構成」として、生産価格を価値に還元するために選別する市場価値論の手法は、その混濁を象徴しているのではないか?そのため市場価値論は、市場における需給の調整の市場メカニズムを無視して、労働価値説に還元されて主張されている。そこから市場価値論の主流も、「中位構成」「平均構成」の資本の供給条件から、機械的に「平均原理」として主張されてきました。しかし、中位の供給条件が、数量的に平均構成になるわけではない。逆に平均構成が中位の条件であるとも限らず、単なる数量的な仮空の条件になることもありうる。こうした「平均原理」の主張に対しては、改めて労働価値説批判が浴びせられました。
 すでに「一物一価の法則」で説明しましたが、有効需要の変化に対応して、市場では供給条件が選択されますが、それは「平均原理」による価値法則の具体化ではない。限界的な投資の拡大による限界的な供給であり、いわゆる「限界生産力説」も主張されてきました。こうした限界原理による供給の拡大ですから、上位の供給条件での対応なら、市場調節的生産価格は低下する。逆に下位の生産条件での対応ならば、地代化する超過利潤の形成にみられるように、生産価格が上昇する調節になる。前例では、優および良の土地利用では超過利潤が形成され地代化する。むろん中位の条件の例もありうるわけですが、いずれにせよ「限界原理」として市場の需給変動が調節をみるのです。太陽光など、自然エネルギーの利用が自由に行われれば、限界原理で「費用ゼロ」も当然ありうるわけです。
 マルクスの時代、まだ数量的処理について、上述の「価値の生産価格への転形問題」で提起された「連立方程式」の利用も十分に普及していなかったし、「限界原理」についても同様だった。その点で商品取引における有効需要に関連して、限界効用の低減についても、数式的処理が進んでいなかった事情があった。ただ、市場価値論をめぐっては、明らかに限界原理の利用を念頭に置いていた節もある。とくに続いて取り上げる「資本の絶対的過剰生産」における利潤率低下については、資本の限界的投資を明らかに想定しています。いずれにせよ、マルクスの時代が数量的処理について、まだ「限界革命」が進み始めてばかりの過渡期だった点を考慮すれば、マルクスが限界原理の利用について、大きな関心を寄せていた点を前向きに評価すべきではないでしょうか。 

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by morristokenji | 2018-05-31 20:01

(13)平均利潤と生産価格

 すでに紹介の通り、マルクスは『資本論』の巻別構成について、第1巻「資本の生産過程」第2巻「資本の流通過程」に対し、第3巻をたんなる両者の統一ではなく、「競争や信用」を含む「全体として見られた資本の運動過程から生ずる、具体的な諸形態を発見し、説明することである」と第3巻の冒頭で述べている。その上でエンゲルスは、マルクスの原稿を整理して、「費用価格と利潤」のタイトルの下で、利潤や利潤率、平均利潤や生産価格を説明している点が、極めて重要な論点です。ここで、資本の直接的生産過程に戻り、剰余価値率の利潤率への転化などではなく、ここでも価値形態論が前提になって、資本を商品、貨幣に続く流通形態としてのG-W-G'としている。だからこそ、G-Wがc+vではなく、わざわざ費用価格kp(産業資本形式ならG=W===Pが費用価格)としているのです。こうした流通形態の見地から、費用価格とW-G'販売価格vpとの関連で、G'の利潤を説明して、利潤率を導く方法を採用している。その上で個別資本の競争による平均利潤、そして平均利潤が実現される生産価格を展開する方法に他なりません。
 ここでは、明らかに費用価格kpと販売価格vpの差額がΔgとしての利潤pです。この利潤が、費用価格を含む投資の全体額Gとの関連でΔg/G利潤率を形成する。個別資本が競争に際しての価値増殖率であり、利益率です。そして個別資本による自由な競争の下では、利潤率が平均化され、平均利潤率及び平均利潤apが形成され、価格基準としては生産価格ppが成立します。このように流通形態としての資本が前提され、さらに資本の流通過程の固定資本の存在が作用して、平均利潤率に基づく生産価格論の展開になります。しかし、ここでも生産価格論の展開は、価値形態による流通形態の見地だけでなく、ここ生産価格論においてもまたぞろ、『資本論』冒頭から前提されてきている労働価値説の等価交換との矛盾に逢着します。価値と生さ価格の矛盾に他なりません。
 マルクスは、「資本主義的に生産される各商品の価値Wは、定式W=c+v+mで示される」として、まず直接的生産過程での商品の価値規定を提示します。こうした価値規定こそ、労働生産物を商品経済的富として、その価値を等価労働量に還元していたスミスなど古典派以来の労働価値説から直接的に導かれたものです。しかし、その論証こそ単なる同義反復・トートロジーに過ぎない、というマルクス批判を引き起こしました。すでに繰り返し述べたので繰り返しませんが、こうした価値規定を前提にして、ここでまた「費用価格をkと名付ければ、定式W=c+v+mは、定式W=k+mに、商品価値=費用価格+剰余価値に転化される」と述べます。こうした費用価格、利潤の定義では、上記の流通形態としての資本の運動形式は無視され、費用価格や利潤は単に実体的なc+vの見方の違い、「括り方」の差異だけに過ぎなくなってしまう。個別資本が競争する流通形態としての資本、その費用価格や利潤の提起の意味は無くなってしまいます。
 同様にマルクスは、労働価値説に基づく商品の価値規定W=c+v+mを設定するため、剰余価値mの見方の差異だけで利潤pを定義することになります。さらに利潤率も、m/c+vに還元される。また、固定資本の回転を考慮するものの、m/Cが平均利潤の前提に置かれ、価値から単に量的に乖離した生産価格となる。そうなれば同義反復・トートロジーに過ぎないと批判を浴びた労働価値説は、ここで価値と生産価格の矛盾に陥り、さらに批判の矢を浴びざるを得なくなってしまいます。マルクスが折角、第3巻について「競争・信用」を意識しながら、「資本の運動過程から見られる具体的諸形態」とした費用価格や利潤の形態的意義は消えて無くなる。われわれは、ここでも価値形態論を重視し、流通形態としての資本の形態規定である「費用価格と利潤」の見地から、個別資本の競争の基準としての生産価格の展開が必要です。
 マルクスがここで逢着した価値と生産価格の矛盾ですが、上記のc+v+mが前提され、たんにmだけがpに、さらに平均利潤apに転化するだけで、剰余価値mの単なる再配分に過ぎないから、総剰余価値は総利潤に等しい。また総価値=総生産価格になり、総剰余価値=総利潤、総価値=総生産価格として、等労働量交換としての労働価値説は堅持されているという、ここでも同義反復に過ぎない遁辞が主張されます。すでにドグマの化した労働価値説から離れて、新たな価格基準としての生産価格は、価値形態論を前提にして、価値から価格の乖離として説明されなければならない。そのためには資本の直接的生産過程で説明された、資本・賃労働の階級関係の剰余価値論と、ここ個別資本の競争の具体的運動形態との「次元の差異」を明確にする必要がある。
 すでに述べたので略述しますが、価値形態論を前提に価値から質的・量的に乖離する価格基準として、まず「一物一価の法則」が論証されました。資本の競争論としての生産価格が、ここでは「一物一価」の法則を具体化します。費用価格も販売価格も、価格の基準としては生産価格による取引です。労働者も労働力商品の価値を、必要労働を表現する生活資料として資本から買い戻す。労働価値説は、等労働交換のドグマではなく、労働者が必要労働の買い戻しとして生活資料を購入する、こうした必要労働による労働力商品の価値規定として論証される。資本の直接生産過程としては、剰余価値論も蓄積論も、労働による価値規定として説明されてきました。純粋資本主義が前提され、資本・賃労働のマクロなレベルでは、剰余価値が剰余労働により規定されていればよかった。しかし、費用価格・利潤の個別資本の競争の次元では、価格の基準が費用価格も販売価格も生産価格である。
 上記のように労働価値説が前提され、費用価格がc+vで剰余価値mだけが平均化されpに修正されるだけでは、費用価格は価値で売買される。生産価格は販売価格だけでは、生産価格は個別資本の全体、総資本の売買を規制できない。例えば。同じコメが、食堂で生産財として費用価格により購入されるときは価値で、コメ屋で消費財として販売されるときには生産価格になる。これでは一物一価の法則が否定され、一物二価になり生産価格が価格基準を形成できない、という重大な矛盾に陥ることになる。この費用価格の生産価格化を巡り、国際的にも「価値の生産価格への転形問題」が論争されることになったのです。そうした論争として、マルクス価値論をめぐる論争が進められたので、以下「論点」として紹介しましょう。

「論点」
 転形問題は、上記の通りマルクスの費用価格の生産価格化をめぐる論争であり、生産財と消費財など、すでに紹介したマルクスの「再生産表式」に関連した論争でした。問題提起者は、L・ボルトキェヴィッツと言われますが、マルクス経済学の内部でもP・スウィージー、M・ドッブなど、また近代経済学からもP・サミュエルソンなどの参加もあった国際的論争です。再生産表式は、社会的総資本による社会的な労働配分の経済原則の説明であり、c+v+mの価値構成と共に、生産手段・生産財=第一部門と消費手段・消費財=第二部門に分け、使用価値の視点から労働配分を説明しています。こうした使用価値の視点があるから、費用価格と販売価格の社会的絡み合いが論じられることになる。例えばスウィージーは、再生産表式を簡単化し、次のように論点を整理しました。
 (表)略
 ここで第一部門で使用された不変資本は400だが、販売される生産価格は433・1/3、また3つの部門の賃金の支払い総額は200だが、第二部門の賃金財の産出額は166・2/3、第三部門の奢侈財は、たまたまこの表では総剰余価値に見合っている。こうしたマルクスによる費用価格は価値、販売価格を生産価格とした転化論では、産出と投入との間に不一致が生じ、単純再生産の均衡条件が満たしえない。そこで経済原則を充足する再生産表式の性格上、実物面・実体面の均衡は動かせないとすれば、もっぱら価格面での不一致として処理されなければならない。その点で、ここでも費用価格や販売価格が、上述の通り流通形態としての資本の「具体的な諸形態」として位置付けられていた重要性が提起されてきます。とくに質的にも量的にも価値実体から乖離する価格形態を踏まえ、「一物一価の法則」として費用価格と販売価格を同時に生産価格として説明しなければならない。すでに計量的なレベルでの論争になっていますが、さらに費用価格と生産価格が同時に規定しあう関係上、スウィージーは「函数関係」として処理するため、次のような連立方程式を提起します。
 (表) 略
 ここで(1)は、単純再生産の均衡条件を実物・実体的にしめす恒等式、それに対し生産価格で評価され直す際、Ⅰにはx、Ⅱについてはy、Ⅲはzの各未知数を、生産価格による再評価の変化率を示すものとしてウエイトする。平均利潤率を示す未知数をrとすれば、未知数は4つ、方程式は3つで、方程式の解法だけでみれば、①もう一つ方程式を立てるか、②未知数を一つ減らすしかない。①としては、上述の総価値=総生産価格、あるいは総剰余価値=総利潤の命題、②としては、ある部門に貨幣材・金の生産を想定して未知数を減らす。方程式の解法など混乱していた論争を整理すれば以上の通りです。ここでも数学ではない以上、労働価値説のドグマを超えて、価値形態を前提とした一物一価の法則として生産価格を規定すれば、②の未知数を減らす解法、それは金生産をⅢに属するとすれば、貨幣材の金の実物・使用価値が価格形態として生産価格を示すことになる。zをカットできる。
 さらに生産価格の形態規定の重要性は、価値形態としての価格形態だけではない。費用価格の生産価格化が、改めて意味を持ってくる。ここで金生産がそのまま生産価格として購買力を持つとすれば、金生産には平均利潤を分配される規制のメカニズムはどこから与えられるのか?それは金生産部門の費用価格の生産価格化によって与えられる。その点でも費用価格の生産価格化、そして形態規定の重要性が提起されます。いずれにせよ、再生産表式の実物的・実体的な計量関係と、費用価格と生産価格の形態規定の次元の違いを明確にして、計量的な処理を進めることが重要です。その点でも、マルクスが費用価格をたんなる実物的・実体的「生産費用」とせず、形態的に「費用価格と利潤」とした意義が認識されるべきでしょう。
(拙稿「価値の生産価格への転形問題ー価値法則と生産価格」『経済評論』1960年1月参照) 

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by morristokenji | 2018-05-11 11:01