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by morristokenji

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 『資本論』の信用論についても、その編別がまず問題です。競争論が前提になるのは当然にしても、第4篇の冒頭には、信用論を抜きにして「利子生み資本」が説かれている。資本相互の競争や信用を抜きに、いきなり利子生み資本が説かれているのです。なぜそうなったかは不明ですが、マルクスの原稿を、エンゲルスが適当に配置したのでしょう。しかも、その内容がさらに問題です。「利子生み資本」なる資本が、資本相互の信用を抜きに、なぜ利子生み資本という形式で登場できるのか?さらに疑問なことに、貨幣の物神性を受けているのでしょうが、「資本の物神性」が説かれている。第24章の冒頭ですが、第21章「利子生み資本」を振り返って、「利子生み資本において、その資本関係は、その最も外的な最も物神的な形態に達する」と述べているからです。「商品物神」「貨幣物神」に対応して、「利子生み資本」を「資本物神」として、資本の競争や信用、利子との関係を抜きに、いきなり「資本物神」が説かれているのです。では、この「資本物神」を具現する「利子生み資本」とは何か?
 そこで21章「利子生み資本」内容ですが、マルクスは一方において「貨幣資本家」、他方では「機能資本家」を持ち出し、貨幣資本家は「資本として投じる貨幣を持ちながら、自らは資本として投じない」資本家であり、逆に機能資本家は「貨幣として投じる貨幣を持たない資本家」としています。ここでの貨幣資本家は、単なる貨幣資本の担い手ではない。貨幣の機能として「資本として機能する使用価値」があり、「この可能的資本としての、利潤の生産のための手段としての属性において、貨幣は一つの商品に、ただし一種独特な商品になる。または、同じことだが、資本は資本として商品になる。」それを機能資本家に貸し付けて利子をとり、「利子生み資本」として価値増殖を図るというものです。
 しかし、この「利子生み資本」には多くの疑問が寄せられている。商品、貨幣に続く、たんなる流通形態の資本の形式ならともかく、すでに資本の直接的生産過程や流通過程、さらに再生産過程まで明らかにされている段階で、そもそも「資本として投じ得る貨幣を持ちながら」投資しない資本家がいるのか?貨幣の使用価値に、貨幣の諸機能のほかに「資本として機能する使用価値」などあるのか?機能資本家にしても、利子の根拠が説明されていないのに、利子支払いの根拠があるのか?さらに貸し付けられる資本を返済する根拠があるのか?など、など多くの疑問です。要するに、本来は資本の流通過程を根拠に、資本の競争を媒介する「信用論」を抜きに、貨幣資本家も機能資本家も説明できない筈である。マルクスはここで、資金を融通する貨幣市場(資金市場)と、株式資本などの資本市場とを混同しているのではないか?だからまた、上記のように「資本は資本として商品になる」とも述べたものと思われます。
 このように「利子生み資本」論が、競争を基礎とする信用や利子の運動機構から切り離されて論じられているが、つづく第22章「利潤の分割。利子率。利子率の自然率」では、資本の競争を基礎に資金の貸借をめぐる信用関係、貨幣市場での利子率の変動、さらに平均利潤率と自然利子率との関連が論じられている。とくに利子率と利潤率の関係は、景気循環の進行中に両者の関係が変化するのであり、ここでは当然のことながら資本蓄積論を基礎とした景気循環が対象となってくる。ただ、ここでもマルクスの純粋資本主義の抽象による、資本蓄積過程の自律的運動が明確でないためでしょうが、景気循環の対象設定が不明確であり、「我々の考察圏外に属する循環」などと述べられている。そこで、すでに述べた「資本の絶対的過剰生産」に論点を絞って、信用と利子率の運動を整理することにしましょう。
 資本の蓄積過程を基礎として、資本の過剰蓄積が進む中で、すでに見たように利潤率の低下を利潤量で補う投資競争が激化する。この投資競争の激化は、言うまでもなく資本の流通過程で明らかにされた遊休資本の信用による利用を基礎として進む。信用による遊休化のマイナスをプラスに変えることにより、利子支払いの根拠も与えられる。さらに商業資本の役割は、①遊休化によるマイナスを、商品の買い取りで代位する役割、さらに②商品販売の店舗など「純粋な流通費用」のマイナス=空費を商業資本が専業化してマイナスする、「マイナスのマイナス」で企業利得の根拠も与えられる。こうした商業資本の活動と結びつきながら、資本による信用の利用が拡大し、商業信用から銀行信用の利用も高まることになる。
 こうした銀行信用の利用拡大は、銀行信用を基軸として成立している貨幣市場の利子率の上昇を招く。いわゆる「中位の活況」の下では、中位の利潤率に中位の利子率が対応して、景気の拡大が進んできた点から、ここでは利潤率の低下に利子率の上昇が対応する。この利潤率と利子率の対抗関係には、資本の競争激化に伴い「投機活動」の関与が関連せざるを得ない。とくに商業資本の介在は、G-W-G'の流通形態の特徴からも、より安く「買占め」、より高く「売り惜しむ」投機活動を助長し、それが信用利用と結びつく。つまり、「買占め」のための借り入れ拡大と、「売り惜しみ」による返済の遅延とが進み、投資拡大―競争激化―利潤率低下、それが投機の介在により、利子率の上昇に結びつかざるを得ない。とくに「資本の絶対的過剰生産」のもとでは、追加投資がゼロあるいはマイナスの利潤率まで進む。そうした段階では、利子率の上昇が投機を通して金融恐慌に発展することは必然であり、ここに「恐慌の必然性」が提起されます。マルクスの説明は必ずしも明確ではありませんが、「資本の絶対的過剰生産」との結びつきでは、競争・信用と商業資本の介入によって、恐慌現象は金融・信用恐慌として必然化することになるのです。

 「論点」恐慌の必然性と「投機活動」
 初期マルクス以来の「唯物史観」では、「恐慌・革命テーゼ」と呼ばれるイデオロギー的仮説が、根強く残っていました。いわゆるプランでも、「世界市場と恐慌」により資本主義の崩壊を説こうとしていたように推測されます。しかしマルクスは、理論的には純粋資本主義の抽象、とくに資本蓄積論など景気循環の必然性の解明から、さらに利潤率低下について「資本の絶対的過剰生産」を提起して、恐慌の必然性にアプローチした。また、現実的には47年恐慌のあと、約10年周期の恐慌の到来にもかかわらず、革命情勢は来ない。むしろイギリス資本主義を先頭に、恐慌を梃子にして資本主義の成長・発展が実現した。こうした中で、マルクス自身「恐慌・革命テーゼ」の仮説からの脱却を迫られた。純粋資本主義の抽象による自律的運動法則の解明だし、『資本論』の後期マルクスから、さらに70年代の晩期マルクスに他なりません。
 『資本論』では信用と利子率についても、利潤率と利子率の変動を中心に金融恐慌の解明が進んでいる。ここでも部門間不均衡や過少消費による商品過剰論が併存するものの、とくに低下する利潤率に対する、利子率の急激な上昇については、金融の投機化が重視される。言うまでもなく市場取引では、取引の投機化が必然的だし、特に景気が上昇し過熱化する際は、経済全体が投機化する傾向が強い。ある意味で投機は、市場経済に特有な現象だし、マルクスの強調した「無規律性の盲目的に作用する平均法則」もまた、市場経済の投機化を通して実現すると言っても過言ではない。流通形態としての資本が、上記の通りG-W-G'の形式で登場し、安く購入し、より高く販売する形式そのものが、すでに「投機」の可能性を孕んだ形式です。しかし、広く経済学、マルクス経済学でも、価値法則など法則解明については、「投機」などの攪乱的要因を捨象し、ひたすら平均化した状態で説明されます。一方では資本主義経済を「カジノ資本主義」と呼びながら、同時に他方では「投機」を単なる攪乱要因として捨象するのです。そのため市場経済の無政府的特徴が無視され、市場法則の投機的特殊性が捨象されるきらいが大きかった。とくに金融恐慌の必然性の解明には、「投機」が不可欠だと思います。(「投機」については、拙著『恐慌論の形成』2005年、日本評論社刊の第4、5章で詳論したので参照のこと)
 さらに上記の通り、「資本の絶対的過剰生産」の局面を迎えて、低下する利潤率を利潤量でカバーしようとして、投資競争が激化する。過当競争ですが、企業はこの過当競争に対応するためにも、ますます信用への依存を高める。商業信用から銀行信用へ、銀行は資金需要の増大に対応するために、いわば信用の投機化といえる「信用創造」を拡大する。企業は信用創造を利用するが、より安い利子で借り入れた資金をより高い利子で返済を迫られる。この信用の投機化と結びついて、商業資本など企業がさらに投機的取引に依存せざるを得なくなる。とくに限界利潤率がゼロ、マイナスの「資本の絶対的過剰生産」が進めば、銀行の「金準備」の歯止めがある以上、信用創造で投機化した利子率の上昇が生じ.利潤率と利子率はここで激突、貨幣金融恐慌が必然化する。ここでは商品の投げ売りも起こり、「資本過剰」による「商品過剰」も暴露されます。
 こうした投機の介入による金融恐慌の必然性を、投機を攪乱的要素として捨象する結果でしょう、ここで「世界市場と恐慌」のテーゼがまたまた復活を見ます。銀行の利子率上昇を、貿易収支の悪化など、中央銀行の「金準備」の流出から説明する見解に他なりません。しかし、これは明らかに純粋資本主義の抽象の否定だし、「唯物史観」の恐慌革命テーゼへの逆コースになるだけでしょう。純粋資本主義の放棄による世界資本主義への復帰に他ならない。それだけに商品形態には「投機」が不可欠であり、投機を通して資本主義経済の「無規律性の盲目的に作用する平均法則」が貫かれる法則性の意義を銘記すべきだと思います。

by morristokenji | 2018-06-10 16:47
 『資本論』は第3巻第3篇で、「利潤率の傾向的低下の法則」を論じています。第1巻第7篇と同様に、資本主義経済の歴史的傾向として、生産力の上昇と共に利潤率が低下し、その結果として資本主義の歴史的限界を説く、生成、発展、消滅の歴史法則です。こうした歴史法則を、純粋資本主義の自律的運動法則の中で説き、窮乏化革命や利潤率低下によって資本主義社会の「最後の鐘を鳴らす」イデオロギーは、初期マルクス・エンゲルス以来の「唯物史観」のイデオロギー的仮設でしょう。しかし、それは理論的論証とともに、歴史的に実証、検証されなければ、単なるドグマに終わるだけです。とくにここ「利潤率の傾向的低下」との関連では、第13章「この法則そのもの」を生産力の発展に伴う資本の有機的構成の高度化から説明した後、歴史的な実証、検証を交えながら法則に対して第14章で「反対に作用する諸要因」を挙げて、マルクス自ら反省的に検討しています。そうしたマルクスの誠実さは大事ですが、しかし法則の自己否定にもつながる。
 さらに、より重要な理論的内容ですが、第15章「この法則の内的矛盾の展開」において「生産拡大と価値増殖との衝突」、さらに「人口の過剰における資本の過剰」を論じています。ここでもマルクスは、「利潤率の傾向的低下の法則」の枠組みの内部ですが、資本蓄積に伴う競争と利潤率の変動、とくに「この法則の内的矛盾の展開」として景気変動を説き、その上で「資本の絶対的過剰生産」の説明があります。第1巻の資本蓄積論として、周期的景気循環の必然性の基礎を解明した上で、資本の競争と利潤率の変動を論じた重要な論点でしょう。そこで、ここでも利潤率の傾向的低下をめぐる歴史的な傾向は別に措いて、第1巻の資本蓄積論との関連で。「この法則の内的矛盾の展開」と「資本の絶対的過剰生産」について、立ち入ることにします。
 マルクスは、生産力の発展が資本の価値増殖と矛盾する点を先ず指摘し、「利潤率は低下するが、利潤量は、充用資本量の増加と共に増加する」点を強調します。「率の低下を量で補う」資本の価値増殖行動ですが、そのうえで「人口の過剰における資本の過剰」を論じます。資本蓄積論と資本の競争論との接点ですが、資本の投資競争により資本蓄積が進みますが、資本は率の低下を、労働強化のためにも、「個別資本の最小限は増大する。」すでに資本蓄積論でも強調されていた通り、資本は「有機的構成不変の蓄積」、たんなる能力拡大型投資で拡大しょうとすれば、賃金の上昇から剰余価値率が低下する。この剰余価値率の低下が、個別資本の利潤率低下をもたらし、この率の低下が量の拡大を刺激して、投資競争の激化をもたらす。その結果として「個々の商品のではなく、資本の過剰生産ーといっても資本の過剰生産は、つねに商品の過剰生産を含むのであるがーは、資本の過剰蓄積以外の何ものをも意味しない。」ここでマルクスは、商品過剰論ではなく、資本過剰論の立場を明確にしつつ、さらに次のような問題提起をします。
 「いかなる場合に、資本の過剰生産は絶対的であろうか?しかも、これやあれやの、または二、三の重要な生産領域にわたるものではなく、その範囲自体において絶対的であるような、したがってすべての生産領域を包含するような、過剰生産は?」資本の絶対的過剰生産は、同時に全般的な過剰生産であり、それゆえに周期的恐慌に結びつくのであろう。マルクスは、自ら定義するように「資本主義的生産の目的への追加資本が、ゼロに等しくなれば、そこには資本の絶対的過剰生産が存在するであろう。しかし、資本主義的生産の目的は、資本の価値増殖でる。ーーーしたがって、労働者人口の供給する絶対的労働時間も延長されず、相対的剰余労働時間も拡張されえないような、労働者人口に対する比率において、資本が増大するや否や(そうでなくとも、相対的剰余労働時間の拡張は、労働に対する需要が強くて、賃金の上昇傾向がある場合には、実行されえないであろう)、したがって、増大した資本が、その増大以前に比して同じであるにすぎないか、またはより少なくさえもある剰余価値量を生産する場合には、そこには資本の絶対的過剰生産が現れるであろう。すなわち、増大した資本C+Δcは、資本CがΔcによるその増大以前に
生産したよりも、多くの利潤を生産せず、または、それよりも少ない少ない利潤をさえ生産するであろう。」
 少し長い引用だが、極めて重要な指摘が見受けられます。第一は、「商品の過剰」と「資本の過剰」の関連だが、ここでマルクスは明確に「資本の過剰」の結果としての「商品の過剰」であり、その逆ではないと言い切っている。したがって、すでに紹介した商品過剰論の立場が明確に否定され、あくまでも「資本の過剰」の立場から「資本の絶対対的過剰生産」が論じられ、さらに実現論的恐慌論の立場も否定され資本過剰論が表明された、とみるべきでしょう。マルクス恐慌論として、極めて重要な指摘です。
 第二は、資本の絶対的過剰の前提に、利潤率の低下があるが、さらにその前提として、賃金の上昇による剰余価値率の低下が指摘されている点です。ただ、マルクスの主張は「括弧付き」だし、必ずしも明確ではない。ただ利潤率の低下を全般的なものとして、絶対的過剰として説明している点では、資本の直接的生産過程の剰余価値生産の限界、そして資本蓄積の過程との関連を問われなければならない。その点で、マルクスが賃金の一般的上昇、さらに労働力の不足にも踏み込んだ点は重要な指摘として重視すべきです。すでにマルクスが資本蓄積論において、「資本構成不変」の蓄積パターンを提起していた以上、ここで資本蓄積の進行に伴う労働力の不足、賃金上昇のメカニズムが重視されるのは当然です。
 さらに第三に、資本の競争論として、特に重要なマルクスの主張ですが、資本の絶対的過剰生産について、ここで「限界原理」を利用している点です。一見して理解されますが、上記のように「増大した資本C+Δc」、つまり限界的投資について、利潤率がゼロ、あるいはマイナスとしている。したがって、ここではマルクスの上述の「平均原理」、そして資本構成が「中位構成」や「平均構成」を持ち出して市場価値を説明していたのとは全然違う。あくまでも既存の投資Cに対し、「追加資本であり」したがってΔcであり、その限界的生産力ではゼロないしマイナスの利潤率となる点から資本の絶対的過剰生産が説明されるのです。こうした説明からすれば、資本の絶対的過剰生産の説明原理にとどまらず、マルクスは資本の競争、市場調節的生産価格の説明原理としても、「平均原理」ではなく「限界原理」を採用する考えだったのではないか?当時まだ「限界革命」が始まった時点にもかかわらず、マルクスは数理的説明としても、限界原理の「資本C+Δc」をここで持ち出すことになり、そうした点から景気循環論、とくに恐慌論の説明に及んだと思われます。そこで、競争論から進んで、信用論による利潤率と利子率の対抗関係を見ることにします。

「利潤率の傾向的低下の法則」
 『資本論』第3巻、第3篇のタイトルとなっている「法則」は、言うまでもなく長期にわたり論争点になってきました。論争は、利潤率低下そのもとしても論じられましたが、上記の通り「傾向的低下の法則」として、資本主義の歴史的な生成、発展、消滅の歴史的法則として、とくに利潤率の低下による資本蓄積の破綻として論じられてきた。「法則そのもの」は、簡単に言えば生産力が上昇する場合、資本主義的な生産に特有な現象として、剰余価値率m/vが一定と仮定して、次のように定式化される。
 p/C=m・n/c+v=m・n/v/c+v/v=m・n/v/(c/v+1)
 この利潤率の定式において、生産力の発展は資本の有機的構成v/cを高める。したがって利潤率p/Cは低下せざるを得ない、というものです。しかし、何よりも先ず生産力が上昇し、相対的剰余価値の生産も進むのに、①m/vを一定とするのは背理だし、②技術的発展は回転度数nを高めるだろうし、③c/vについても、cの価値が低下するという「反対に作用する」要因もあるから、利潤率の低下を抽象的な原理的説明として論証することは困難です。原理的には、純粋資本主義の抽象として、生産力の上昇が、資本蓄積論の展開の中で、資本の過剰をひきおこし「絶対的過剰生産」により、周期的に利潤率の低下を招く論証をすれば足りる。マルクスは、資本蓄積論でもそうでしたが、一方では原理的論証により周期的恐慌の必然性を解明する恐慌論を展開しようとした。しかし、同時に他方では、資本主義の生成、発展、消滅の歴史法則として、利潤率の低下から資本主義の崩壊をイデオロギー的に主張したかったのでしょう。
 特にここでは、資本の競争の激化により、「世界市場と恐慌」という「恐慌・革命テーゼ」のイデオロギー的仮設から抜けられなかった事情があったかも知れません。エンゲルスの編集もあったのでしょうが、初期マルクス・エンゲルスの唯物史観のイデオロギー的仮設の枠組みの中に、原理的な「資本の絶対的過剰生産」の解明が埋没させられる傾向が強かった。しかしマルクスは、ここでも資本蓄積にもとづく資本の競争論として、「限界原理」に基づき「資本の絶対的過剰生産」の必然性の解明に成功したのです。その点で、資本主義の歴史的法則の解明とは別に、競争論として「資本の絶対的過剰生産」の解明の理論的意義を、高く評価する必要があるでしょう。

by morristokenji | 2018-06-05 19:47