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森のミュージアムの最新情報<研究ノート>を分離


by morristokenji
 欧米の「貰い子」について書いたが、とくにイギリスでは、EU各地から出稼ぎ、移民に加えて、「貰い子」も増えたらしい。ロンドン留学の際のアパートでも、隣室はスペインからの出稼ぎで、名前はカルメンだった。カルメンさん、冬季は帰省していた。いずれにせよイギリスは、出稼ぎ、移民(含、難民受け入れ)、「貰い子」など、多種多様な形の労働力対策を進めてきた。そうした中で「少子化社会」対策が深刻化しているのである。
 そのイギリス、一時的にポスト冷戦で旧東欧、ポーランドなどから沢山の出稼ぎ、移民労働力を受け入れることが出来た。しかし、ポスト冷戦によるグロ―バリズムによって、再び労働力確保が困難になり、EUから距離を置かざるを得ない状況が続いていたのではないか?ソ連・社会主義の崩壊によるグローバリズムも、何のことは無い08年の世界金融恐慌リーマンショックにより破綻した。しかもフランシス・フクヤマなど「民主主義と自由主義経済の最終的勝利」による「歴史の終わり」とミスリードした中国社会主義の発展により、逆に世界経済が救われたのだ。その後の米・中二大国体制のグローバル経済の復活も、米中心の発展により、またもや資本主義の基本矛盾=労働力商品の基本矛盾に逢着しているようだ。ウクライナ戦争もまた、その矛盾の暴露と言えなくもないと思う。いずれにせよグローバル経済は、労働力商品化の矛盾と資本過剰、それが体制的危機に逢着しているように見える。
 もちろん、少子化社会による体制的危機は、婚姻率や出産率の低下に見られるように、資本過剰に直接的に結びついてはいない。しかし、労働力商品化の矛盾としては、資本過剰による労働力不足が、少子化による労働力の体制的減少と結びつき、資本過剰を激化することにならざるを得ないし、資本過剰の激化が体制的危機の深化につながる。だからこそ、資本主義の体制側も体制的危機に資本過剰が結びつかないように、日本でも少子化社会対策として「子ども家庭庁」などを準備するのであろう。労働力商品化の基本矛盾、それが法則的に資本過剰を激化、それがさらに経済原則的な少子化社会の体制的危機に繋がっている。従って、資本主義の成長を抑制して低成長を計っても、それは体制的危機の解決にはならない。体制的危機の枠組みの変革が問われるだけだろう。

# by morristokenji | 2022-07-05 10:04
 近代社会の資本主義経済にとっての人口問題は、産業革命を通して、人口の急速な増加であった。しかし、資本主義の発展が金融資本として進む中で、急速な人口増加が逆転し、少子化社会となっている。今や人口減少は、体制的危機として受け止めざるを得なくなってきた。中世がそうであったようだが、人口は横ばい、ないし微増で安定してきたはずである。人口の少子化が長期に続くことは、その社会体制が安定的に存続できなくなったことを意味する。社会体制の危機に他ならない。
 人口問題を考えるに当たり、若干確認しておきたいのだが、人間は男女に生まれついて、恋愛をし、結婚して子供をつくる。それは本能的行為であり、いわば超歴史的・歴史貫通的で、経済原則に属するかどうかは兎も角、原則的である。また、「一姫二太郎」ではないが、子どもの数も2~3人と言うところだろうか?「貧乏人の子だくさん」は、資本主義の発展期の窮乏化と人口急増を言ったものかどうか?いずれにせよ、子供の数も原則的に考えられてきたように思う。
 昔、むかしの話になるが、結婚して子供が居なかったし、作れなかった。現在も全くの独居老人で、子どももいないし孫もいない、寂しい老後の毎日である。父や母が、やはり孫の顔を見たさに、当時若かった我々夫婦に向って、「早く子どもを作りなさい」とせがんで来た。しかし、作れなかったし、作らなかった。最後に母親は「子どもを作って育てて、初めて人間に成れるのよ。人間になりなさい。」忘れることのできない痛烈な一言だった。さらに「子供を貰いなさい、育てなさい」と付け加えた。それから「貰い子」探しに苦労した経験がある。
 ロンドン留学中も、「貰い子」の話が出た。研究室で、ある日「子どものお祝いだ」と言うので出席したら、何と主任教授の「貰い子」の祝いだった。その教授、3人の貰い子の父親で、家庭訪問の機会を設けて呉れた。英・仏では貰い子が普及し、それで「家庭・家族」の維持・温存が計られ、地域のコミュニティが残されているらしい。教授一家も、貰い子達は完全に家族に溶け込んでいて、実に自然な家族関係が形成されていた。周囲にも沢山の貰い子の家族がいるし、貰い子を含めた親子関係、家族関係で地域が成り立っているのが解る。そう言う体験を得たにもかかわらず、われわれ日本人には、残念ながら無理だったことを書かねばならない。

# by morristokenji | 2022-06-29 14:11
 「新しい資本主義」が提起されたこともあるだろうが、資本主義の体制的危機として「気候危機」から、「少子化社会」に変化して来たようだ。地球温暖化など、もっぱらエコロジカルなレベルから、さらに「気候危機」など、低炭素化への対応が中心だった。しかし、婚姻率や出生率の低下など、少子化社会への歯止めはかからないまま、体制的危機が深化を続けている。こうした体制的危機の深化が、「少子化社会」を改めて提起しているのであろう。少子化社会への緊急提言も準備されているようだ。
 少子化社会の危機については、日本では日経紙がリードしてきたようだが、「少子化に打つ手はないか上、中、下」等、今なお出産、子育て、教育など、個別課題が取り上げられている。こうした個別課題は、これまで育児や教育として論じられ、それなりの成果も挙げられてきたと思う。また、社会福祉政策、さらに福祉国家として,政策的にも体系化されて来た。しかし資本主義の体制的危機は、そうした個別課題の充実や体系化では止まりえない形で、「少子化社会」が進んでしまったのではないか?資本主義体制の危機として、今やレベルが違う形で提起されてきたように思われる。
 上記、個別課題が充実することは、社会福祉の充実になり、体制の局部的安定には繋がるだろう。それはそれなりに評価すべきだが、恋愛を結婚に繋げ、さらに妊娠から出産に進むだろうか?婚姻率の上昇に繋がり、出生率の上昇、さらに少子化社会の歯止めになるだろうか?原子力の利用が高まり、炭素化率が上昇し、気候異変が高まる時に、婚姻を進め、子づくりに励むだろうか?個別課題の充実と、資本主義の体制的危機とは、確かに繋がってはいるものの、後者は体制の選択にかかわりレベルが違い、次元がちがってくるほではないか?資本主義の体制を超えるか、超えないかになってくる。さらに言えば、近代社会の資本主義を迎えて、先進国を中心に、急速に人口が増加し、人口過剰が懸念された。それが逆転したのである。

# by morristokenji | 2022-06-25 16:41
 マルクス『資本論』を基礎として、現代資本主義のオルタナティブを「地域循環型社会」とする事に賛成であるが、ここで多少整理して置きたい。以下の3点にまとめられるだろう。
1)体制的危機と少子化社会
2)晩期マルクスと労働力商品化の矛盾
3)社会的労働協同体とコミュニタリアニズム

1)現在オルタナティブ社会を考えるについては、多かれ少なかれ現代資本主義の体制的危機が前提される。地球温暖化をはじめとする環境破壊が、今や気候危機として人類の生存に迫り、ウクライナ戦争は原子力の利用を具体的に提起した。こうした体制的危機の深化が‎、結婚‎率や出産率の低下、そして「少子化社会」の長期的拡大を招いている。少子化による生産年齢人口の絶対的不足による資本の絶対的過剰生産は構造化する。いまや人類社会は、資本主義として歴史的限界を示し、体制的危機が露呈されているのだ。
 
2)『資本論』の労働力商品化の矛盾は、第1巻の剰余価値の生産に止まらない。第2巻の「可変資本の回転」で、「晩期マルクス」は労働力商品の社会的再生産を提起した。事実上だが、労働力商品A-G-Wの単純流通、「家庭・家族」での消費による再生差、生産と消費の結びつき、などに他ならない。家庭・家族と共に地域のコミュニティ「社会的労働協同体」が提起され、労働力商品化の矛盾が上記「少子化社会」の基礎となる。商品流通の個人主義や営利主義、さらに自由主義や民主主義を超えた家庭・家族、コミュニティの重視にもとづいた「地域循環型社会」の構築である。この点は、家庭・家族で明らかなとおり、超歴史的・歴史貫通的な「経済原則」に基づいている。

3)「地域循環型社会」が、超歴史的・歴史貫通的な「経済原則」に基づくとすれば、歴史伝統的な第1次産業、特に農業が基本に据えられ、家庭・家族と「社会的労働協同体」による単純流通の生産と消費の結合が計られる。その上でさらに「社会的労働協同体」のコミュニティの合意に基づいて、グローバルな資本流通、さらに先端技術の開発とも結びつく「宇宙開発」流通などが位置づけられるだろう。地域循環型社会の「コミュニタリアニズム」に他ならない。①地域の生産と消費が結合する単純流通、②広域的コミュニティ連合のグローバル循環、それに③宇宙開発連合などが、「地域循環型社会」の骨格だろう。

# by morristokenji | 2022-06-23 11:18
 「晩期マルクス」の『資本論』を前提にして、現代資本主義の農業を見ると、様々な論点が浮かび上がる。農業問題の専門家ではないので、体験的なこと、とくにわが居久根の里の問題などを取り上げたい。
 その前に、半田氏の農業重視の立場は賛成だが、資本主義を工業化社会、オルタナティブとして農業社会を提起されている。しかし、純粋資本主義の抽象である『資本論』との関係はどうなるのか?「オルタナティブ社会は、生物共同体に他ならない生態系を土台(=プラットフォーム)に置き、したがって<農>を基礎とし、<工>はその上で機能する構造として構想される」として「地域循環型社会」が概念化されているに過ぎない。しかし、『資本論』の純粋資本主義との関連としては、すでに前回⑩で考察したので繰り返さないが、可変資本の回転A-G-Wがいわゆる「単純流通」であり、グローバルな「資本流通」に対し狭域的で、労働者は必要労働を生活資料として買い戻す。その点で生産と消費が結びつく。
 工業化社会の第2次産業に対して、第1次産業は農・水・林など、歴史的な伝統部門である。統計学が専門ではないが、その上で近代社会として第2次産業の工業社会が位置づけられているのだろう。ここで農・工の関係は兎も角、第1次産業が歴史的伝統部門である点が注目される。半田氏は、上記のごとく「生物共同体に他ならない生態系」を重視する。しかし、わが居久根の里の田園を歩くと、徳川時代に開田されたのに、今日なお水神や馬頭観音が祀られ、コミュニティとしての「社会的労働協同体」が水利などを共同管理している。また協同組合も組織化されている。そして、ここにまた純粋資本主義の抽象を超えたコミュニタリアニズムの存在を見ることができる。
 以上のように、農業を中心とする第1次産業が、歴史的・伝統部門だとすれば、超歴史的・歴史貫通的な「経済原則」として、半田氏の言うエコロジカルな土台を構成する事になる。と同時に「地域循環型社会」の基礎に置かれることになるのではないか?とくに『資本論』との関連で、労働力商品化の矛盾が労働者の家庭・家族との関係で消費と結びつき、「地域循環型社会」の社会的再生産と関連するだろう。その点で、さらに地域のコミュニティと関連せざるを得ないし、農業部門を中心とする地域循環型社会も具体化してくる。労働力商品化の矛盾も、単に直接的生産過程の剰余価値生産にはとどまらない。家庭・家族の再生産、地域コミュニティを巻き込んだ生産・消費、さらに地域の単純流通とグローバル化する資本流通との対抗関係など、「地域循環型社会」と結びついている。そうした結び付きの中で労働運動は無論のこと、むしろ各種協同組合などアソシエーションとして運動も多様化するのであろう。 

# by morristokenji | 2022-06-17 10:24